がくん、と首が落ちた。その衝撃で吹雪は目を覚ます。
吹雪はぼんやりと目を擦りながら、壁にかけられた時計を見る。どうやら十分間ほど寝落ちしてしまっていたらしい。ガラス窓の外に降る雨が一層強くなっている。少し身動きしただけでパイプ椅子は軋み、安っぽい金属音が鳴った。
目の前にはぴっちりと閉められた、病的なまでに白く清潔なカーテンがある。そうだ、頭痛がひどいんだと青白い顔でふらつく優介を、保健室まで送ってきたのだっけ。彼がのそのそとベッドへ潜り込むのを見送りカーテンを閉め、なんとなくそばにあったパイプ椅子へ腰掛けたのだ。窓ガラスを叩く雨粒を眺めているうちに自分も眠くなってきて、寝落ちしてしまったのだろう。
ううん、と吹雪は立ち上がって背伸びをし、目の前の白いカーテンへそっと指をかけた。
「(……うん、寝てる)」
優介は仰向けで眠っている。つるんとした卵型の輪郭に、こぢんまりとした鼻と口。伏せられた睫毛は繊細に弧を描き、ぴくりとも動かない。もさもさとウェーブした深緑色の髪も相まって、まるで荊の中にでも囚われているようだった。昔に絵本で見た眠り姫もこんなポーズで描かれていたな、と吹雪は彼の寝姿を見下ろしながら思い出す。もしかしたら永遠にこのままなのではないか、と思うほどに、彼の寝顔は美しかった。
「(……にしても、ちょっとコワいくらい静かだね)」
頭が痛い、と辛そうにしていた割には随分安らかな寝顔だ。保健室へ向かう前に彼自身が服用した鎮痛剤が、効いているのかもしれない。
藤原優介は座学も実技も優秀で、学園内では亮と並ぶ優等生としてよく知られている。見目麗しく人徳も高く、一見完璧そうに見えるものの彼のメンタルは不安定極まりなかった。負けが続いて不機嫌になる程度ならまだ全然かわいいもので、なにをきっかけにしてかは分からないが、一度気分が落ち込めばどこまでも際限なく深く沈み込んでいく。今日のように頭痛がひどいと言って寝込むのもよくあることだった。重心を欠いたアンバランスさ。優介が心身を崩しているのを見るたびに、吹雪はお節介を焼きたくて仕方ない気持ちになっていた。
彼のために、優介のためになにかをしてあげたい。
けれど、なにをしていいかがわからない。
優介は仰向けで目を閉じたまま、微動だにしない。吹雪はしばらく無言でそれを見つめ、かすかな違和感があることに気が付いた。──彼の寝息がまったく聞こえてこない。普通、眠っているときは多少なりとも胸が上下するはずだ。これではまるで、眠っているというよりは、死んでいるみたいではないか。
彼の顔色はお世辞にも健康的とは言い難く、それが余計に吹雪をじわじわと不安にさせていく。色白と言うよりは青白いと言うほうが正解に近い、ぞっとするほど冷えた肌の色。この皮膚の下に本当に血液は通っているだろうか。ヒトらしい体温なんて最初からなくて、造りものの無情さを宿しているのではないか。
「……」
吹雪はおそるおそるカーテンの内側へ忍び込む。できるだけ自分の気配を殺しながら、彼が眠るベッドへじりじりと近付いた。起きる予兆はない。
ぎし、と吹雪はベッドの端へ片手を置く。この距離まで近付いても、まだなお彼の寝息は聞き取れない。上半身をかがめ、眠る優介の顔をじっと見つめた。吹雪の長い茶髪がさらりとこぼれ落ちる。
耳を彼の口元へ寄せる。そこまで接近して吹雪はようやく、優介の細くかすかな呼吸音を聞き取ることができた。生きている。けれどもその寝息だけは不十分なように思えて、得体の知れない不安感がますます吹雪の内側へ広がっていく。
彼の命が確かであることを、直接感じたい。
眠る優介の首筋へ、吹雪は手を伸ばす。深緑色の毛先を掻き分け、人差し指と中指を青く浮いた血管へと当てた。温かい。生きている者の温度だ。添えた頸動脈からは、どく、どく、と血液が体内を巡る音が伝わってきていた。
「なにしてるんだよ天上院」
「え、」
いつの間にか、彼の紫色の両目がぱっちりと見開かれていた。ガラス玉のような瞳は寝起きにも関わらず、はっきりと中心に吹雪を捉えている。突然の覚醒に吹雪は驚き、彼の首筋に添えていた指を引っ込めようとした。が、それよりも一瞬早く、布団の中から出てきた優介の手に捕まえられる。
