私物整理もだいたい片が付いた。家具も元の位置に戻したし、十分綺麗な部屋と言えるはずだ。
優介は最後の箱を手に取り少し考えて、丁寧に引き出しの奥へしまう。きっと彼は俺を許さないだろうけど、それでいい。彼も彼らと等しく、なにもかも忘れてしまうのだから。
ふと、引き出しの最奥部に四角い箱が押し込められていることに気付く。
「(あ、懐かしいな。前はこっちのほうをよく使っていたっけ)」
引き出しを丸ごと引き抜いてテーブルへ置いた。説明書や買った当時の保証書の束を除け、その外箱を開ける。
出てきたのは、中等部の頃によく使っていたコンパクトデジタルカメラだった。優介はそれを手に取り、落とさないようにひとまずストラップを手首に通す。
写真は良い。一度通り過ぎればいずれ消えてしまいそうな日々を、正確に記録に残せる。シャッターを切るたびにそれらは永遠となり、そのときの感情さえも一緒に閉じ込めることができる。手放したくないものを、手元に残すことができる。
だが最近は、その場で現像まで終えられることからもっぱらポラロイドカメラのほうを愛用していた。この古いデジカメの存在なんてすっかり忘れてしまっていたのだ。カメラは忘れないための道具なのにそれ自体を忘れてしまうなんて、と優介は自嘲する。
久しく使っていないし既に壊れてしまっているかも、と思いつつ電源ボタンを押す。意外にもまだ電池は残っていたようで、企業ロゴのある起動画面が液晶に表示された。メモリーカードにもまだ余裕があるらしい。もうあと十枚程度なら問題なく撮れそうだ。
優介はなんとなく再生ボタンを押し、記録フォルダへ進む。このカメラで最後に撮った写真はなんだっただろう。
ぴっ、と電子音と共に画面が切り替わった。
表示されたのは、カメラ目線で笑う自分自身と、同じようにピースサインで笑う彼──天上院吹雪の姿があった。
「…………吹雪、」
優介は眉根を下げ、唇を強く引き結ぶ。日暮れの風の木立のような、どうにもできないざわめきが心臓のあたりを揺れ戻す。
「(だって、仕方ないじゃないか。きみは俺のことなんてちっとも理解してないんだから)」
この写真を撮ったのは確か、高等部へ上がる直前の春休み。特待生用の白いジャケットを吹雪と共に着れることが嬉しかった。自分たちは中等部から一緒で、高等部からもこれまでと同じように肩を並べられることが誇らしかった。そのことで胸がいっぱいで、新しいジャケットが届いたその日のうちに三脚を立てて記念撮影をした。
写真の中の吹雪と優介は晴れやかに笑っている。もうすぐ始まる新学期にわくわくしているのだろう、嬉しさや期待感に満ちた、なんの迷いもない笑顔だった。
はは、と乾燥しきった笑い声が漏れる。
このデータも消してしまおう。どうせあちら側へはなにも持って行けやしない。できるだけ身軽に身ひとつに、影も足跡も残さずに執り行わなければならない。
優介は削除ボタンに親指の腹を押し当てる。
『削除しますか?』
無感情な確認メッセージが表示された。喉元にヒヤリとした感覚が奔り、しばらくその画面で硬直する。デジカメを持つ手が細かく震え始めた。
コルクボードからピンを外すのと変わりない作業のはずなのに、決定ボタンを押すことができない。優介は深く息を吐きながらずるずるその場へしゃがみ込む。
──すべて終わりにしたつもりだったのに、まだこんなところに未練が残っていたなんて。
写真の中の吹雪は笑っている。普段と変わらない様子で、このあと彼の部屋を訪ねてもきっと同じ笑顔を浮かべるだろう。彼のそういうところが好きで、そういうところが嫌いだ。優介は背中を丸め、カメラの液晶をいまいちど眺める。
「消さなきゃいけないのに、消せないなあ。……消せるわけないよ」
ふと、廊下側からなにやら騒がしい音が聞こえた。複数の女子生徒の声と足音が奥から徐々に近付いてくる。きっと特待生の誰かが連れ込んだのだろう。いまは個人的な感傷に浸っていたいのに、と優介はうんざりした表情を浮かべた。静かな特待生寮が台無しだ、甲高い声は耳に響く。
