よすがらを往く-00.酔夢

 繁華街をうねるように抜けた先の小路、切れかけのネオンが不規則に点滅していた。ビルとビルの間に挟まれ、頭上には埃を被った配線や換気扇。敷き詰められたパイプのは、まるでなにかの暗号だ。空は細長く縦に切り取られ、天上ははるかに遠い。

 足元には何も書かれていない立て看板がひとつ。シンと静まり返った小路で、DDはその看板の前で足を止めた。奥には地下へ繋がる階段が伸びている。

 最低限の蛍光灯だけが光る階段を降りれば、何の説明書きもない分厚い扉に突き当たった。ハァ、と憂鬱なため息をひとつ吐いて、DDは迷いなくその扉を開ける。

「お久しぶりですね」

「お前、髪が随分伸びたな。何の用事で呼び出した」

 まあまあ焦らないで、と豊かな長髪をたくわえた男は余裕そうに言った。丸眼鏡の縁にはオレンジ色の照明が反射している。チッ、とDDは不快感を隠さずに男の隣へ座った。

 男の名前は佐藤浩二といい──四年前、世界チャンプのタイトルを掛けた決勝戦でDDと対峙した選手、のはずだ。彼との縁と言えばその程度のもので、どうもプロデュエリストは引退したらしいと風の噂で聞いたっきりだった。

 そんな男が何故今更、話があるなどと呼び出してきたのか、DDにはまったく心当たりがなかった。

 佐藤は手元のワイングラスを傾ける。真っ赤に澄んだ液体には炭酸の泡が沸いている。

「もう飲んでンのかよ。気が早いな」

「何も注文せずに待つのも気が引けますからね。それにあなたの奢りですし」

「は? 俺は奢るなんて一言も」

「別にいいでしょう。世界チャンプの賞金なんて大半が税金で持っていかれてしまうんです。そうでしょう? 節税だと思って奢ってください」

「詭弁だな。俺の金の使い道は俺が決める」

「それなら福祉ということにするのはどうです? 私への」

「ふざけんな。それも詭弁だ。お前もう酔ってんだろ?」

 DDは「ドライマティーニを」とバーテンダーへ注文した。

 カウンターが六席と、二人掛けのテーブル席が二つあるだけの小さなバーだ。店内の調度品はクラシカルな意匠で統一され、壁一面には一般的なバーがそうであるように酒瓶がずらりと飾られている。入り口がひどくわかりづらいことを考慮すれば、表では話せない薄暗い密談をするための場所ということだろう。

 目の前に差し出されたカクテルグラスに口をつける。ジンの鋭い切れ味が、舌表面や喉のべたついた粘膜を一気に浚う。DDは普段から、度数の高い辛口の酒をよく好んで飲んだ。

「で。話ってなんだよ」

「ふふ。心当たり、ありません?」

 DDはジャケットからタバコを取り出す。こなれた動作でそれを咥えて「ねえな」と煙と合わせて吐き捨てた。

「第一、俺は世界チャンプだぞ。世界一多忙なデュエリストと言っても過言じゃない。貴重な時間を割いて来てやってんだ。はぐらかさず単刀直入に言ってもらわねえと困る」

「ええ、なるべく手短に済ませますよ。DD、あなた次第ですが」

「あ?」

「私もわざわざ有休を取って、島から本土まで来てあげているんです。先日、同僚がひとり突然居なくなってしまったし、穴埋めが大変なんですよ。時間がないのはお互い様で」

「島? 本土? 何の話……」

 佐藤は飲んでいたワイングラスをコトリと置いた。

 『柔和』を擬人化したような顔立ちが丸眼鏡の奥からDDを見る。髪型こそすっかり変わってしまったものの、藍色の垂れ目は昔に見たそれと変わらない。当時から、こいつの両目はたいして綺麗ではなかった。

「今はデュエルアカデミアで教鞭を取っています。体も壊してしまったし、プロはとっくに辞めました。……この春から、あの子が入学するそうじゃないですか。あなたのかわいいご子息が」

