自宅の前の曲がり角に千秋が立っていた。
「……元気か?」
背中を電柱に預け、片手にレジ袋を提げている。軽い変装のつもりなのかマスクをしていて、状況だけを箇条書きにすれば不審者と思われてもしょうがない。が、頭上の街灯が明るく千秋を照らしているおかげで、不審者というよりはどこか物語じみた様相だと感じた。
見なかったことにもできず、薫は淡くアルコールの回った頭で千秋へ近付く。
「……元気か、なんてそっちが聞けたことじゃないでしょ」
「お互い様だろう。そういうことにしてほしい」
「はいはい、わかったよ。つらいのなんてみんな嫌だもんね」
薫は鍵を開け、千秋を中へ招き入れた。言うまでもなく家は真っ暗で、ほかに誰の気配もしない。
あの日以来、家はがらんとした空洞になっている。スイッチを押すとすぐさまぱあっと明るくなり、現実に帰ってきた気がした。玄関に赤いバスケットシューズが置かれる。
「さっきの話、見てたんでしょ?」
飲み物を出そうとキッチンに立つ薫を千秋は引き留めた。レジ袋の中身を広げ、そういう気分ではないかもしれんが、と前置きをしてチューハイの缶を渡す。
「……やっぱり気分じゃないか。やめよう。羽風はさっきも三毛縞さんと飲んでたしな」
「いや、もらうよ。せっかくだし」
「……盗み聞きしてすまなかった」
「いいよそんなの。俺だって……黙ってて隠してて、ごめん。ほんとはもっと早くに謝るつもりだったんだけど。……言えなくて」
「事情があったんだろう。無理矢理聞き出すのは本意じゃないからな……」
ローテーブルにあぐらをかいて座り、ぷしゅう、とプルタブを開け、互いの缶を小さく突き合わせ乾杯をした。
千秋は袋からさらにおつまみのセットを取り出し、無造作に机へ並べていく。意気消沈していた薫を励ますため、押しかけようとしていた日のやり直しだ。意にもせず奏汰と再会してしまったことでなあなあになっていたが、それでも改めて薫とは話すべきだと千秋は考えたのだ。
缶を口元に当て、千秋は小声で「知らないことばっかりだ」と呟く。
「……こんなかたちで知ってしまってよかったんだろうか。奏汰の口から直接聞くべきだったんじゃないだろうか。奏汰が話したくなるのを待つべきだったんじゃないかって──」
千秋が無言になる。奏汰について千秋は必要最低限のことしか知らなかった。『おうち』についても風の噂程度のことしか知らず、そのまま六年が経ってしまった。
「どのへんから聞いてたの?」
「猿が滑るとか不要がどうとかそのへんから」
「百日紅に芙蓉ね。花の名前だよ。夏の花」
「む、そうなのか? 植物には詳しくなくてな」
「別に、そこは本題じゃないし。……ああ、それならだいぶ見られちゃってたなあ……。思い出すとけっこう恥ずかしいんだけど」
「いいじゃないか青春っぽくて。俺は感動したぞ」
飲みはじめて数分も経っていないというのに、千秋はよっぽどアルコールに弱いのか既に顔が赤くなりはじめていた。千秋と酒を飲むのは初めてではないが、弱いならやめとけばいいのに、と薫はそのたびに思う。本人が楽しそうだからそれでいいのだけれど。
「感動したし、羽風は……奏汰のことがほんとうに大事なんだなって思った」
おつまみに伸ばしかけた手が一瞬、空中で固まる。千秋はぼんやりと正面の窓を眺め、脈絡なくカーテンの色を褒めた。いきなりなに、と薫が戸惑うのも無視して、千秋は話を本筋へ戻す。
「大事に思ってるんだろうなあっていうのは知ってたんだ。それこそ高校のときから……。奏汰だって羽風のこと大事に思っていたように思う。というか、そうだな。優しくしたくて、傷付けたくなくて……。それってつまり、すごく大事な相手だっていうことだろう。俺とは違う。確かに奏汰の手を引っ張ったのは俺だ。ここは自惚れさせてほしい。でもあいつにはそれが熱くてかなわなかったこともあって……。難しいなあ。だから話してくれないのも当然なのかもしれないって、思ってたんだ……」