プライベートな時間を邪魔されたことに苛々して、優介はカメラを持ったまま立ち上がりドアを半分開けた。一体誰が連れ込んできたのか、それだけでも確認しておきたい。
「!! 吹雪」
「あっ藤原! ちょうどいいところに!」
よりによってお前か、と辟易したのも束の間、彼は砂漠でオアシスを見つけたかのように顔を綻ばせた。どうやら吹雪はいつものように女子生徒たちに追われているようで、助かったよと言わんばかりに、半開きにしたドアの隙間へ体をねじ込もうとしてくる。
──いま部屋を見られるのはまずい! 片付けたとはいえ、カーペットの下には決定的な証拠が刻まれている。他の誰も気付かないような、どうでもいい変化を見つけるのが吹雪は得意なのだ、家具の微妙な位置のずれもきっと目ざとく気付くだろう。
「待って吹雪、いま部屋はちょっと!」
「えっあっそう、そうなのかい? ああ、夏休み前の荷造りで散らかってるんだね。じゃあ分かった、外に行こう。実はいま追われてて。……わぁ、もう追いついて来ちゃったかぁ」
女子生徒の大群が奥から押し寄せてきて、その迫力に二人は頬を引き攣らせた。吹雪は優介へ素早く耳打ちする。
「よし、逃げるよ藤原。いまから寮をぐるっと一周して外に出るから。撒くのは案外簡単なんだってことをきみに教えてあげよう。いくよ、3、2、1……GO!」
「わっ待ってよ吹雪!」
アイコンタクトだけで足りるとでも思ったのか、吹雪はろくに打ち合わせもしないままに優介の片腕を掴んで走り出した。躓きそうになるのをなんとか堪えながら、引っ張られるがままに優介も共に走り出す。手にしていたカメラはズボンのポケットに滑り込ませた。
背後からは女子生徒たちが至極楽しそうな顔で追いかけて来る。少しでも気を抜けば押し潰されてしまうかもしれなかった。吹雪のファンに巻き込まれるのは初めてではないが、これに自分が慣れることは今後絶対にないと言えるだろう。毎度うまくいなしている彼はすごいなと思う。
寮のあちこちを駆け抜け、時折ちらちらと後ろを確認する。
「吹雪おまえっ、今日は一体なにしたんだ」
「別になにもしてないよ? 一人にサイン描き始めたら、止まらなくなっちゃっただけ」
「ああ、絶対それだよ……。いちいちファンサービスに応じてるのが悪いんだ」
「だってさぁっ、向こうから求めてくるんだもの。応えてあげなきゃ可哀想だろう?」
「それでこんなに追いかけ回されるなんて、本末転倒じゃないか! 迷惑千万極まりない!」
「迷惑だなんてそんな。ボクとしてはむしろこのくらいスリリングなほうが、人生にメリハリがあって楽しいくらいさ」
「お前がよくても巻き込まれるこっちが迷惑なんだよ……! なんでこう、きみってやつはいつもいつも」
「ふふん、世界がボクを、放っておかないのさ……!」
とうっ、と吹雪は階段の一番上から飛び降りた。その跳躍は高く、天井からぶら下がるシャンデリアに激突するんじゃないかと心配になるほどだった。特待生用の白いジャケットが照明を眩しく跳ね返す。
しゅたっ、と彼はハッキリそう声に出し、華麗で軽やかな着地をキメた。
「吹雪!」
「藤原も早く来なよ! もう少しで撒けるはずだ、このまま海に出よう!」
彼は階下から自信たっぷりのウインクを飛ばす。舞い散る星屑に目がチカチカした。はぁぁ、と優介は心底迷惑そうに肩を落とし、苦笑いしながら階段を駆け降りる。ばかばかしくて眩暈がして、ただその感覚が不思議と心地いい。
──こんなに無礼で無遠慮で、どこまでも無邪気でうんざりするほど爽やかなやつを、俺は手放そうとしている。
「? どうしたの藤原」
「なんでもないよ。吹雪、どうせこのあと暇だろ? 海に行くなら灯台のほうまで行っちゃおうよ」
「いいね。きみ、あの場所好きだもんね。それに、もうすぐ夕日が綺麗に見える時間帯だ」
女子生徒たちが二人を探す声が後方から聞こえてくる。寮内を駆けずり回ったのが効いたのか、彼女たちも走るのに疲れたり飽き始めてきているようだ。見つからないことを残念に思ったのか、諦める者もちらほら出てきている。