優介は吹雪の指を捕まえたまま、無感情に呟く。
「天上院、僕が死んでるとでも思ったのか?」
「……思った」
吹雪は肺から声を押し出すようにして答えた。ベッドに横たわる優介を見つめる視線に思わず力が入る。優介は何も言わず無表情のまま、じっと吹雪を見つめ返している。
「…………そう。変なやつだな。横からじっと見つめてきたり、触ってきたり。そこに居られると邪魔なんだよ。眠れないだろう」
起きていたのか、ごめん、と吹雪は返す。優介は鬱陶しそうに眉間に皺を寄せた。そのリアクションに吹雪は目を細め、不服そうに唇を尖らせる。
「……頭痛はもういいのかい」
「うん、鎮痛剤が効いたみたいだ」
「そう。それはよかった。……ボクがそばにいると邪魔なんだね。藤原が心配で、お見舞いのつもりだったんだけれど。……授業に戻るよ」
「…………待って、天上院」
雨脚が一層強くなった。部屋の温度が少しずつ下がってきている。立ち去ろうとする吹雪を引き留めたいのか、手を握る優介の手にぎゅうと力が込められた。体温に縋りつくように、彼は震えながら吹雪の両目を覗き込む。
「藤原?」
「やっぱりまだ行かないで。ひとりで雨の音を聞いてると、嫌なことばかり思い出してしまうんだ。それとごめんよ、うまく眠れないのはきみのせいじゃなくて……。雨粒に体を穴だらけにされてるみたいに感じるんだ。……まだ行かないでほしい。もっと近くに来て、それで……」
もっと近くに、と呼ぶ声は切実で、凍った湖の真ん中から発せられているような張り詰めた緊張感があった。吹雪が彼のベッドの端に腰掛けても、もっと近くに、と呼ぶ声はまだ続く。これ以上に近付いてほしいのであれば、と吹雪は薄氷を踏むように、こわごわとベッドの上へ乗り上げた。横たわる優介を跨いで膝をつき、儚げに嘆く彼の頬へ触れた。
「どうしたの藤原。なにかボクにしてほしいことがあるの? なんでもするよ、きみのためなら」
「なんでも……」
優しく彼の頬を撫でる。吹雪は出来うる限り穏やかに、包み込みような声色で優介へ呼びかけた。茶褐色の落ち着いた瞳は、不安定に揺れる紫の瞳をここぞとばかりに捕まえて離さない。
それが甘く卑劣な感情であることに、吹雪は気付いている。
なんでもする、と言った吹雪の言葉を優介は噛み締めているのか、しばらく沈黙を保った。なにか適切な言葉を探すように目が空中を泳いでいる。はっ、と上瞼の線がわずかに高く上がり、口角も緩く持ち上がる。まるで自身の中にある後ろ暗い希望に気付いたように、さみしそうな笑顔を浮かべて言った。
「……天上院。こう言ったらきみは怒るかな。僕の首を絞めてよ、って」
「え? 首、って、藤原、」
「ねえ天上院、」
優介は捕まえたままだった吹雪の手を引いて、自身の首筋へそっと添え直した。吹雪の肌に再び、どくどくと鳴る優介の脈動が伝わってくる。華奢で細い首。
「藤原、なにして」
「天上院。僕のためになんでもしてくれるなら、僕の首を絞めて。それで、僕を眠らせて」
引き寄せる力が強い。手を首にぐいぐいと押し付けられていて、吹雪は逃げ出すことができない。喉仏を真上から押し潰す感覚。皮膚の下で堰き止められた血液が、行き場を失ってばくばくと熱を持ち始める。吹雪は今、優介に首を絞めさせられている。頭はほとんど真っ白になっていた。
なんでもしてあげるとは言ったものの、まさかこんな申し出なんて。吹雪の中にある甘く卑劣な感情よりも、優介の中にある深淵への期待感のほうが遥かに強い。それだけの話だった。
「や、イヤだ、こんなの、藤原──」
優介の口が苦しそうにぱくぱくと開閉する。それなのに吹雪の手を押し付ける力は緩むことがなく、ただただ自らの呼吸を奪い続けている。絞めさせられ始めてから何秒経った? 十秒か、二十秒か? 優介は自分の手の代わりに吹雪の手を使っているだけで、こんなの自殺行為となんら変わりはない。このままでは彼を、優介を殺してしまう。
吹雪の手は彼の首へどんどん沈み込んでいく。いまにも破裂しそうな頸動脈に、このまま砕け折れてしまいそうな骨。気道だって完全に潰れてしまうかもしれない。吹雪が半泣きになりながら首を横へ振ったとき、そこでようやっと彼の口から、かはっ、と最後の空気が吐き出された。
