暁闇-01.明星に請う - 1/4

「あれ、先客がいたんだ」

 扉を開けた途端、海風がふわりと吹雪の髪を膨らませた。時刻は明け方四時。月は沈んでしまっているが、太陽が昇るにはまだずいぶんと余裕がある。

 夜闇の面影を残す空を背景に、その少年は甲板にひとりきりで立っていた。

「誰?」

 来訪者を察知してか彼がゆっくり振り返る。背格好は吹雪と同じくらいだ。空気は依然として深く濃い色を纏っていて、船首に立つ彼の様相は判然としない。手すりにもたれてこちらを向いていることしか分からなかった。

 吹雪は後ろ手で扉を閉め、彼へ呼びかける。

「ねえ、海を見てるの?」

 船は濃紺の空と海とを削り取るように進んでいく。削られた紺の飛沫は海風に溶け甲板を吹き渡り、二人の耳横を順にくすぐった。吹雪が一歩ずつデッキを進むたび、ローファーの靴音がこつこつと響いていく。

「……うん。よく眠れなくってさ」

 声変わり前なのだろう、透明で無性別的な声だった。
 春先とはいえ夜明け前の風は肌寒く、吹雪はカーディガンの襟を首元へ引き寄せる。

「そう。ボクはなんだか目が醒めちゃって」

「ああ……海の上だもの、仕方ないよね。普通は船の中で寝るなんてしないんだし」

 そうだね、と吹雪は淡くあくびをする。体はそわそわと落ち着かないのに意識はどこかぼんやりしていて、未だ夢の中を泳いでいるみたいだった。ただ硬く反響する靴音が、ここが確かに夢の外側であることを明示してくる。

 船首へ向かって歩くにつれ、ひとり立つ彼の輪郭が徐々に露わになってきた。ゆるい寝巻きのまま出てきた吹雪とは違い、彼はさらりとした生地のフォーマルスーツを着ているようだ。小学校の卒業式を終えたそのままの格好でこの船に飛び乗ったようにも見えた。

「船酔いってわけじゃないと思うんだけどね。揺れるのがちょっと。ベッドも固いし」

「そう? そんなに揺れたかな。ベッドも普通のホテルにあるものと同じだったよ」

「……なるほどね。きみと僕とでは違うわけだ、いろいろと」

「?」
 気にしないで、と彼は暗がりの中で言った。

「ところで。この船に乗ってるっていうことは、きみもアカデミアの新入生なんだろう? ボクの名前は天上院吹雪」

 吹雪も手すりの前に立ち、すぐ横にいる彼の顔を覗き込んだ。ぱちり、と、吹雪の褐色の瞳と彼の薄紫の瞳がぶつかって弾ける。神秘的で謎めいていて吸い込まれるようなその色に、吹雪は文字通り一瞬で目を奪われた。

「天上院……スゴい名字だね」

「よく言われるよ。でも派手さがあっていいだろう?」

「あはは、確かに」 

 紫のまなじりがふわりと細められる。あちこちがくるくると跳ねた軽やかな癖毛。青暗い空のせいで不明瞭ではあるものの、彼の髪は明るい日の下であればきっと綺麗な若葉色をしているのだろうと思った。

「この名前、ボクは気に入ってるんだ。きみは?」

「僕は藤原優介」

「藤原……あ! きみの名前には覚えがあるよ。確か、ええと……そうだ、アカデミア中等部の受験会場で! 実技試験をトップ通過してた子の名前だ。いろんなジュニア大会でお馴染みの子たちもたくさん受けに来てたのに、みんなきみに負けてしまって。あんなに強いなら大会記録のひとつやふたつあって当然なのに、全然見覚えのない名前だったから逆に印象的だったんだ。もしかしてきみがそうなのかい?」

 吹雪は再度、優介と名乗るその少年をじっと見つめる。そういえばこの黄緑色の頭髪を試験会場で見かけたような気がした。どこかですれ違っていたのかもしれない。対戦の組み分けのせいで彼と闘うことはなかったが、会場内の電光掲示板にその名前が出ていたことは思い出せる。

「え、うん。そうだけど、……」

 名前を覚えられていることが意外だったのか彼は少し驚き、気まずそうに口籠った。なめらかなカーブを描く横顔が、つい、と海のほうを向く。

「トップ通過だったからってどうにもならないよ。入学したらみんな一緒だもの」

「そんなことないさ。ほら、高等部からは特待生の制度もあるって聞いたよ。成績優秀っていうのは自慢に思っていいんじゃないかな。トップだってみんながなれるわけじゃないんだし」

