ミモザの福音-#03 再訪のジュブナイル - 2/2

「──ハァッ、ハァッ、ハァッ」

 吹雪はベッドから跳ね起きた。全身がびっしょりと汗に濡れてしまっている。全力疾走した直後のように心臓は早鐘を打ち、手のひらは小刻みに震えていた。手を何回か握っては開き、ここが現実で、全身の自由が効くことを確認する。ひどい悪夢だった。

「(久しぶりに見た……。ダークネスに捉えられたときの、悪夢なんて)」

 息がまだ落ち着かない。吹雪は手のひらで顔を覆い、できるだけゆっくり深呼吸をして、気持ちを鎮めようとする。前髪の先までじっとりと濡れていた。

 二年前。ダークネスに堕ちてしまった優介が吹雪を捉えた最中に見せた、悪夢。あれは吹雪の心の闇に反応して、半自動的に組み上げられたプログラムのようなものだ。徹底的に心を折り、ダークネスに身も心も溶かしたいと自ら望むよう、自分にとって最悪を上映された、あの悪夢。

「(……どうして、あの夢が)」

 仕事や引っ越しが重なって疲れが溜まったのかもしれない、と雑な仮説を立てて吹雪は自身をむりやり納得させる。呼吸が落ち着いてきて、おもむろにベッドサイドの時計を見ると午前三時近くを差していた。変な時間に目が覚めてしまったらしい。

「(こんな夢、誰にも言えないな……。ましてや本人になんて)」

 隣室では優介が眠っている。優介はすっかり吹雪の家に入り浸るようになっていた。一緒に住みたい、という当初の目論見とは多少ずれるが、こうして生活を共にしているのだから半分以上叶ったと言っていい。いまや優介は自分の自宅に帰る日よりも、吹雪宅に帰る日のほうが多くなっていた。

 水でも飲もう、と思い立ち、吹雪はふらりと寝室から出た。廊下にはまだ開梱が終わっていない段ボールが数個置かれている。こいつらも順に開けていかないとな、と思いながら、それらにぶつからないよう体をひねって歩いた。

「──ん?」

 床にカードが一枚落ちている。デッキはすべて専用のケースへ入れて持ち歩いているはずだが、なにかのはずみで落としたのだろうか。吹雪はしゃがみ、それを何気なく拾い上げる。

「……これは……!?」

 オモテ面を見て息を呑んだ。カード名もテキストも書かれていないが、中央の絵柄には嫌と言うほど見覚えがあった。黒い仮面と鎖の絵柄──ダークネスを封印したカードだ。

「(何故、これがこんなところに……?)」

 このカードを最後に使ったのは卒業直前、藤原のことを思い出すために遊城十代と一戦交えた際に力を借りたときだ。あのデュエル以来、このカードは行方がわからなくなっていた。ブルー寮の自室にも、あの旧特待生寮の地下にもなく、十代がダークネスを倒したことでこのカードもあわせて消滅したのだろうと、そう考えていた。

「吹雪? なにしてるんだ、こんなところで……」

 頭上から声が降ってくる。見上げると、寝巻き姿でぼやぼやとこちらを見る優介が立っていた。声はまだ眠そうで、彼もきっと夜中にたまたま目が覚めてしまったのだろう。吹雪は思わず、手にしたカードをズボンのポケットに隠す。

「え、ああ。なんでもないよ。ただ目が覚めちゃっただけさ」

「ふうん。さっき、叫び声がきこえたからさ……。悪夢でも見てうなされてるんじゃないかって、気になって」

ぎくり、と体が硬直する。あんな夢を見たなど、本人に言えるわけがない。なにせ元を辿ればあの夢を見せたのは藤原優介本人なのだ。

『なにも気付かなかったくせに』

『きみが僕を忘れて置いていったんだ』

『全部きみのせいだ』

 夢で聞いたセリフがリフレインする。

 あの日のことは二人のあいだでは半ばタブーになっていた。優介に一度消された記憶は戻ってきたが、吹雪はすべてを思い出したわけではない。優介が消していなかった記憶、吹雪がそもそも覚えていない記憶は忘れたっきりだ。あの日のことを真正面から話そうとすると、おそらく会話に齟齬が出てしまう。その状況を、彼は絶対に望まないだろう。

「(ボクは、藤原についてまだ思い出せていないことがあるのか。でも忘れて置いていったことなんて……)」

「吹雪? おい……座ったままねてるのか?」

「え、う、ううん。起きてるよ。さっきは少し怖い夢を見ちゃってね……。水か何か飲もうと思うんだけど、藤原、なにか飲むかい?」

 吹雪は平常心を装う。声がわずかに上ずっているかもしれないが、半分寝ぼけている優介はこんな微妙な変化なんて気付かないだろうと、高を括った。

「……いや、いらない。俺はねなおす。吹雪が平気ならひとりでねるけど……」

「? どういう意味だい?」

 優介は眠たいのか口を半開きにして、しばらくぼうっと考える。よく見ると緑の髪のあちこちが寝癖でハネていて、まるで草っ原みたいだな、と吹雪は思った。

「え? …………だってこわい夢見たって……。………………なんでもない」

 喋りながら自分の発言がヌけていることに気付いたようで、照れたように目を逸らす。その様子に言いようのない可愛らしさを覚え、吹雪は少し意地悪をしてみたくなった。

「もしかしてそれって〜、……添い寝してくれるってことかい?」

「う、それはちがう……」

「ふーん。それじゃあ……ボクが寝るまで、手を握っててほしい、っていうのはどうかな?」

 軽くウインクを投げてみると「調子にのるな」と優介は露骨に顔をしかめてみせた。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。

「そういうのは自分のカノジョにでも言えばいいんだ。おれはひとりで寝る! 吹雪、おまえもひとりで寝ろ! おやすみ!」

「ふふ、それもそうだね。おやすみ」

 ドアの向こうへ優介は消えてしまった。彼女を作る気はしばらくないんだけどな、と吹雪は閉じたドアに向かって小さく呟く。それは当然、本人には聞こえていない。伝わらなくていいのだ、この生活の愛しさも、あの夢の意味も、どう伝えればいいかまだ分からないのだから。

 
 
 


「ミモザの福音」
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#01 漂泊者たちの寄る辺 / #02 さみしさの始点 / #03 再訪のジュブナイル