三月末。
道端の雑草が順調に緑を増やしていく。顔を上げれば、青空には一面の桜が広がっていた。
桜色、とはよく聞くが、言ってしまえば大部分が白く、薄赤色が申し訳程度に中心部を染めているくらいだ。しかしその申し訳程度の薄赤色が、気持ちをどこかそわそわさせる。道行く人はみな空を見上げながら歩いていて、この場だけ時間の流れが遅くなったようだ。
薄手のジャケットを羽織ってきたが、日差しもあたたかくてむしろ暑いくらいだ。桜全線はぶじ東京に上陸した。咲き始めたばかりでまだ満開にはほど遠いが、そうこうしてるうちに散ってしまうのだろう。そうならないうちに行動を起こさなければ。
世間的には春休みの時期なのだろう。今日はやけに子供とすれ違うことが多い。そのうちの何組かは父親か母親かのどちらかと歩いていて、すれ違うだけで微笑ましい気分になった。ポケットに『死体』を隠しているなんてきっと考えもしないだろう。
──桜の木の下には死体が埋まっているらしい。
フィクションではお馴染みのフレーズだが、薫はその出典をよく知らない。たしか小説かなにかのタイトルだったと思うが、読んだことはなかった。なので実際桜の木の下に死体が埋まっているのかどうかははっきりしないし、逆を言えば本当に埋まっているのかもしれない。しかし、日本中どこにでも桜なんてありふれていて、それが事実ならあちこち死体だらけだということになる。それに、何十年と生きる桜の木の下に埋まっていればもう死体と呼べるほどのかたちなんて残っていないだろう。
けれど、『死体』なんて最初からなかったとしたらどうだろう。事件でもなんでもなく、最初からそんなものなんてなかったとしたら。『死体』と呼んでいるだけの、かたちのない別のなにかだったとしたら。
死体に近しいもの、ないし死体と呼べるだけの、別のなにか。
薫は桜を見上げながら、フェンスに沿って道なりに歩いていく。
今日は嘘みたいに天気がいい。よく晴れた春の日だ。風が少しばかり強いが、咲きだしたばかりの花びらを散らすには不十分だ。桜吹雪の日は今日ではない。
ポケットに捩じ込んだスマートフォンが鳴った。画面を確認すると、名前の後ろに魚が一匹泳いでいる。薫は迷わず応答ボタンを押し、耳に当てて声を待った。
『もしもし、かおる?』
「もしもし、なあに?」
『「したい」があるんです』
薫は足を止める。
「知ってるよ」
フェンス沿いに桜が溢れる道の奥に奏汰が立っていた。白い花びらのおかげで、明るい水色の髪は青空へ溶けることなくしっかりと現世に繋ぎ止められている。
二ヶ月ぶりだろうか。想像していたよりもずっとあっけなく、たいして驚きもしなかった。開花宣言のニュースを見たときに、既に整理は終わっていたのかもしれない。
内容はどうであれ、電話をかけてきてくれたことが嬉しかった。奏汰はその場で立ち止まったまま通話を続ける。
「殺してないんでしょ」
『……そうですよ。だれもころしてません。ぼくに「ひと」がころせるわけ、ないじゃないですか』
聞いたことのある会話だ。電話口の声は自嘲気味で、しかし視線の先にいる奏汰はとても満たされた表情をしていた。過去の会話をリフレインする安心感。予定調和ではなく、予め決めておいた合言葉のようなものだ。
「それでも俺と『死体』を埋めたいんだよね?」
『かおるがおもいだしてくれたら』
薫はゆっくりと歩き出し、徐々に早足になっていく。ここから確認できる限り奏汰はスマートフォン以外になにも持っておらず、手ぶらのように見えた。薫の家を飛び出して以降、どこでどう過ごしていたのだろう。服はきちんと季節に合った長袖を着ているし、身なりもとくに異常めいた点は見られない。もしかしたら実家に帰っていたのかもしれない。
「……殺したのは『ひと』じゃない。『かみさま』だ。──そうでしょ?」
「…………」
目の前の人影との距離が縮まっていく。風に混じって桜の匂いがする。ふんわりと甘い春の匂いだ。