そろそろ大丈夫だろう、と二人は判断し、寮を出て島の反対側にある灯台へと向かった。
*
のんびり歩いていたせいか、時刻はいつのまにか夜六時半を回っている。いつもなら夕食の時間だけど戻る? と道中で優介は吹雪へ尋ねたが、そこまでお腹空いてないんだよね、と朗らかに返されるだけだった。
ブルーグレーに淡くくすんだ空の奥に、巨大にそびえる入道雲が居構えている。日は落ちかけてはいるものの確かにまだ息をしていて、薄暗いのに薄明るい、なんでもない夏の夕方だった。
空気に海風の片鱗が混ざり始める。時間が遅いせいか周囲に人気はなく、周期的な波の音があるだけだ。満潮が近いのか、海面もすぐそこまで来ている。埠頭に降り立つと、まるで海の上を歩いているような感覚になった。
灯台は厳かに沖の彼方へと明かりを送る。吹雪は両手を背中側で結び、三歩前へ出て優介のほうを見返った。
「ねえ藤原。なにかボクに隠してるでしょ」
「……なんのこと?」
入道雲の不規則な輪郭が、夕陽の金に塗り替えられていく。水平線ぎりぎりまで広がる赤が、まるで血液を滲ませたように海面にも鈍く反射していた。
吹雪は柔らかく微笑んだまま、そっと唇を開く。
「だって最近のきみ、どこかおかしいもの。すぐどっか行っちゃうし、話しかけても上の空なことが多いし」
ざわり、と心臓のあたりが再び揺らされる。
そうだ、吹雪はこういった、ほんの些細な変化だって見逃さない。いちいちつぶさに反応できる、その感性と記憶力が羨ましい。
表情を崩さないよう、優介は平静を装う。
「別にたいした話じゃないよ。図書館で調べたいこととか色々あって」
「食事もあまり食べてないだろ。いや確かに、藤原がもとから少食なほうなのは知ってるよ。それにしたって」
「夏バテしててさ。ほら俺、去年もこの時期はあんまり元気なかったじゃない?」
「実技授業のときだってなにか変だ」
「そう? そこまで変かな。調整したデッキの具合もいいし、近頃はドロー力も鍛えられてきたかなって自分では思うんだけど」
「ううん、変だよ。……切れ味が良すぎる。藤原のデッキ、前はもっと、さ……」
「……」
どう、と沖から強い向かい風が吹く。
髪が顔にまとわりついてきて鬱陶しく、優介は片手で前髪を払い除けた。──我ながらよくもまあ、こんなにすらすらと言い訳ができるものだ。
次はどう返そうかとしばらく靴先を見ながら思案し、俯いたまま質疑応答を続ける。
「……前はもっと、どうだった?」
「…………前のデッキはもっと、優しかった」
「いまの俺は優しくない?」
「いや……少し違うな。言い方を変えるよ。前のきみはもっと、臆病だった」
ぴくり、と前髪を抑えたままの指先が跳ねる。
彼のこの無作法さは天性のものだ。わざとらしいほど正直な物言いで、土足で上がってきてはその悪辣さを撒き散らす。やりにくいことこの上ない。
靴の下に溜まっている影がじわじわとその黒さと濃さを増していく。
「臆病だった? 俺が? どうして吹雪はそう思うの。俺が臆病だったことなんて一瞬たりともないだろう。俺はいつだって強かっただろ」
優介は足元の黒い影へ、吐き捨てるように言葉をぶつける。
「俺は弱くもないし臆病でもないはずだ。前はもっと優しかったって? じゃあいまの俺はなんなんだよ。なんだって言うんだよ吹雪!!」
風が優介の髪を浚っていく。
足元のコンクリートは夕日を受けて、本来の灰色からは程遠い、尊大で濁ったゴールドへと色を変えられてしまっていた。きっとこの白いジャケットだって違う色になってしまっている。
これを止められなかった、お前が悪い。
「……藤原。そうやって、必要以上に怒るのよくないよ。最近のきみはすぐ熱くなる。それが様子がおかしいってことなんだよ」
「話を逸らすなよ吹雪! 俺の質問に答えろ。お前からは俺がどう見える。いまの俺は、お前にとってなんなんだよ……!」
直後、足元のコンクリートが血反吐を浴びたように赤く染まっていく。埠頭のきわギリギリまで届く海面も、断末魔が聞こえてきそうなほどに真っ赤だった。強く吹いていた向かい風がぴたりと止む。
