その日はどこまでも透明に突き抜けた、見上げれば空へ落ちていく錯覚さえしてしまいそうな青空だった。廊下の窓から見えた清々しいあの青を、吹雪ははっきりと記憶している。前日に島を通過した台風が分厚い雲の一切を吹き飛ばし、空の天井が高く高く広がっていた。
中等部から高等部へと上がったはじめての夏だ。夏休みを間近に控え、学期末試験もその日の午前中で最後だった。吹雪は実技デュエルの成績はトップクラスなものの、授業中にぼんやり眠ったり明後日のことを考えたりしているせいか筆記試験はいつもいまひとつだった。最後の試験を終え、今回はこれまでと比べれば真面目に勉強したほうだ、と背伸びをする。
廊下の窓から見える空の青色が濃い。空気が澄んでいるのか、まだ真昼だというのに白い月もうっすらと視認できた。昨晩は嵐で、日が落ちてから明け方近くまで強烈な雨風が島を襲っていた。まるですべて壊してやるとでも言わんばかりに礫状の雨粒が降り注ぎ、風はガタガタと建物そのものを揺らし続けていたのだ。時折雷も鳴っていて、それでもなんとか試験勉強を続けられた自分を褒め称えたい。それもこれも、この夏を思いっきり楽しむためだ。
どこかからミンミンゼミの声が聞こえてくる。強い日差しも相まって、いよいよ夏本番がやってきたことを吹雪は実感した。吹雪は夏が好きだ。太陽光はクリアに鮮やかに世界の色を浮かび上がらせ、海面を何重にもきらめかせる。こんな長袖の制服なんか一刻も早く脱ぎ捨てて、夏らしい半袖のアロハシャツに着替えて海へ飛び出していきたかった。海を泳ぐのも好きだし、サーフボードに乗って波を乗りこなすのも好きだ。水上バイクを走らせて潮風を浴びるのも好きだし、砂浜にパラソルを差して日光浴をするのも好きだ。吹雪にとって夏は楽しさや喜びを象徴する季節だった。
「(とにかく夏になれば……楽しいことが待っている。そう思うのはきっとボクだけじゃないはずだ)」
中等部にいた三年間の夏は三年とも実家に帰っていた。親元を離れて寮生活を送っているのが心配なのだろう、両親や妹は頻繁に「いつでも帰ってきていい」と言っていた。それにまったく異論はなかったし、長期休みくらい実家に帰るべきだと吹雪自身も考えていた。ただ、寮に置いてきた友人のことはずっと気がかりだった。けれど、その二つが天秤に掛けられるようなものではないことも理解している。
だが今年は高等部へ進級したのだ。小学生に毛が生えた程度の中学生とは違い、高校生ならそこそこ理性的な判断もできる年だろう。今年の夏は実家へは帰らず、寮に居残って級友たちと夏を満喫したいと、そう打診するつもりだった。そもそもデュエルアカデミアを受験した理由のひとつに、マリンスポーツを楽しむのにぴったりのこの環境があった。
「(昨日の夜、『今年は居残るつもりだよ』って言ったときの藤原、びっくりしてたなあ)」
あのとき優介は、ツンと尖った猫目を大きく見開かせて、虚をつかれたように表情を固まらせていた。あんまり大袈裟に驚くものだから、そこまでぎょっとするほどのことかい、と思わず笑ってしまった。ボクが居て嬉しいかい、と問うと、優介は一瞬目を泳がせたあと、控えめに頬を綻ばせて『嬉しい』と確かに言ったのだ。
藤原優介とは中等部一年のころからの仲だ。実技成績のトップは常に、丸藤亮と天上院吹雪──そして藤原優介、この三人の誰かが担っていた。単純な戦績だけではなくプレイングの華麗さやデッキ構築のセンス、土壇場での切り返しなど数字では測れない領域に置いても、三人は常に同じレベルに立っていた。切磋琢磨し合うライバルであり、同じ高さで物事を見れる仲間、唯一無二の親友。