「! お前、なんでそれを」

「別に不思議じゃないでしょう、私は教員なんですよ」

 ね、と佐藤は柔らかくまなじりを引き上げた。呼び出したのはそれが目的か、とようやく検討がつき、DDは動揺を悟られないようにタバコを一口吸った。煙を両肺へ入れ込みながら、カウンターの奥にあった灰皿を無造作に引き寄せる。

「新入生名簿を眺めていて驚きましたよ。史上最年少デビューのプロデュエリスト、エド・フェニックス。彼ほどの経歴ならウチは必要ないと思うんですが、どういう風の吹き回しで?」

「知らんな。入学したいと言うから書類を整えてやったまでだ。あいつの考えることはよくわからん、そろそろ難しい年頃ってやつだしな」

「ふうん。まるで父親みたいなことを言うじゃないですか」

「実際、書類上ではそうなってるからな」

 ふーっ、とDDは煙を吐く。

 デュエルアカデミアに入学したい、とエドが申し出たのはつい先月のことだ。既にプロとして活動しているエドは、プロデュエリスト養成学校であるデュエルアカデミアに入る必要はまったくない。飛び級で大学にも上がっていて、単位の取得も十二分だ。アカデミア本校は名門中の名門と名が高いことから、ただでさえ華々しい学歴をさらに飾り立てたいのかと訊ねたが、エドは首を振って誤魔化すばかりで、そういうわけでもないらしい。

 思春期の子供の思考はさっぱりだ、とDDは首を捻っていた。

 佐藤は組んだ両肘をテーブルにつき、平然とした態度を崩さないまま続ける。

「書類上もなにも、ちょっとした業界人ならみんな知っていますよ。世界チャンプ十連覇のDDと、エド・フェニックスが養子関係にあること。公然の事実じゃないですか」

「正式に公表した覚えもないがな。マスコミが勝手に報じたんだ」

 フン、とDDはグラスに口をつけた。アルコールが喉の粘膜を炙って落ちていく感覚。マスコミは余計なことをべらべら喋るから嫌いだ。この程度なら見逃してやっているが、どの情報を危険視すべきか常に気を張っていなければならない。

 きぃ、と椅子の金属が小さく鳴る。佐藤は体をDDのほうへ向け、どことなく薄暗い笑みをにっこりと浮かべた。

「というわけで、DD。今日あなたを呼び出したのは、保護者面談です」

「げ。俺そういうの苦手なんだよ」

「嘘ですよ。案外素直な人ですね」

「……」

 佐藤は指で口元を隠して含み笑いをする。DDが来る前から飲み始めていたせいもあるのか、しっかりほろ酔い気分になっているようだ。ワイングラスの嵩がまた一口分減る。

「保護者面談なら別に明るいところでやればいいですし、というか、離島で全寮制のアカデミアに、保護者面談なんて行事はありません。島に来ていただくだけで大変ですからね」

 こんな図太いやつだとは思わなかった、とDDは頭を抱えた。この神経の太さが当時の試合で発揮できていたら行末も変わっただろうに、と憐れむ気持ちが湧き起こるものの、今となっては何を言っても手遅れだ。

「保護者面談じゃねえならなんなんだよ」

「愚問ですねぇ。ただあなたと話したかった、じゃだめですか」

「おいおい気持ち悪ィな。そんな仲じゃねえだろ。お前は決勝で昔一度だけ闘った相手。それ以上の意味はない」

 それはそうなんですけどね、と佐藤は頬杖をついて遠くへ視線を飛ばす。長く伸びた髪の先端がテーブルに着地し、小さく弧を描いた。

 佐藤は言葉を選んでいるのかふわふわ浮ついていて、なかなか本題に切り込まないことにDDが焦ったさを覚えたころ、キン、と冷たい切先のような目が向けられた。

「地下デュエル、って知ってますか?」

「……」

 ぴりっ、と空気が即座に張り詰めた。DDは無言で灰皿へ灰を落とし、顔の下半分を隠すような動作でタバコを唇へ押し当てる。煙を吸い込むかどうか少し考えて、やっぱりやめた、と言わんばかりにDDは佐藤を見つめ返した。