「それはそうだよ、でも、……」

 優介は視線を真下の海へ落とす。柔らかい癖毛が振り落ち、彼の輪郭の大半を覆い隠した。

「……だって、悪いよ。みんな真剣なのにさ」

「? どういう意味だい」

「僕はそうじゃないっていう意味」

 船が波を砕き進む音だけが響く。訊き方がよくなかったのだろうか、優介にそっぽを向かれてしまった。どうしたものかと吹雪が考えあぐねるうち、彼はこちらと目を合わせないままにボソボソと喋り出した。

「──え? 違うって、別にそんなのじゃないよ……ただ寝不足なだけ。……確かにオネストの言うことも一理あるけどさ……」

「ねえ、誰と喋ってるの?」

「あぁほら言ったそばから。──ううん、天上院くん。なんでもないよ」

 吹雪は不思議そうに小首を傾げる。いまこの甲板には自分たち二人しかいないはずなのに、優介が第三者と会話しているように見えた。目線や口調からしてその人物は空中に浮かんでいるらしく、まるで海の亡霊とでも喋っているようにも思えた。深く追求するとなんだか背筋が震えだしそうで、吹雪はそこで考えるのをやめる。

 優介は空中にいる何者かから視線を下ろし、ふたたび海面を眺めながら深く息を吐いた。

「……入学式前日に、ああでも日付が変わってるからもう今日なのかな。……こんな話をするのもなんだけど。──実はね、僕はデュエリストになりたくてアカデミアを受けたわけじゃないんだ。受けてみたらって言われたから受けただけ」

「え、……言われたって、誰に」

「施設の大人たちから」

 しせつ、と吹雪は唇をかすかに震わせて復唱する。

「僕はデュエルモンスターズがすごく強いみたいなんだ。ジュニア大会なんてものがあるっていうのは知らなかったけど、小学校でも施設でも一番だった。そんなにデュエルが得意なら中学はアカデミアを受けてみたらって言われてさ。全寮制なんて珍しいし……それに、どうやら僕みたいな子には学費の一部に補助金が出るらしい」

 眼下の海は絶え間なく飛沫を上げている。真昼にきらきら輝く海とはほど遠い、不透明でどこまでも果てしない深淵を体現していた。脈絡なくカーディガンの左肩が緩んで落ちて、吹雪はそれを正しい位置へと戻す。

「つまり、僕は体よく追い出されたっていうわけ」

 はは、と優介が自嘲気味に笑う。冷たく乾燥したその笑い声に吹雪の琴線はさっと撫でられ、まるで真冬のころに返ったような気がかりな寒さがほとばしる。

 吹雪がそっと目を細めたのにも彼は気付いていないようで、そのまま独白を続ける。

「だから、悪いよ。みんな真剣にデュエルを勉強したくて来てるんだろう。なのに僕みたいなやつがトップなんて取っちゃってさ……。きみも、本当はそう思ってるんじゃないの。いま僕の話を聞きながらさ……ウワ、なんだか暗くて嫌味なやつだな、とか、思ってるんじゃ、ないの……」

 彼が落とした声が水底へ飲み込まれていく。そんなことはないよ、と吹雪はフォローを入れるが、際限なく滑り落ちる言葉をすべて拾い上げることは不可能だった。金属の手すりがやけに冷たい。夜風に当たって手が冷えてしまったのだろうか。

「暗いやつだとか、そんな……。大人のひとたちがアカデミアを受けてみたらって言ったのだって、追い出そうとして言ったわけじゃないと思うし、……きみの才能を信じてそう言ったんじゃないかなって、ボクは思ったけど」

「……」

 優介は俯いたままだ。これっぽちしか掬い上げられなかったけれど、それでもほんのちょっとでも彼が受け取ってくれたらいいなと思った。そう考えていると彼はにわかに顔を上げ、吹雪と目を合わせて、物寂しそうに笑った。ざわり、と胸の暗闇を突かれるような感覚が襲う。

「ごめんね、嫌な気分にさせてしまって。ああ、やっぱり言わなきゃよかったかなあ……」

 優介の表情は開き直ったような薄笑いへ変わる。その態度に、同情とも異なる不明瞭な感情が湧き上がり、吹雪は唇を丁寧に結び合わせた。

「……えっと、藤原、くん」

 なに、と優介がこちらを見遣る。吹雪は一瞬だけ体を手すりに引き寄せ、それを突き飛ばすようにして手を離した。反動で後ろ向きに跳び、だだっ広い甲板にひとり躍り出る。この場に覆い被さった陰鬱な空気を踏み壊すようにステップを重ね、右腕をまっすぐに頭上へ掲げた。