藤原、と名前を呼ばれ、おそるおそる顔を上げた。
赤い世界の真ん中で、吹雪は微笑みを湛えている。それが嘘みたいに綺麗で嘘臭くて、優介はその場から一ミリも動けなくなった。深く吸った息も吸ったままで吐けなくて、吐くことがどうしようもなくおそろしい。
いっそこのまま、彼の目の前で息を止めてしまえたらどんなにいいだろう。
「藤原。最近のきみはおかしいよ。以前はもっと、対戦相手を傷付けないデュエルをしてた。亮みたいな志の高い厳しさとは真逆の、いい意味で優しい、……悪く言えば決め手に欠ける、臆病なデュエルさ。きみはベースがすごく、本当にすごく強いから、それだけでもいいんだろうけれど。……でも近頃は、そんなこと知ったもんかって言いたいみたいに振る舞って。まるで、なにもかも失い尽くしたからこそ前に進んでいけてるみたいで……」
吹雪が背負っている入道雲はむくむくと肥大していく。それは天井の幕を突き破ってしまいそうなほど高く昇り、平たいかなとこ雲となって空一面に広がった。元々の白さを残す雲と、死に際の赤い太陽と、青みを帯びた影色とでなにもかもがぐちゃ混ぜだ。
「そんなつらそうにしてる藤原なんて、ボクは見ていたくないよ。きみらしくない。……藤原、ボクはきみのことが心配なんだ」
日が落ちる。とうとう死に絶えてしまったみたいに赤色が消えて、世界が熱を忘れていく。海は波立つこともなく、凪による静寂がひたすらに痛くて苦しい。
吹雪は目を細めて、押し殺すようにはにかみながら言った。
「……ねえ、ボクじゃだめ? ボクじゃ、きみのなにかにはなれないのかな」
「……なにかって、なんだよ」
声がかすれてしまう。
吹雪はその端正な顔を目一杯甘く取り繕って、まるで誤魔化すような言い方をした。
「きみのためだけの、特別なものさ」
──今更、今更そんな都合のいいことを言われたって。
優介は下唇を噛む。握り込んだ手がズボンのポケットをかすめた。そういえばこの中にはデジカメが入っている。消そうとしたのに消せなかった、二人でピースサインをしているあの写真。
つくづくきみはずるくて、嫌になるほど、嫌いになるほど美しい。
「吹雪、お前はなにも分かっちゃいない。分かってなくていいんだよ。俺のことなんて放っておいてくれたらいいんだ。それなのに、分かったようなふりをして……!」
優介は吹雪へと歩み寄る。絞り出した声は徐々に大きくなり、知らず知らずのうちに早口になっていた。もう止まらない。喉の奥が、心の末端が削り取られるように痛い。
暴れ回る感情を制御できず、優介は吹雪の胸ぐらを掴んだ。ばくんばくんと心臓が鳴っている。
「分からなくていいのに、分かってくれなくていいのに! 全然分かってないくせに、なのに……!!」
真横に広がった口から、奥歯のぶつかる音がカチカチ漏れていく。全身がわななき、制服を持ち上げる手も震えていた。
吹雪は一切抵抗せず、喚き散らす優介の暴挙をあるがままに受け入れている。そんな無抵抗さに腹が立って、急所なはずの喉元を無防備に晒していることにも腹が立って、お前の全部が腹立たしくて、なにもかも全部が嫌いで。
──好きなところなんて、ひとつもなかった。
優介は足の裏へぐっと力を込める。
「なのに、そんなふうに言われたら……! ──分かってほしくなっちゃうじゃないか……!!」
掴んだ胸ぐらを、彼を、海へと投げ飛ばすつもりで、優介は腕を真横へ放り出した。
刹那。
「藤原、」
それまで無抵抗だった吹雪がようやく反応する。バランスを崩しゆっくり体を傾けていくその最中、彼は二本の腕を優介の顔へ伸ばした。
「──ふぶ、き、」
「ボクの特別になってよ、藤原」
彼の手がそっと両頬を撫で、そのまま首元へ移動する。するりと滑らかな仕草で、それを拒絶することなど優介にはできなかった。重力に任せて体が引き寄せられていく。軽い体躯が空中でぶつかり、重なり合う。落ちる。落ちていく。彼に、吹雪に、落とされる。
「特別、って、──」
海に落下する瞬間、吹雪は笑っていた。
出会ってからこれまでで一番綺麗で、一番卑怯な顔だった。
***