「知らねえな」

「やっぱり素直な人ですね。態度に出てますよ」

「いや、本当に知らねえんだ。今日はじめて聞く」

 強情だなあ。と佐藤は俯き気味に眼鏡のズレを直す。が、レンズの奥の目は真実を疑っていない。

 ──バレている。

 DDは可能な限り素知らぬふりを保とうとする。このタイミングで視線を泳がせたりグラスの酒に口をつけるのは悪手だ。本当に何も知らないやつはそういった動作をしない。

「(どこまでだ? どこまで掴まれている?)」

 視線を佐藤へ固定したままDDは大急ぎで思考を巡らせる。場合によっては──ここで消えてもらうのも致し方ないか。いやしかし、アカデミアの教員が失踪したとなればすぐ足が着くのではないか。

 冷静にこの後の振る舞いを思案するうち、佐藤は思いもよらないことを言い放った。

「ウチは、新入生には一律で素行調査をしておりまして」

「? 素行調査?」

「高等部から編入する子たちは成績で寮を振り分けますから。華々しい経歴のエドくんをオベリスクブルー所属にすることは勿論決まっていましたが、他の生徒と同様に扱うべきなのは変わらない。まあ彼は芸能人みたいなものですからスキャンダルには無論気をつけているだろうし、叩いても何も出てこないだろうと思ってあくまで一環として素行調査を行いました。……そうしたらですよ。彼、夜中によく歩き回ってるそうじゃないですか。何をしているかまでは分かりませんが、街中の監視カメラの死角ぎりぎりに映り込んでいたりで。本人としては隠しているつもりなんでしょうけれど」

「…………へえ。そりゃ、初耳だったな。タレコミどうも」

 本当に初耳だった。エドが夜中に歩き回っていることなど、仕事で家を留守にしがちなDDは知る由もない。正義感溢れる特別純粋ないい子だったのにどうしてだろうな、とひとりごちる。

 お互い多忙なためエドと一緒に過ごすことはめっきり減ったが、近いうちになんとか調整して時間を作ってやるべきだなと思った。まだまだ子供なのだ、エドに傷がついたり危険な目に遭ったりするようなことがあってはならない。

 佐藤のこの切り出し方から察するに、どうもDD自身の行動がバレきったわけではないようだ。DDはわずかばかり安堵し、短くなったタバコの最後の一吸いを肺へ納めた。慣れた手つきで灰皿へ押し付け、二本目のタバコを取り出して無造作に咥える。

「それで、地下デュエルの話ですが。……先日、私のもとに怪しい招待状が届きました。差出人はモンキー猿山とかいうふざけた名前です。なかなかいい条件でしたよ、私も迷いましたが、一応教職の身だからと断りました。聖職ですからねえ。招待状の中身はどうも、不本意なかたちでプロを引退した者や、現役ではあるけれどマイナーリーグ落ちした者をスカウトする目的のようで。そういった者を集めて、過激で見せ物性の高い地下デュエルが開かれているとかなんとか」

「へーえ。物騒な世の中になったもんだ。……それがエドの夜遊びとどう繋がる?」

 佐藤は藍色の目をすっと細める。

「悪い大人が跋扈してるんですよ。子供が巻き込まれることがないよう、くれぐれも気をつけないと」

「あー……。成程な。そういうことか」

 悪い大人、という言い回しにDDは眉をぴくりと跳ねさせた。真に悪い大人なのは誰だろうか。二本目のタバコの火がじりじり燃え進んでいく。おもむろに口を開ければ、もわ、と広がった煙でDD周辺の色味が少し濁った。