千秋は不意に手をまっすぐ伸ばし、電球へと翳した。太陽にでも見立てているのか、そこへ透けるだろう血管を見ようと目を細める。千秋の手はあたたかいのだろう、と直接触れずとも分かった。薫のぬるい手とも、奏汰の凍えやすい手とも異なる手だ。
「……俺も幸せだった。でも、羽風も幸せだったんなら、奏汰はきっとものすごく幸せだったんだろうなぁ……」
千秋の体が軸ごと揺れ、ゆっくりと体を倒して床に背をつけた。薫はすぐ脇からクッションを取り、千秋へ渡す。千秋はぼうっと天井を見て、ほとんど反射的にクッションを胸元で抱きかかえる。
「奏汰が幸せならそれでいいんだ、俺は」
「俺だってそう思うよ。そこに俺がいなくてもいい。……奏汰くん、生きてたよね」
「そうだな。生きてた。死んでなんていなかった」
「……死ぬつもりなんだって、聞いてた?」
「聞いてた。まあ……死にそうな顔してたしなぁ……。そんなに驚かなかった自分に驚いたぞ」
「俺は驚いたけどね。あ、やっぱりそうなんだ、って……」
薫は残りのチューハイを煽り、ローテーブルに置いた。軽いアルミの音。
体をよじり、色ちがいのカバーのかかったクッションを更に数個引き寄せて千秋目掛けて投げた。ぽん、ぽん、とクッションが千秋の体に着地する。
「泊まってくでしょ?」
「図々しいかもしれないが、そのつもりだ」
「そのつもりじゃないと家に上げないよ。あ、でも布団は……」
そういえば客用の布団は奏汰に貸しっぱなしだ。勝手に入らない、という約束を破ったのはたった一度きりで、奏汰が失踪して以降もなんとなく約束を守り続けていた。手がかりを探すべきなのだろうが、それでも躊躇のほうが勝ってしまう。
「別に床でもいいぞ?」
「それはさすがに……。ああ、でも、うーん。……うん、布団取ってくるからちょっと待ってて」
千秋をリビングに残し、薫は物置部屋の前に立つ。すう、はあ、と酸素を吸って吐いて、体の末端まで巡っていくのを待ってからドアノブを回した。
床には布団、正面の壁には地図。赤いペンで何重にも囲われている場所が高校だ。夢ノ咲学院、かつて深海奏汰が深海奏汰として生きていた場所。
「……必ず行く。迎えに行く。ガラじゃないかな? でもさ、俺が行きたいから行くだけだからね」
──だから。
そこで待ってて。
「(なかったことになんてしない。奏汰くんは生きてたよ。幸せに生きてた。それを伝えたいだけ)」
薫は地図と対峙するのをやめ、布団を畳んで回収した。両腕で抱えてリビングに戻る。
「もりっち〜、お待たせ、布団取ってきた……って寝てるし」
千秋はクッションに埋もれながらぐうぐうと微かに寝息を立てていた。そうだ、酔うと眠くなるタイプだったっけ、と薫はひとりごちる。軽く揺さぶってみるが、豪快な寝返りに振り払われてしまい、起こしてやろうという気概がすっかり失せてしまった。
薫は布団を敷くのを諦め、クッションの山からひとつを胸に抱いて胡座をかく。
「床でもいいって言ってたけどさ、あんまりよくないよね〜。背中バキバキにならない? 俺はなるべく柔らかいとこで寝たいなあ……。おおい、もりっち〜、明日撮影あるんでしょ〜。俺知らないからね……」
言葉がふわふわと宙に浮かぶ。ビールとチューハイの二杯くらいでは酔わないはずなのだが、こうして目の前で寝られてしまうとこちらまで眠くなってきてしまう。意識が重力に引っ張られ、抱えたクッションに額が埋まった。そのまま倍々に膨れ上がった重力に引っ張られ、薫は胎児のように丸まって床に転がった。
***
夢を見た。
病室の夢だ。無機質なチューブとプラスチックと、清潔すぎる布にくるまれて母が眠っている。壁も天井も母の入院着も白くて、色がなくて生き物の匂いがしなかった。ツンと鼻腔を刺激するのは消毒液だ。ほかに、粉っぽい薬の匂いも混じっている。
視線の位置がいつもよりずっと低く、ああこれは子供のころの自分なんだなと思った。こんなに低い位置から世界を見ていたのか。ベッドに横たわる母の顔がよく見える。