フェンスは学院の敷地へと続いている。このフェンスと桜を越えれば学院のグラウンドだ。方向的には中庭もこの向こう側かもしれない。ガーデンテラスはもっとずっと先で──噴水は、確かこっち側にはなかった。
「殺したのは『かみさま』、埋める『死体』は『生きてたころの思い出』。奏汰くんが生きてたころ、学校にいたころの思い出だ。思い出すよ、いくらでも。忘れてても。覚えてなくても、思い出すよ。奏汰くんに、死んでほしくないから。生きててほしいから。好きだよ。好きだから生きててほしい。ただの情だけど、それでも好きだから!」
薫は電話を切った。走ったために少しばかり息が上がっている。息を整え、棒立ちになったままの奏汰を見た。
「……ぼくも、すきですよ。かおるのこと」
こわばっていた表情筋がへらりと緩む。そんな顔してたんだね、と薫は奏汰の真向かいに立った。嘘も虚勢も幻影もなにもない。いままでずっと、沖を漂流していた気分だった。此岸にようやくたどり着けたのだ。
薫は、耳元に持ち上げたままの右手へ自分の手をそうっと伸ばす。柔らかく、掬いあげるような優しい手付きで奏汰の手を耳から剥がした。薫は奏汰のスマートフォンの画面をちらりと見る。
「……むかし、電話帳に登録したときにさ、ノリで絵文字付け足したんだったよね」
「……おぼえてますよ」
「なんかさ、不思議じゃない?」
「ふしぎって?」
「だってあのときの冗談がまだ続いてるんだよ」
「……」
「見てほら、俺の画面でもこうだよ。同じ魚の絵文字」
「かおる、…………」
奏汰の喉が震える。言葉が見つからないのだろう。薫は、スマートフォンを持ったままの奏汰の手を自分の両手で包みこんだ。懇願するようにそれを胸元へ引き寄せる。あたたかいわけでもなんでもないただのぬるい手でも、触れるかたちを持っているだけで十分だ。
「好きだよ」
「……ぼくもですよ。さっきもききました」
風が強く吹き、フェンスがきしきしと鳴った。路傍の草が風に流される。日差しはあたたかいのに風はまだ冷たくて、この場に温度を感じられるものはほかにないように思えた。奏汰の顎から雫が落ちる。
「さっきもきいたし、さっきもいったけど。ぼくもかおるのこと、すきです。すごく、すき。『おいのり』されても、なんにもできないけど、それでもいいんですか? ぼく、いきててもいいんですか?」
落ちた雫が薫の手へかかる。奏汰は薫の胸へ頭を垂れ、わずかに自分の体重を預けた。
「いいに決まってるよ。それに、これはお祈りじゃないからね。ただの、俺からの『お願い』。だから別に、叶えなくてもいいよ」
奏汰は薫の顔を見上げる。薫は眉根を下げて微笑んでいた。髪が光に透けてきらきらしている。
「死んじゃったら嫌だよ、って、俺は言ったからね」と薫は眉根を下げて微笑んだ。
「……せっかく『おねがい』されたんだから、できるだけ、こたえますね」
奏汰は袖で目元を拭き、ぐっと口を一文字にして前を見た。
フェンスの桜に遮られた向こう側、学院側から、誰かの歌声が聴こえる。春休みで暇な生徒が屋外レッスンか、あるいはゲリラライブでもやっているのだろう。見知らぬ後輩の曲は演奏も歌声もまだまだ未熟で粗削りで、けれども春らしい曲だった。俺たちもむかしはこんなんだったよね、と薫は口走りそうになるが、奏汰と校内で演奏をしたことが一度もないことに気付き、寸前で思い止まった。
「……ぼく、いきてていいんですね」
「うん。──行こうか。ここに、俺たちが死体を埋める場所はないよ」
桜が咲いている。桜の木の下には、死体が──『思い出』が、埋まっている。誰かしらがなにかしらで埋めた無数の『思い出』で、もう地中は満杯だ。いずれそこから蝉が這い出てくることもあるかもしれない。
二人は隣り合ってフェンス沿いの道を帰っていく。
***
「じゃ〜ん……♪ こんなかんじになっちゃいました〜」