「──きみの瞳に、なにが見える?」

「え?」

 突然飛び出して行った吹雪に呆気に取られたのか、優介はぽかんと口を半開きにしている。中央で決めポーズを取る吹雪と、吹雪が指している先とを交互に見比べ、どう反応していいか決めかねている様子だった。吹雪は今一度高らかに声を張る。

「ほら! ボクが指差してるところだよ。あるだろう、きみの瞳に映るものが。きみの瞳に、なにが見える?」

「えっと……? 夜空……?」

「違う、もっとシンプルに!」

「空……?」

「惜しい!」

「……じゃあ、天?」

 にっ、と吹雪は口を大きく横に開いた。くるりと半回転して腰を振り、すぐさま向き直って親指を立てる。

「ん〜join!」

「……!?」

 ばちん、とウインクと一緒に目尻から星屑を飛ばすのも忘れない。そのままのポーズで数秒キープし、優介からのリアクションを待つ。──が、彼は依然固まったままで、どれだけ待っても船の汽笛があたり一面に鳴り響くだけだった。

 吹雪はウインクで瞑った片目をおそるおそる開く。彼はその場で静止している。反応は皆無だ。自信が立ち消え、吹雪の上向きだった頬は少しずつ元の位置へと下がっていく。突き出していた片手もじわじわと重力に引っ張られていった。

「あれっ、もしかして……面白くなかったかな……? どうしよう、これいつも大ウケするボクの十八番だったんだけど。そうだもう一回やろうか!? きみの瞳になにが見え──」

「──ぷっ、あははっ」

「!!」

 うろたえる吹雪を見て優介はようやく笑い出した。年相応の屈託ない笑顔を浮かべ、口元を隠すように手を添えているがまったく隠れていない。彼のリアクションを引き出せたことに吹雪の目はきらりと光る。

「わ、ね、ねえ面白かった!? どういまの!?」

「どうって、あははっ、なんだよあれ。天join? 天上院、ってこと?」

「そう! そうなんだよ、いい名前だろう、天上院ってさ!」

「っはは、可笑しい!」

 空と海の果てがほのかに明るく赤く染まっていく。

 夜明けの刻ももうすぐだ。優介が晴れやかに笑っていることが嬉しくて、吹雪の内側もじんわりと温まっていった。調子付いた吹雪は再び右腕を挙げて天を指す。男子にしては長めの茶髪がふわりと靡いた。

「笑ってくれて嬉しいなあ! ね、いいだろう! 上を見るだけで気分も持ち上がるし。下ばっかり、海ばっかり見つめてちゃあ気分も滅入っちゃうよ。それにほら、見て。もうすぐ夜も終わるのに、まだ一等星が残ってる」

 吹雪の言葉につられて優介も斜め上を見る。徐々に明るくなってきた空に、金色の星がたったひとつだけ煌々と輝いていた。澄んだ海風が二人を包む。

「あの星、きっと神さまが片付けるのを忘れてしまったんだね。月も沈んで太陽もまだ出ていないのに、たったひとりで光ってて。ちょっと素敵だと思わない? ひとりでもあんなに眩しく輝けるなんてさ」

「あはは……なかなかロマンチックなことを言うね。僕はそういうの恥ずかしくなっちゃうけど、結構嫌いじゃないよ。特別ってかんじがする」

「ウンウン。そう、それはよかった」

 にこにこと口角が自然と持ち上がる。吹雪は片腕でその一等星を指したまま、くすくすと笑いを溢す優介のそばへ駆け寄った。

 向こう側の水平線が、明るさを確かなものとして持ち始めている。

「暗い気分になっちゃったら、たまにはこうして上を見るといいんじゃないかな。あの一等星だってとても綺麗だ」

「そうだね……それはそうだ。たまには上を向いたほうがいいね。天上院くんの言うことはもっともだよ。ただ、あの星は一等星じゃない」

「えっ、そうなの?」

「あれは金星。恒星じゃなくて惑星さ。理科で習っただろ?」

「えーと、そうだったっけ。一番まぶしく光ってるのを一等星って呼ぶんじゃないのかい?」

 違うよ、と彼は穏やかに微笑む。

 大気に溶けていた紺色が薄まり、いよいよ明瞭な朝がやってきた。優介の若葉色の髪や睫毛が、ほんのわずかな光をキャッチして繊細に輝きだす。毛の一本一本は細くて柔らかく、ところどころが銀色に透けていた。