もしも、いま目の前に悪魔が現れたとして。なんでも願いを叶える代わりに、お前の一番大切なものを差し出せと言われたら──吹雪はそんな契約を結ぶ気など毛頭ないが──きっと自分が差し出さなければいけないのは、その二人の親友だろう。
「(藤原、寮にいるかなあ)」
そろそろ昼食にしたいところだ。今日の授業は午前中ですべて終わりで、午後は完全なる自由時間だ。近頃優介はデッキをこまめに調整しているようで、邪魔でなければ自分も一緒に調整をしたいと思っていた。彼とデッキ調整をするといつも面白いコンボを考えてくれるのだ。昼食に誘うついでにそれを聞いてみるのもいいだろう。一旦特待生寮に戻ってみよう、と吹雪は階段を駆け降りる。
「おや天上院くん。誰かお探しかニャ?」
「あぁ、大徳寺先生。ちょっと藤原を探してて」
階段の踊り場で大徳寺先生と鉢合う。大徳寺先生は特待生寮の寮長だ。分厚くて古そうな本を何冊も抱えていて、思わず「持ちましょうか?」と訊いたがやんわりと断られる。
「藤原くんならさっき、私が寮から出ようとしたときにすれ違ったニャ〜」
「やっぱりそうですか。ありがとうございます」
「ところで藤原くん、随分思い詰めた表情をしていたけど……。天上院くん、なにか心当たりないかニャ?」
「え、心当たり、ですか?」
思わずきょとんとしてしまう。優介が思い詰めるとは──一体なんのことだ? 座学も優秀な藤原のことだ、試験がうまくいかなかったとかそんなことではないだろう。吹雪は少し思案してみるが、やはり心当たりがない。
「ウーン……。ボクには検討もつかないです」
「藤原くんが、きみや丸藤くんと非常に仲が良いのは知っているよ。もし彼になにかあったら大変だから、様子を見に行ってあげてほしいのニャ。……きっと、寮のどこかにいるはずだから。隅々まで探すといい」
「そうですね大徳寺先生。わかりました!」
吹雪は特待生寮のほうへ走り出す。森を抜け、いつもの帰り道を駆けた。空気が乾いていて、実に気持ちのいいカラッとした快晴。夏とはいえまだ七月上旬だ、太陽光は眩しいが風が爽やかで、体感的な暑さはある程度相殺されている。
──どれだけ長くても、どれほどくだらなくてもボクはきみの話を聞いてあげたい。だってボクたちはずっと親友なんだから。この空がどれだけ広くて青いかなんていう話を、きみと一緒に共有したい。本格的な夏へと変わっていく空を、風を、光を、色や音のすべてを、きみへ教えてあげたいだけなのだ。
吹雪は寮のエントランスを通り、二階にある彼の自室を訪ねた。ドアを開けながら中へいるだろう人物へ声を掛ける。
「藤原ー! いるんだろう? お昼ご飯ってもう食べたかい? まだだったら一緒に──」
唐突に言葉の続きが失われる。
「……藤原?」
吹雪は呆然と立ち尽くす。部屋の主の姿はなく、ただ荒れされた部屋がそこにあった。家具の位置がめちゃくちゃだ。テーブルやソファーはひっくり返り、カーペットが完全にめくりあがっている。そして部屋の中央に彫られた、見たこともない魔法陣。ナイフかなにか、刃物で床板を掘り込んだようだ。それがどういった意味を持つ魔法陣かは皆目わからない。だが、なにか尋常ではない事態が起きていることは即座に理解できた。
さらに目を凝らしてみると魔法陣の中央には赤いシミが付着している。それはペンキや絵の具にしは生々しく、まだ新しく──もしかしたら、彼自身が流した血なのではないか。
「……一体、なにが」
部屋の窓は鍵ごと閉まっていた。窓の向こうへ行ってしまったわけではなさそうだ、と一瞬安堵するも、胸のざわめきは払拭されない。ならばどこへ?