「ふ、藤原、きみは──」
彼の手が緩み、吹雪はやっと彼の自殺幇助から解放された。解放されたはずみで反射的にうしろへ飛び退き、布団へ尻餅をついた。優介の首に押し付けられていた、彼の首を絞めていた手が、じんじんと熱い。
優介は派手に咽せていた。ベッドの上で体を丸め、酸素を断っていた反動で大きく忙しなく呼吸を続けている。その様子があまりに痛々しくて、吹雪がたったいま覚えた恐怖よりも彼への心配が勝った。
「藤原、だい、大丈夫かい」
「ッ゙、はー、ッ……。……」
小さく丸まった彼の背中へ腕を伸ばす。布団越しでも分かるほどの細く薄い体。吹雪は布団ごと、優介の薄い体を抱き起こした。吹雪の腕の中で、徐々に彼の呼吸が落ち着いてくる。完全に回復するまで、吹雪はただ黙って優介の背中を撫で続けた。
「藤原、きみは、……どうして、こんな」
「……はは。冗談だよ。冗談」
「ふざけないでくれ。いまのが冗談で済まされるわけないだろう」
吹雪は両手で優介の肩を掴み、げっそりと血の気の引いた彼の顔を正面から見た。よく見れば目の下にはうっすらと青いクマが浮かんでいて、顔からは生気が消え去っている。同い年のはずなのに自分よりもずっと幼い子供のような、どうしようもない無力に苛まれている顔。自信たっぷりにデュエルをする普段の様子からは想像もできない。
「……うまく眠れないんだよ。眠らなきゃと思うのに寝付けない。眠りに落ちていく感覚はあるのに、落ちるのを拒まれてるみたいで苦しいんだ。起きていたって現実は変わらないのにさ。それで、眠れるならもうなんでもよくて……」
優介は吹雪から視線を外し、紫色の両目を下へ伏せた。絞り出された本音は雨音に掻き消えていく。
「だから、首を絞めて……? 気絶したら眠れるんじゃないかって、そういうことなのかい?」
「ああそうさ。これまで自分で何度もやってきた。うまくいかないことがほとんどだけど、自分の手じゃなければうまくいくかもしれないと思って。……僕はただ、安心して眠りたいだけなんだよ……」
吹雪は何も言うことができず、優介の懺悔をひとりごとへと変えてしまう。どうしたらいいか分からなくて、ただベッドに座る彼の肩を抱き寄せることしかできなかった。この体温が続いているうちはまだ大丈夫のはずだと、吹雪は自分に言い聞かせるために、優介の肩口へ顔を埋める。
そのとき、吹雪の奥へ引っ込んでいた甘く卑劣な感情が、喉のすぐ手前までにじり寄ってきた。吹雪は声が震えないよう慎重に、間違えないように言葉をひとつずつ選び取る。
「……きみが眠れなくて、ただ眠りたいだけだって言うのなら。藤原、きみが眠りにつくまで、そばにいてあげるよ。眠りについたあともずっと離れずに、きみが自然に目を覚ますまですぐ隣にいてあげるよ。……首を絞めて気絶して眠るよりも、こっちのほうが良いと思わないかい。ねえ」
これは彼のためのずるい罠だ。
触れた肌から伝わる脈拍が、優介の命がまだここにあることを証明している。それを繋ぐためならこの身のすべてを犠牲にしてもよかった。彼をひとりになんてさせたくない。
「……本当に、ずっといてくれるの。天上院、本当に最後まで僕の隣にいてくれるの」
「ああ。誓うよ。約束する。ボクは最後まできみの隣にいるよ」
抱き寄せた肩の向こう側から、優介の嬉しそうな吐息が聞こえた。ふふ、きみはそう言ってくれるんだね、とおまじないを唱えるように彼は呟く。それを聞いて吹雪の中にも嬉しい気持ちが湧き上がってきて、肩を抱き寄せる手のひらに思わず力が入った。
たとえこの気持ちが、優介の張った罠に嵌まっているのだとしても構わない。
部屋に満ちた雨音はますます苛烈になっていく。このままの勢いで雨が降り続けば、地上のすべては水へ沈んでしまうに違いないとさえ思った。幕が引かれるのも時間の問題だ。きっと自分たち二人は箱舟になんて乗せてもらえないだろう。白いカーテンで隔離されたこのベッドは、あまりにも死に近すぎて、棺の真似をするのが精一杯だ。
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