「一等星は恒星で一番明るい星のこと。金星は太陽系の惑星だから一等星じゃないんだよ。恒星と惑星は別だからね。それに、金星のほうが一等星の何百倍も明るい」
「へぇ……そうなんだ。知らなかったな」

「ねえきみ、ほんとに明日から中学生なんだよね? アカデミアってデュエルの授業だけじゃないんだろ、普通の授業もあるって聞いてるけど」

「ははは、勉強はあんまり好きじゃなくてネ……。まあきっと、なんとかなるさ」

「大丈夫かなあ、心配だ」

 優介は片眉を下げて笑う。心なしか、最初に声を掛けたときよりも彼の顔つきは柔らかい丸みを帯びていた。春の草葉のようにたおやかな表情に、吹雪は思わず「綺麗だ」と口走る。

「え?」

「あっいや、そう、星が。星がね。金星が綺麗だねって」

「? うん、綺麗だね」

 吹雪は咄嗟に人差し指で斜め上を差し直す。優介はつられて空を向き、その薄紫の虹彩で再びその金星を捉えた。

 銀色の風が吹く。

 彼の黄緑の髪の先が、夜明けの空間をくすぐっていく。

 こちらの視線に気付いたのか、優介は首の角度そのままに視線だけを吹雪へ降ろした。少量の気恥ずかしさと共に、彼はそっと口を開く。

「……ねえ、なに見てるのさ。誤魔化すんならもう少しうまくやったら?」

「はは、バレちゃしょうがないな……。仕方ないよ、だって綺麗なものって見惚れちゃうだろう?」

「まさかとは思うけど、それ、僕が綺麗だって言ってる?」

「まさかなんかじゃないよ、分かりきったことさ。ボクの主観もあるけど、客観的に見てもきみはうんと綺麗だよ。入学したらきっとみんなが釘付けになる」

「さすがにそれは言い過ぎだよ。そういうふうに目立つのは御免だなあ。……それに、僕よりきみのほうがずっと、……ううん、やっぱりやめた」

「え、いま何を言おうとしたんだい? ねえねえ」

 吹雪はぐいぐいと片腕を優介へ押し付ける。ああもう押しが強いな、と突き返されるが彼の言葉尻は浮き上がっていて、本気で嫌がっているわけではないことは明白だった。

 二人は手すりから落ちないよう気をつけながら小突き合いを続ける。やがて足取りは甲板の中央へと移り、二人分の笑い声があたり一体を駆け回った。それはアドリブだけで作られる喜劇のようで、観客を必要としない、ただ純粋に自分達二人のためだけに存在する時間だった。

 ふと、水平線の果てからようやく太陽が顔を出す。銀色だった風も黄金へ変わり、沖のさざ波が細かく乱反射し始めた。曙光の眩しさに二人は動きを止め、消えていく夜の帷にゆっくりと息を吐く。

 優介がおもむろに口を開いた。

「僕、さっきまでちょっと緊張してたんだ。寝不足で気が立ってたのもあるけど、新しい環境に行くのが不安でさ。……でもきみのおかげで緊張が解けたよ」

「それはよかった。きみの手助けになれたのなら、ボクも嬉しいな」

 海の向こうから朝日の筋が差し込んでくる。吹雪の茶褐色の髪と目が太陽光に透ける。今日はきっといい日になるよ、とはにかめば、優介も同じように笑い返した。

「そうだね。……でもきっと今日だけじゃなくて、この先ずっといい日が続くような気がする。なんとなくだけど」

 暖かく柔らかい金色が世界を徐々に塗り替えていく。いまこの場で彼と同じ風と光を浴びていることがただただ誇らしかった。

 優介は思い出したかのようにあくびをした。船内へ戻ろう、と吹雪は言い、二人連れ添って甲板を後にする。
 吹雪は扉を占める直前に、もう一度空の斜め上を見上げた。

 あのたったひとりの孤独な星は、まだかろうじて視認できるものの、いずれ強すぎる太陽の光に潰されてしまうだろう。神さまに忘れられてしまったせいで、朝日の中へ出て行くことはきっと赦されていない。それがどこか可哀想に思えて仕方なかった。

 

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