「藤原!!」
いてもたってもいられず吹雪は廊下を走る。走りながら、どこかにいるだろう藤原の名前を呼び続ける。何事だろう、と寮の中にいた生徒が何名かドアを開けて様子を伺いに来るが、そんなことに構ってはいられない。優介を探すことに夢中だった。心臓が激しく脈打っている。
「吹雪、どうしたんだ。藤原がどうかしたのか?」
「亮!」
後ろから腕を捕まれて吹雪は立ち止まる。亮だ。叫びながら走り回る吹雪を見て心配してくれたのだろう。吹雪はうろたえた顔つきで振り返る。
「亮、藤原が……藤原が、いないんだ。部屋にいない。思い詰めた顔をしていたって、大徳寺先生が……どうしよう、何が起きてるのかさっぱりだ。亮、ボクはどうしたら」
動揺しているのか口がうまく回らない。亮はおもむろに右の掌で吹雪の背中を強めに叩き、ゔっ、と胸につかえていた空気を無理やり吐き出させた。息を吐いたはずみで新しい酸素を吸い、パニックが少し治まる。
「落ち着け吹雪。藤原がいない? どういうことなんだ」
「えっと……さっき部屋に行ったら、部屋がめちゃくちゃで……床に大きな魔法陣が書いてあって。藤原は……きっとボクたちには言えないようなことをしてる。絶対普通じゃないんだ、あんなの」
吹雪は優介の部屋の前まで亮を連れてくる。只事ではない部屋の様子を見て、亮の顔からサッと血の気が引いた。なにが起こっているのかわからず困惑した様子で、視線を床に落とし下唇を噛んだ。状況を理解できない自分に腹が立つのか、その両拳はきつく握り込められている。
「……わかった、俺も探そう。吹雪は寮内の東側、俺は西側を探す。普段行かないような場所もくまなく見るんだ」
「ああ、わかった。亮、ありがとう」
亮の表情は本物だった。亮も自分と同じように親友のことを思っていたことに、吹雪は心強さを覚える。
反対側は亮に任せるとして、吹雪がまだ探していないのは一階だけだ。階段を降り、食堂や談話室も隈なく探すが優介の気配はない。裏口から中庭へも出てみるが、夏らしい赤やピンクの色とりどりの花が咲いているだけだった。極彩色で埋められたその景色は鮮烈で、息苦しさを伴う不安とミックスされて泣きそうになってしまう。
「藤原、どこにいるんだ! いるなら返事をしてくれ!」
屋内に戻り、薄暗い廊下を歩く。もう随分歩いたはずで、吹雪はこんな奥まで足を踏み入れたことはなかった。外観から想像する長さよりもずっと長い距離を歩いているような気がする。
「なんだ、この道は……。……坑道?」
廊下の奥に下へ降りる階段がある。少し降りたその先は、まるで鉱山や洞窟にあるような坑道が続いていた。なぜ特待生寮の地下にこんな道があるのだろう。胸騒ぎが止まらない。この先へ行くべきではない、と両脚はそう訴えているが、それよりも強く「優介はこの下にいるんじゃないか」と第六感が叫んでいた。吹雪は恐る恐る階段を下る。坑道には点々と、必要最低限の数だけ電球がぶら下がっていた。相当古いのか、いまにも光は消えてしまいそうに明滅している。
空気が澱んでいてカビ臭い。嫌な汗がじっとりと滲み出て肌に張り付いている。こんな薄暗くて埃っぽいところに優介は本当にいるのだろうか? 彼にはやや潔癖なきらいがあり、このような場所に長居できるとは到底思えない。やっぱり帰ろう、別のところにいるんだろうと諦めかけた矢先、ふいに通路の終わりが見えた。一番奥が、ぼんやりと明るく照らされている。
「吹雪──そこにいるんだろう」
「!」
部屋に着く直前に呼び止められた。彼の声だ。聞きたかった声にぎゅっと喉の奥が締まり、すんでのところで耐えていた涙が目尻に溜まってしまう。
「藤原! あぁよかった、こんなところにいたのか! やっと見つけられた……!」
「来るな!!」
怒鳴られて足がすくみ、靴底が砂利を踏む。──これまで聞いたことのない、鋭い声色。彼はこんなに大きな声が出せたのかと、妙に冷静な思考がよぎる。吹雪は制止する声を無視し、通路の奥の部屋へと進んだ。
「藤原……、ずいぶん探したんだよ、一体なにがあって……」
「だから来るなって言ってるだろ!! そこから動くな!!」
再び優介が叫ぶ。地下を掘って作られたのだろう、部屋の壁は岩が剥き出しになっていた。吹雪が立っているところから一段低いところに床があり、天井の吊り電球だけが、部屋の真ん中に立つ優介を照らしている。その床もまた石で出来ており──彼の部屋で見たものと全く同じ魔法陣が、深い溝となって掘り込まれていた。
「藤原、」
「……なんで来たんだ、吹雪!」