 実のところ、DDはくだんの地下デュエルにたびたび顔を出している。やりとりされる金額の大きさに惹かれてくる者もいるが、DDはそうではない。

 業を思う存分解き放てること。内側から迫り上がってくるどうしようもない破壊衝動のままに暴れられること。表社会で正気を保つため、DDはそうやって定期的に地下デュエルへ参加していた。ああいった場に集まる者は皆口が硬い。日の目を浴びれない者同士だからこそ、なによりも信頼できる。

 佐藤は教員らしく心配そうな面持ちを浮かべる。

「エドくんはデビューしてそろそろ六年ですか。当時から注目選手だったのもあって、昔からよく試合を拝見してますよ。大人に混じって本気の勝負を交わす姿が目立たないわけがない。実に聡明ないい子ですよね。……とはいえエドくんは、いわゆる天才子役みたいなものでしょう。幼さや、年齢に不釣り合いな頭の良さで注目されているのに過ぎません。いまはまだよくても成長すればいずれ飽きられて」

「あー、もういい。悪いな佐藤。気を遣ってくれて。だが──エドが失墜することはない。それだけは確実に、俺が自信を持って言える」

 しかし、と言い淀む佐藤めがけて、DDは白煙を勢いよく吹きかけた。うっ、と即座に顔をしかめ、派手に咳き込む様子はなかなか爽快だった。たった一息の嫌がらせでチャラにしてやるのだから、俺にしては随分と甘い処遇だな、と背中を丸める佐藤を静かに見下ろす。無性に腹が立っていた。

「俺の前でエドを虚仮にするんじゃねえよ。天才子役? 勘違いもいいとこだ。そもそもエドは天才じゃねえ。あいつは凡才だ。運があるだけの凡才、努力できるだけの凡才。そういう地道な凡才が一番強いんだ。凡才は飽きられない。消費されて使い捨てられたりしない。エドは強く柔軟に、清く正しく生きるに決まってる。佐藤、お前が言いたいのはあれだろ? エドに負けが続いて世間に飽きられて、そのうち裏社会に堕ちるんじゃねえかっていう。くっだらねえ杞憂だな。あいつがそんな──そんなク、ズみてえな運命に、なるわけがねえだろうが」

 咳き込む佐藤へ向けて吐き捨てる。まるで自分自身を侮辱されたような、他に喩えようのない怒り。ここまでむかついていることが自分でも意外だった。

「あんなに美しいものを俺は他に知らない。凡才のエドの才は本物だ。俺と違ってな。佐藤、お前とも違う。そんなだからお前はプロを続けられなかったんだよ」

「ゲホッ、う、ッゲホッ、……は。ムキになるんですね。DD、あなた──父親みたいなことを言うじゃないですか」

「……!」

 DDは反射的に佐藤へ掴みかかっていた。胸ぐらを掴み上げれば、ぜえ、ひゅう、と喘息のような音が佐藤の喉笛から鳴る。思い切り煙を吸い込んだのか佐藤はぐったりと息苦しそうで、抵抗する素振りをまったく見せない。殴るつもりで振り上げた拳が行き場を失う。佐藤も佐藤で失言の自覚があるのか、暴力を甘んじて受け入れる姿勢でいた。

 それが全く面白くなく、DDは佐藤を掴んだままずるずると床へ倒れ込んだ。佐藤の黒髪が平たく広がる。

「ゲホッ、……すみません、さきほどは失言をしました。エドくんもあなたも馬鹿にしてしまった。謝ります」

 真っ当でまっすぐな謝罪がDDへ向けられている。しかしこの程度で溜飲が下がるわけがないと、襟元を掴む手のわななきが治らない。バーテンダーがカウンター奥からなにか言っているような気がしたが、耳の内側が塞がれているようでうまく頭に入ってこなかった。

「父親みたい? そんなことがあってたまるか。俺は──俺は、エドの父親じゃねえ」

「……父親じゃない? 父親なんでしょう、書類上だけだとしても」

「違ぇよ。父親じゃねえんだよ。俺は。全部紛い物だ。なれるわけがねえだろ……」

 