母は綺麗な人だった。綺麗なまま、死んだ。
夢の中の自分が勝手に口を開く。
「お母さん。……もうすぐ、たんじょうび、だよ」
眠っていた母がゆっくり瞼を持ち上げた。その下には青黒い隈が深く彫られている。そうだ、車の中でも父へ同じ質問をした。この夢はその次の日の焼き直しだ。
母の入院する病院は遠く、父の運転する車でしか行ったことがなかった。けれど、父の発言をうまく飲み込めなくて、内緒でバスを乗り継ぎ一人で病院へ向かったのだ。母に訊けば違う答えが貰えるかもしれないと望みをかけて。
母は顔を薫へと傾け、「薫、ごめんね」と答えた。唇の皮が剥けてがさがさだ。それでも母は綺麗だった。綺麗だと思い込みたかった。
「お母さん、たんじょうび、お祝いしてよ。当日もおみまいに行くから。ぜったい行くから。そしたら、お祝いしてよ。『おめでとう』って言ってよ。そしたら、お母さんも元気になるかもしれないよ」
子供の薫は真剣な口調でお願いをする。昨日、父には『誕生日なんて祝ってる場合ではない』と言われたが、そんなことはないと思いたかった。
誕生日だからこそ、お祝いをするのだ。家族全員で揃って、全員で同じものを食べて、できればそれは甘いものがよくて。
ロウソクに火をつけて吹き消して、その瞬間だけは暗闇が怖くもなんともなくなる。必ず照明が点けられて明るくなるのだと知っている。だから、そんなふうに母にも元気になってほしかった。
頭に肉付きの薄い手が重ねられる。母は薫の頭を優しく撫でた。
「そうね、誕生日、お祝いしましょうね。だって誕生日だもの。薫がお祝いしてほしいって言っているのだから」
女性の細く長い指。入院で痩せたせいか、指輪が僅かばかり緩くなっていた。化粧水とハンドクリームの匂いはもうしない。皮膚が乾いてひび割れていて、爪もよく見れば不気味に隆起している。お世辞にも美しい手だとは呼べない。
それでも、母は綺麗だった。
「絶対、お見舞いに来てね。薫」
青白い顔で微笑んだ母の言葉を胸に、薫は一人でバスを乗り継いで帰った。よく晴れた秋の日で、バスはどこかの銀杏並木をゆっくりと走る。バスなんて普段乗らないものだから、こんな道があったなんて知らなかった。
この風景を母が見たらなんと言うだろう。『薫の髪と同じ黄色ね』とでも言うだろうか。
視界は一面の黄色で埋めつくされていく。
***
びくん、と不随意に腕が跳ねた。直後、自分のくしゃみで薫は目を覚ます。クッションを抱いたまま床でうたた寝していたらしい。体はすっかり冷えきっていて、とくに指先なんてほとんど血が通っていなくてげっそりとしていた。
ほら言わんこっちゃない、と横の千秋へ目をやると、こちらはうたた寝というよりは本気で寝入っている様子だ。
「あ〜もう、俺知らないからね〜?」
面倒そうに嘆きながらも薫は掛け布団を引っ張り、千秋へ被せた。結局床で寝ていることに代わりはないが、少しはマシになるだろう。
へっくしゅん、と薫はくしゃみをし、ティッシュに鼻をかんだ。指先に少しずつ体温が戻っていく。
「……手を引っ張れるかはわかんないけど、走って行くよ。待っててね」
誕生日、薫は母の病院へは行けなかった。
ひとりでバスを乗り継いで行動していたことがバレて、寄り道せずまっすぐ帰るようにきつく叱られたのだ。誕生日会をして幸せを味わうことよりも、怒られたくない気持ちのほうが勝ってしまい行けなかった。母なら許してくれると過信する一方で、自分から取り付けた約束を破ったことへの罪悪感もあった。そのままバタバタと瞬く間に日々が過ぎて──。
「へっくし」
三度目のくしゃみが飛び出す。どこかで誰かに噂されているのだろうか。もしそれが奏汰くんだったならいいな、と薫は自分のベッドへ倒れ込む。
おやすみ、と床で寝る千秋へ軽く声をかけ、照明を消した。
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