優介はきつく吹雪を睨みつけた。吊り目をさらに尖らせ、紫色の瞳孔はぎらぎらと光っている。──なにか苛烈な感情に支配されている目だ。噛み付くような形相に吹雪は思わず身じろぎするが、ここで逃げ帰るわけにはいかないと両足を強く踏ん張る。
「なんでって、ボクはきみが心配だったから探しに来たんだ! 藤原、これは一体なんだ! この魔法陣で、きみは一体何をしようとしているんだ!」
眼下の優介へ呼びかける。彼は吹雪の言葉など煩わしくてしょうがないといった風体で、小馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。
「俺が心配だった? ハッ、笑わせるね! そんな取ってつけたような理由で、俺を世話したような気になってるだけだろう!」
「取ってつけたような、だと? そんなわけあるものか! ボクは本心からきみを思って──」
「よく言うよ、なにも気付かなかったくせに!!」
優介の声が吹雪を突き刺し、両足をその場に縛り付ける。
「吹雪、お前は何も気付かなかっただろう。何も気にせず毎日呑気に過ごして……僕が何を考えてるかなんて、知ろうともしなかった!」
「そんな……それは違う!!」
「いいや違わないね!! 吹雪、お前は俺のことをなにも知らない。知ろうともしていない。お前の言うことなんて、すべてお前自身のエゴだ。なにも知らないくせに一方的に話を押し付けてきて。我儘で、自分勝手で……! 僕がどれだけ──きみのことを──なのにきみは──お前は……」
言葉は途切れ途切れで、息継ぎのたびに優介の表情は複雑に変化していた。怒っているのに今にも泣きそうで、吹雪を恨むように睨んだかと思えば途端に縋るような視線へ変わる。胸が痛い。いても立ってもいられず、吹雪は両足に掛けられた拒絶を振り解いて駆け出す。
「馬鹿、来るんじゃない──」
「いい加減にしろ藤原!!」
優介の胸ぐらを掴む。その手を引き剥がそうとする彼と揉み合いになり、バランスを崩して二人は固い石の床へ倒れ込んだ。逃げようと暴れる彼を下敷きに吹雪は馬乗りになり、両腕をそれぞれ床に押し付けた。
「離せ吹雪、邪魔だ!」
「嫌だ、絶対に離さない! 一方的だなんてそんなことあるものか、ボクたちはこれまでずっと一緒にいて、対等な関係だっただろう! そんなにボクのことが気に入らなかったのなら、どうしてそう言ってくれなかったんだ!? 昨日笑ってたのも、嬉しいって言ったのも、なにもかも全部嘘だったって言うのか!?」
「……っ、それは……!」
脱出しようと優介はもがいていたが、吹雪の言葉に肢体を絡め取られてぴたりと動きが止まる。吹雪の長い茶髪がぱらぱらと彼の顔の前へ垂れた。カーテンのように広がったそれが、即席の密室となって二人の顔を閉じ込める。
「ボクは、……本当に、きみのことが心配で……。……藤原、何も気付けなくてごめん。助けてあげられなくて、ごめん。今度こそ、今度こそボクはきみを助けてあげたくて……ただ、それだけで、それだけでボクは」
声色に涙が混じる。心の底にあるものをすべて吐露してしまいたかったが、上澄みの部分だけしかうまく言葉になっていかない。吹雪がそれ以上どんなに喉を振り絞っても、発せられるのはただの涙ぐむ音でしかなかった。優介はそれをまっすぐ見つめる。荒ぶっていた彼の息遣いが落ち着き、だんだんと冷えていくのがわかる。
「……吹雪。俺とお前が対等だなんて、そんなの思い違いも甚だしいよ。俺はお前の、博愛主義なところが好きだった。……昨日笑ってたのも嬉しかったのも、全部本当だよ。嘘はついてない。でも俺は。俺は……隠し事が、上手だっただろう? いままで黙ってて、すまなかった。だって言えるわけないだろ、こんなの。……あのときも、お前は何も知らずに騙されてくれた。……面白いくらいに。かなしいくらいにさ」
彼の瞳は揺れることなく、真正面から吹雪を見つめ返した。猫のようなアイラインに囲われた、鈍く光る紫紺の虹彩。その瑞々しい紫の表面には吹雪自身の姿が反射していて、まるで深い井戸を覗き込んでいるみたいだった。目の前に捉えているはずなのに手の届かない位置にいるようで、彼の両手を押さえていた吹雪の手は勝手に緩んでしまう。
「僕はきみを巻き込みたくなかったのに。ひとりでなんとかするつもりだったのに。こんな気持ちなんて、お前にだけは知られちゃいけないって思ってたのに。なのに、お前が首を突っ込んでくるから……吹雪が、優しすぎたから。だから、巻き込むしかなかった」
