蛇口は冷たい水を吐き出し続ける。もしお湯が出たなら、この寝癖ももう少し直しやすかったのかもしれない。私立校なのだからそのくらい気の効いた設備を付けてくれたっていいのに、と優介はひとりごちる。
「(うーん、全然直らないな。どうしよう……)」
洗面所の鏡に映る藤原優介の頭頂部で、その毛束は明後日の方向を向いて鎮座している。どんよりとした曇り顔で優介は鏡を覗き込んだ。
もう放課後だ。今日は授業後の休み時間に違うクラスの友人から呼ばれることが多く、まとまった時間が取れなかった。昼休みの時間も似たようなもので、こんな不名誉な寝癖は放置するしかなかったのだ。今日一日この髪型のままで過ごしたのかと思うとちょっとした羞恥心が湧き上がってきて、どうもむずがゆい気持ちになる。
水で濡らした指先で毛束を揉み、しっかりと撫で付ける。癖を上書きするようにねじったり引っ張ったりしてみるが、指を離すとすぐさまぴょんと起き上がってしまう。さっきから何度も試しているが一向に元に戻る気配はない。これはいっそシャンプーでもしないと直らないだろう。
優介はじっと鏡の自分と目を合わせる。
顔に出過ぎだ、と亮に言われたことを思い出し、より深く自身の目を覗き込んだ。猫のような吊り目。凝視すればするほど目つきは三白眼気味になり、人相の悪さが際立っていくように感じた。眉間には無意識なのか皺が寄っている。
「(こんな目つきの悪い顔が綺麗だなんて。そんなわけがないだろう)」
寝癖矯正のために濡らした水が頭皮を這い、そのまま額へたらりと流れてきた。優介は手の甲でそれを拭う。
この緑の髪自体は悪くない、と思う。時に悪目立ちするのが玉にきずだが、柔らかくしなやかな黄緑色は案外気に入っていた。紫色の瞳だってそうだ。珍しい色だと思うし、単純に色として見ても綺麗だ。
自分の顔が嫌いなわけではない。問題なのは表情のほうだろう。
「(とはいえ、表情なんてどう直していいか分からないからなあ。顔に出過ぎだって言われたって、僕より天上院のほうがずっと顔に出るタイプだろうに。いやでも丸藤が言いたかったのはきっと、不機嫌さを表に出すなっていうことなんだろうな……。でも、でもさ……)」
はぁ、と途方に暮れたような溜息が出ていく。内側から発生した重苦しさに肩が落ちた。
「マスターはここへ来てからずいぶん明るくなられましたよ」
「オネスト、」
鏡の中の空白から話しかけられた。首を少し後ろへ傾ければ、先端だけがオレンジに染まった白い天使の翼が視界に入り込む。精悍で逞しい体格の彼は、優介にしか見えないデュエルモンスターズの精霊だ。
オネストはその西洋絵画のような顔をふっと緩ませた。
「マスターは最近、自然体で笑うことが多くなられました」
「そう? そうなんだ……そういうの、自分じゃ分からないものだね」
「同時に、自然体で怒ることも増えたように思います」
むっ、と優介は即座に奥歯を噛む。
「怒ることが増えたって? それがなにさ。だいたい、僕を怒らせるほうが悪いんだよ。今日だってさ、」
「いえマスター、そうではなくてですね」
オネストは跪いた。彼の強大な翼が、慈愛を体現するかのように優介を包み込む。
「ぼくが言いたいのは、ご自身の気持ちに嘘を付かなくても済む、素晴らしい御友人を持たれたということですよ」
「……友人だなんて、そんな。あんなやつ、友達でもなんでもない……」
「よく聞いてくださいマスター。マスターはまず、作り笑いが減りました。この島へ来てまだひとつき程度なのに、表情が劇的に変わったと、そう感じます。この環境を心の底から幸福に感じておられるのですね」
「…………これを幸福と呼ぶの?」
「ええ。御心のままにいられることを、幸福と呼ばないわけがありません。笑顔が増えた一方で怒ることも増えましたが、以前は怒ることもよく我慢なされていたじゃないですか。怒っても大丈夫なほどの信頼を、あの御友人との間にお持ちなのですね」
にっこりと微笑むオネストから優介は思わず目を逸らした。無意識だったことをずばり言い当てられ、言葉を失ってしまう。オネストとはほとんど一心同体の関係だ、精神年齢だって彼のほうがうんと大人だし、このくらいの悩みなど容易く見通せてしまうのだろう。
事実、優介は以前はあまり怒らない子供だった。本音を言って嫌われるのが怖くて、内側へ押し込めるばかりの日々を過ごしていた。ところがこの島へ来てからというものの、そんなふうに我慢することは言われてみれば極端に減っている。のびのび過ごせる自由さを感じていたのも確かだった。
オネストは優しく語りかける。
「嫌われても平気なほど興味のない相手か、嫌われてもまた仲良くしたい相手か、そのどちらかでなければ怒るなんてできませんから。マスターの場合は後者でしょう?」