 ──思い上がるな。
 ──そんなの、夢のまた夢だろ。

 

 殺した男の顔が脳裏にちらつく。エドによく似た青二才。一目見ただけで分かる、エドによく似た、正真正銘の善人。自分がああいったものに極限まで近づいてしまっているなんて、信じたくなかった。

「DD。手を離していただけますか」

 佐藤がゆっくりDDの手を剥がす。先に線を踏み越えたのはお前のくせに図々しいやつだなと思った。

 揉み合いの最中に落ちたタバコが床で燻っている。これはもう吸えないな、と一度拾い上げたそれを躊躇なく灰皿へ捨てた。手が細かく震え続けている。

「…………悪かったな。取り乱して」

「いえ。デリカシーを欠いていたのは私のほうです。申し訳ありませんでした」

 二人して椅子に座り直す。DDは口寂しさを誤魔化すように、グラスに残っていた酒を一気に煽った。アルコールが粘膜を灼く。いずれにせよ佐藤が無礼であることには変わりない、話を続ける必要もないだろうと帰り支度を始めた。

「もう帰るんですか?」

「当たり前だろ。いつまでも付き合ってられるか。……というか、結局保護者面談だったじゃねえか。俺をこんなところまで呼び出した本当の目的はなんだ? 告げ口だけが本題じゃねえだろ」

 ライターを胸ポケットへしまいジャケットを正す。佐藤のほうを見ると、気重そうにじっとりと肩を落としていた。失言に加え、DDの地雷を踏んでしまったせいで顔色は曇ったままだ。そうですよね、という相槌は沈みきっており、一抹の同情心のようなものがDDの裡で頭をもたげる。が、そんな些細なことなんかに構っていられない。
 佐藤は陰鬱な面持ちで、言葉だけをDDへ投げた。

「さっきも言ったでしょう? あなたと話したかったんですよ、DD」

「……」

 ふふ、と薄気味の悪い笑みが向けられる。どこまで真剣に言っているのか分からず、まるで霧そのものと向き合っているような心地だ。

 佐藤は鬱陶しく伸びた前髪を指で掻き分けて、澱んだ両目でDDを見る。プロ現役だった頃はもっと清潔感のあるスタイルだったが、いまやその面影はほとんど消え去ってしまっている。野放図極まりない髪型は、不潔感を通り越してもはや不気味だ。

「エドくんの入学書類を見たときに思ったんです。ああ、これでまた縁ができた、って」

「縁?」

「私とあなたの縁は、同じ舞台で闘った相手、というものだけでした。私はあの頃から体調を崩し始めて……せっかくのタイトル戦なのに、試合途中で倒れてしまった。DD、あなたはそのとき迷わず駆け寄ってくれたでしょう?」

 四年前の、DDにとっては世界チャンプ防衛戦。佐藤は試合序盤から咳き込んだり足元がふらついたりと、体調が万全でないことは誰の目にも明らかだった。それでも中盤までは白熱した試合を繰り広げていたものの、とうとう限界を迎えてしまったのだ。

「……目の前で人が倒れたら誰だってそうする」

「いいえ。DD、あなたがそうしてくれたことが、私は嬉しかったんですよ。世界チャンプのあなたが、こんな私に手を差し伸べてくれたことが。DD、あなたは善い人です」

「………………なンだよそれ」

 DDは思わず奥歯を噛んだ。グラスは空で、二本目のタバコも潰えてしまった。口が寂しくてしょうがない。テーブルの下の脚が貧乏ゆすりを始めて、さすがにみっともないだろうと気付いて即座に押し殺した。

 その程度の善性なんて誰だって持っている。当然だ。そこまで悪に堕ちたわけではないと、DD自身もそう思っていた。しかし──。

「(自分で思うだけならまだしも、他人から指摘されるとこんなにクソな気分になるのかよ。……そんなこと言われたって何にもならねえだろうが。……クソが。俺もクソだ。そんな、当たり前のことくらいで)」