拘束から抜け出した優介の左手が、するりとこちらへ伸びてくる。目尻に溜まったものを指で拭われ、吹雪は何億光年も離れた星からのメッセージを受け取ったような、地球にたったひとりで残されたような、もうすぐ二度ときみに会えなくなってしまうような喪失感を覚えた。
「……巻き込むなんて言わないでよ。ボクはきみの話を聞きたいだけなんだ。どれだけくだらなくたっていい、どれだけ長くなってもいい。きみの全部が知りたい。きみのこころをボクに教えてほしい。ボクのこころもなにもかも、全部きみにあげるから。そうしたら、そうしたらきっと……」
きっと、何があると言うのだろう。言葉の続きが煙のように立ち消えてしまう。
優介の左手が吹雪の頬を撫でる。その手は骨が細く華奢で、彼がまだ少年であることを示していた。触れているはずなのに体温がなにも伝わってこない。熱さも冷たさもなにもない、まるで最初から何もなかったみたいだ。それが悔しくて仕方なくて、吹雪の目元には再び涙が滲んでいく。
「……そんなこと今更言うなよ。今更優しくなんてするなよ。そんな話聞きたくない、耳障りだ。……吹雪のこころを、全部くれるなんて……僕なんかに。そんなの、馬鹿みたいだろう」
彼は息苦しそうに顔を歪めて笑っている。優介をたすけてあげたい。深い井戸に沈んだきみを、遥か遠い星にひとりぼっちのきみを、手を掴んで引っ張り上げて酸素のあるところまで連れ出してあげたい。
──でもそれを、目の前の藤原優介は、望んでいないのだろう。
ふと、頬を撫でてくる腕に違和感があることに気付く。袖は焦茶色をしていて──これは中等部の制服だ。ぐしゃぐしゃに握り潰した紙みたいに優介の顔が歪み、きつく締め付けられた喉の破れ目から苦しそうに言葉が絞り出された。
「……すまない、吹雪。すまない、ごめんなさい。吹雪。馬鹿みたいだろ。もうわかんないんだよ。黙っててごめん。全部本当なんだ。本当なのに。吹雪。今更遅いんだよ。なにもかも遅いんだ。だって──これは夢なんだ。悪夢なんだよ! だから」
目の前にいた優介は知らない間にひとまわり小柄になっている。顔つきはぐんと幼い。輪郭は丸く首筋も細く折れそうで、成長し始めたばかりのあどけない子供の姿だ。
「藤原、これは……」
「だから、悪夢だから。…………また、巻き込まれてくれよ……!」
彼の声が高い。声変わりする前の、吹雪がはじめて彼と出会ったころの、中等部一年生のころの声だった。幼い優介は控えめに頬を綻ばせて笑う。笑い方の癖は今と同じだ。だが、こんな苦しそうな微笑みなんて──。
「な……なんだ、このナイフは!?」
気付けば吹雪の右手にはナイフが握られていた。このデザインには見覚えがある。あのとき、彼が、自らの腕を切り付けていたのと同じナイフ。先ほどまではこんなものどこにもなかったはずなのに。
「!? 手が、勝手に……!!」
ゆらり、とナイフを持った右手が吹雪の意志に反して自動的に持ち上がる。操られている。それは目の前の優介の左腕、あのときの傷の位置と同じ箇所に照準を定めていた。嘘だろう、そんなまさか、とナイフを持つ手が震える。幼い彼は眦を吊り上げ、怒気に満ちた声で叫んだ。
「天上院、きみのせいだ、全部きみのせいなんだよ! もう遅いんだ!! いくらきみがあとからなにを言ったって、僕の傷は消えやしない!! きみが僕を忘れて、置いていったのが悪いんだ!!」
吹雪は自由なほうの手でナイフを止めようとするが、それよりも強い力で操られているのか右手の動きは止まらない。刃先は焦茶色の制服の繊維いっぽんいっぽんをぷつぷつと押し切っていく。
「やめろ藤原!! こんなことボクはしたくない……!!」
「なにを言ってるんだ、僕に傷をつけたのはきみじゃないか……! きみはたったひとりを選ぶなんて出来ないんだから! きみは、僕がはじめて──僕のぜんぶがきみで──なのにきみは、あのとき僕になにもしてくれなかっただろ!! 僕のことを忘れたくせに!! きみの夏に僕がいなくたって、きみは平気だったじゃないか!! 僕はずっと、ずっとずっとずっと寂しかった……!! きみが悪いんだよ!!」
ナイフが布地を突き破る。刃先が肌に食い込んでいく。
「嫌だ、藤原、こんな……ッ!」
「僕が嬉しいのも楽しいのも苦しいのも寂しいのも、なにもかも全部……!! 全部、きみのせいだ!!」
「やめろ! やめろ藤原、藤原……ッ! ──うわあああああああああ!!」
柔らかい肌を、肉を切り裂いていく。血が噴き出す。視界が赤い。同じ傷だ。これは、あのときと同じ、彼の、藤原優介の傷──。
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