奏汰はスマートフォンでビデオを回す。段ボールもほとんど運び終え、あとは手元に残したトランクとリュックひとつを残すのみだ。カーテンもカーペットも剥がし、なんにもなくなってしまった。
「いま、かおるの『おひっこし』をてつだっているところです〜。それにしても、こんなに『からっぽ』になっちゃいました。ちょっと『おもしろい』ですよね〜」
「も〜奏汰くん!? のんびりビデオ回してないで、忘れものがないかチェックしてよね〜? 奏汰くんの私物だってあるんだから」
わかってますよ〜、と奏汰はカメラを薫へ向けた。薫は顔をしかめるが、まんざらでもないのか困りながらはにかむだけで抵抗はしない。奏汰は調子に乗り、にこにこと笑った。
「ああ、あとそのビデオ! アップロードとかしちゃだめだからね、わかってると思うけど!」
「はいはい、わかってますよ〜♪ ぼくが『こじんてき』にながめてたのしむだけですから」
風呂場もキッチンもトイレも、家から一切合切の荷物を運び出した。無論、物置代わりにしていた部屋──一時期、居候スペースとして奏汰に貸していた場所──もそうだ。もともと物置にしていただけあって作業量は相当なもので、この部屋だけで何日もかかった。
整理と梱包の際に気付いたのだが、小物がいくつか無くなっていた。それも、無くなったことに気付けるのが奇跡と言えるほどのどうでもよい小物ばかり。中身を取り出したあとのトイカプセルだとか、ヘアピンの入っていないヘアピンケースだとか。小物というよりは、ほとんどゴミだ。
それを何気なく口に出したところ、奏汰はあっけらかんと「うめましたよ」と答えた。埋めると言っていたのも虚言で、ほんとはなにも埋めていないと思っていたのだが、実際は違ったようだ。不法投棄じゃないの、とも聞いたが詳細ははぐらかされるばかりで、さらには思い出せていないだけでほかにも無くなっている小物はたくさんあることだろう。実際、奏汰が持ち出したことのあるスコップも、以前に薫が雪掻きに使って放置していたものだ。どうも薫の知らないところで好き勝手やられてしまっていたらしい。
「かおるの『おうち』、こんなにひろかったんですね〜」
奏汰は楽しそうにカメラを持ったまま一回転する。ホームビデオのつもりなのだろう。
春を越えてからというもの、奏汰はすっかり物騒なことは口にしなくなり、代わりに写真やビデオをよく撮るようになった。最初からそうすればよかったのに、案外わからないものだ。
「引っ越しするたびに思うよね〜。家具って意外にデカいんだよね。全部運び出してようやく本来の広さになった〜ってかんじ。あ、でも家具ないと生活できないしなあ」
「まあ、この『たいみんぐ』でしかみられない、ってことで。ふふふ、ほんとうになんにもなくなっちゃいましたね。『からっぽ』で、なんにもなくなっちゃって。『うまれなおし』たみたいです」
そのとき、階下から千秋の呼ぶ声がした。ベランダに出て下を見ると、千秋が車を降りてこちらに手を振っているところだった。初夏らしい五月の光がよく似合う。
「羽風、奏汰! もう支度はすんだか? そろそろ出発するぞ!」
「わかってるよ〜、いま行く!」
「ちあき、『こえ』がおおきいですよ〜。『きんじょめいわく』になっちゃいます」
「おっと、すまない! まあとにかくだ、もう時間だぞ」
薫は玄関先に置いておいたトランクを掴み、奏汰のほうを振り返った。奏汰はベランダ下の千秋をビデオに映し終え、最後にもう一度、からっぽになった部屋を見渡す。埃っぽいのはここで生きていたからだ。
奏汰はカメラを切り、リュックを背負った。このあと奏汰は千秋の車に乗り、新居へと向かう。今日と明日だけは千秋と薫が引っ越しを手伝ってくれるが、次の日からは完全に一人暮らしだ。薫も薫で、現在の家を離れ新居を借りているのだからいつまでも引き留めてはいられない。
「──じゃあ、また、あいましょうね」
「うん。また会おうね」