「……うん」
「さすがですマスター。それなら、もうお分かりですね?」
ね、とオネストは優介の手に自身の手をそっと重ねる。精霊は実体を持たないため、現実に干渉することができない。それでも、重なった手からは彼の善性がじんわり染み込んでくるように感じた。
「……でも、どんなふうに言ったらいいのか分からないよ。だって一番先に天上院と会ったのは僕だって言うのにさ。それなのにあいつ、」
「ボクがどうかしたの?」
「!?」
入口のほうを見ると、壁越しに吹雪がひょっこりと顔を出していた。突然の出現に心臓がばくんと跳ね上がる。いまオネストと話しているところを見られただろうか、と不安がるも当の本人は既に姿を消していて、どうして肝心なところで助けてくれないんだと優介は心細い気持ちになる。
「てっ、天上院。どうしてここが?」
「だってきみ、今日一日ずっと寝癖つけたままだっただろう。きっとどこかのトイレで直してるんじゃないかなと思ってさ」
「あ、う。これは、その。寝癖、全然直らなくって。……ちょっと待って、もしかして校内のトイレを順番に回って探してたの?」
「そうだよ? 中等部校舎のトイレを順番に。これくらい当然だろう?」
友達なんだもの、と吹雪は続ける。
「……ともだち」
優介は小さく復唱した。
ともだち。
──そのなんでもない響きが、なぜだかどうも引っかかる。
吹雪はいつもと変わらない様子で優介へ近付き、ねえ、と顔を覗き込んだ。長い睫毛に覆われた両眼には一点の濁りもなく、そこに宿された揺るがない正しさに心がぐっと負けそうになる。
「亮から聞いたよ。藤原が癇癪起こしちゃったって」
「癇癪だなんてそんな」
「癇癪だろ。うん、無理もないさ。きみはきっと、ボクが女の子に囲まれてるのが面白くないんだろうね」
「っ別にそういうわけじゃ、」
「じゃあどういうわけなんだい」
「それは、……」
応酬に返せず優介は思わず目を逸らす。塩化ビニールの床はお世辞にも綺麗とは言い難く、あちこちに無数の足跡がうっすら散らばっていた。校内が完全土足で、上履きという物が存在しないためだ。
こちらが口を噤んでいるのをいいことに、吹雪はさらに体をもう一歩近付けた。無言の圧に優介は後ずさり、壁と吹雪とで挟み込まれるかたちになる。
「藤原、どうしてきみは怒っているの。言ってくれなくちゃ分からないよ」
「……だって、……そんなの…………」
内臓がぎゅうと引き絞られていく。声もか細いものしか出てこない。吹雪の言葉はおそろしいほどにまっすぐで、毒になるほどに清らかだった。まるで高濃度の酸素に晒されているような、快適さを装った悪意ない暴力を受けているようにも感じた。深く呼吸するのが苦しい。
背中と後頭部が壁にぴたりとくっつく。吹雪の顔は真剣そのものだ。──ただ、優介はその真剣さに応えれるだけの回答を、まだ用意できていない。
「……丸藤から聞いてないのか。僕はもう天上院と口をきく気はないんだよ!」
迫ってくる吹雪を跳ね除ける。どうして怒っているかなんて、そんなのこっちが知りたいくらいだ。このまま中等部寮に戻ってしまおう、と急ぎ足でその場を離れようとしたそのとき。
「待てよ藤原!」
片腕を掴まれて引き止められる。その掴まれた腕も振り払おうとするが、より強く掴み返されてしまいそれは叶わない。倒れ込みそうになったのをすんでのところで回避し、優介はなんとか吹雪のしつこさから脱出した。
「藤原! 待てってば!」
「だから! 天上院とはもう喋らないって言ってるだろ!!」
廊下を走りながら吹雪へ言い返す。声は知らないうちに大きくなり、校内にまばらに残っていた生徒たちもなんだなんだと二人をちらちら眺めていた。もしも教師とに見つかれば二人ともただでは済まないはずだ。
「それならボクを無視したらいいって話だろう! 律儀に反論してくるのが悪いんだ!」
「はあ!? なんで僕が悪いって話になるんだよ! 悪いのは天上院のほうだろ!?」
「だからその理由を教えてくれって言ってるんだ!!」
「うるさいうるさい! 追いかけて来るなよっ、このお節介野郎!」
「お節介のなにが悪いんだ、それが嫌なら自分の機嫌くらい自分で取りなよこの癇癪持ち!」
「誰だって癇癪のひとつやふたつあって普通だろ! ずいぶん口が達者で生意気じゃないか、天上院の癖に!」
「なっ……ボクだって口喧嘩くらいするさ!! バカにするなよ藤原、さっきから屁理屈ばっかり言って!!」
張り上げられた声が壁や天井に反響する。
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