 絶句しているDDが面白いのか、佐藤はどこか満足そうに話を続ける。

「ですから、この縁を逃したくなくて。つい話しかけたくなってしまいました。エドくんの情報はおまけです。それに、今日だってこうして来ていただけました。世界一多忙なデュエリストのDDのことですから、間違いなく断られると思っていたんですよ」

 ウェーブのかかった黒髪が一房傾く。佐藤の笑みはじっとりと湿っていて、対面しているとどこからともなく生理的な嫌悪感が生まれてくる。湿度の高い霧の中をさ迷い歩いているような、その奥に自分自身の影を見るような、そういった根源的な嫌悪感だった。

「(そうか、こいつは俺に似てるのか)」

 佐藤のプロとしての活動はひどいものだったと聞く。体調を崩したのも、ファイトマネーのために過密すぎるスケジュールを組んだせいだと聞いた。貧乏と、家庭環境と、それに応えられない身体性能の脆さ、他人に助けを求められない生真面目さ。

 それらはほとんどそっくりそのまま、エドと──運命の子と出会う前の自分自身と、DDを名乗る前の自分と、よく似ていた。

 なにかが一歩違っていれば、隣で不気味に微笑むこの男は、俺だったかもしれなかった。

「DD、今日ここへ来ていただけて嬉しかったですよ。私はもう十分です」

「……そうか。俺はお前なんかと縁を結んだつもりは毛頭ないがな」

 DDは財布から紙幣を適当に何枚か抜き取り、バン!と佐藤の前に叩きつける。この店の料金体系がどうなっているかは知らないが、酒二杯程度であれば文句なく釣りがくる額だろう。結果的に奢るかたちになってしまったが、手切れ金だと思えば安いものだ。

「勝手に喜んどけよ、クソ野郎。気持ち悪ィ」

 所詮は同族嫌悪だ。はっきりられたくせに佐藤の笑みは変わらないままで、独りよがりな被虐心が全身から滲み出ていて吐きそうだった。

 DDはバーの扉に手をかけたところで、ふと思い出したように一度だけ振り返る。

「佐藤、お前が四年前のあの試合をどれだけ抱えていたかなんて、俺の知ったこっちゃねえ。それにな、俺はあの試合をあまり思い出したくねえんだよ」

「? それは何故?」

「唯一の不戦勝だからだ。世界チャンプの防衛戦として格に欠ける。それに──エドに格好がつかねえだろうが。だから俺は、佐藤、お前のことが嫌いだ」

 きつく尖らせた声で佐藤を射抜く。根底に横たわる闇がほとんど同質だからこそ、ここで明確に縁を切る必要がある。俺とお前は違うと、毅然として否定しなければならない。

「嫌い、ですか」

「ああ。嫌いだな」

「……分かりました。案外悔しいものですね、振られるというのは」

 DDは佐藤の戯言を無視し、扉を開けて、地上へ続く階段をひとり登っていく。蛍光灯がちらつくコンクリートの壁や段差に革靴がかつかつ響いて、そろそろ目を覚ます頃合いかもしれないなと思った。

 バーに残った佐藤はじっと、冷たく閉じた扉を見つめる。ほんのりと漂うのはDDが吸っていたタバコの匂いだ。煙を浴びてしまったし、この苦く甘い香りがしばらく服に染み付くことだろう。

 DDの足音も聞こえなくなったところで、佐藤はバーテンダーにすら聞き取れない小声でぼそりと呟く。

「格好がつかないから嫌だなんて。そんなの『父親』の言うことでしょうに。自分がもうとっくに『そう』なっていることに、どうして気付かないんでしょうかねえ……」

 佐藤はワイングラスをそっと傾けた。わずかに生き残った炭酸が今際の際のように弾けて、カシスリキュールの赤と混ざり合っていく。嫌々でも奢ってくれて嬉しかったですよ、と佐藤はグラスを見つめ、重々しく笑った。