うららかな春の日だった。
木漏れ日が溢れるベンチに座り、亮はデッキを最終確認する。《サイバー・ドラゴン》。愛着があり、伝統あるサイバー流のカードだ。亮はとりわけ、この《サイバー・ドラゴン》のカードが気に入っていた。特殊召喚のしやすさもあるが、あの白銀色に輝く龍をはじめて見たとき、気高さや誇り高さとはこういうことを言うのだと、ひどく感銘を受けてしまったのだ。
四月の日差しは温かく、すぐ横の食堂から出てくる生徒たちもどこか浮き足立っている。春はただでさえ気が大きくなりやすいのだから気をつけないと、と亮はぴっちりと背筋を伸ばして座り直した。デッキの調整に集中すれば、周囲の雑音程度すぐ聞こえなくなるだろう。
「(……この構成では少し安定力に欠けるだろうか。ドロー系のカードを入れるのもいいかもしれない。だがそうなると枚数が多くなりすぎてしまうし……)」
カードをめくりながら亮は脳内で思索を巡らせる。亮はこうして、少しでも時間があればデッキを確認したり新しいカードとの組み合わせを考えることが癖になっていた。青い髪が風にそよぎ、視界をちらちらと刺してくる。
「(いや、ドローカードなんて必要ないだろう。ドローは運が絡んでしまう。そうするよりも、欲しいカードを確実に手札に持ってこれる手段のほうが重要だ)」
「……くん、ねえ。聞いてる?」
「(確実な手段といえば、そうだな……たとえば墓地を経由するとか、あるいは除外ゾーンを経由したり、そんなカードがあるとしたら……)」
「ねえってば、聞こえてるかいっ、丸藤亮くん!」
「!?」
突然呼びかけられて亮ははっと顔を上げる。女子生徒のように長めに伸ばされた茶髪。くっきりした顔立ちはほんの少しだけ不満げで、ご立腹といった様子の男子生徒がひとり立っていた。
「さっきから呼んでも全然返事しないから心配になっちゃったよ。デッキの確認をしてたの? すごい集中力だね」
「あ、ああ。すまない、集中してると周りが見えなくなるんだ。……きみは、確か……天上院、とか言ったか」
天上院吹雪。直接話すのはこれが初めてだが、学年でもちょっとした有名人らしいと話には聞いていた。彼は長い茶髪を靡かせながらニコニコ微笑む。
「知っててくれたの? 嬉しいなァ。吹雪って呼んでよ」
「人気者らしいからな、天上院は。いつも女子生徒たちに囲まれているのを見ていて、女子なんじゃないかと思っていた。男子だったんだな」
「え? あはは、なんだかズレたことを言うね、きみは。ボクが女の子だって?」
「髪も長い。でもスカートを履いていないから男子だ」
「ヘェー……。でも女の子だってズボン履くよ? もしボクがそういう子だったらどうするの?」
「……そうだな、」
亮は手に広げていたカードたちを一旦束の状態へ戻した。指先でそれを整えながら、正面に立つ彼を視界に捉え直す。長い茶髪、細く筋肉のない体、身長は平均よりも幾分か高めで、自分と同じくらいだろうと予測がついた。だが指先に骨っぽさはなくむしろ滑らかで、言われてみれば確かに、女子の要素がまったくないというわけでもない。しかし亮は既に決定的な証拠をひとつ見つけていた。
「ここ。喉仏がある。首は細いのにそこだけ飛び出ていて、よく目立つ」
「……ふうん。きみ、面白い子だね」
指先で自身の喉仏をぐるりとなぞる。そう言った亮自身も声変わりを終えたばかりで、このゴリゴリした出っ張りにはひどく違和感を覚えていた。低く重くなってしまった声にも未だ慣れない。
「ところでお昼は?」
「もう食べた」
「早いね。隣、座っていい?」
「好きにしろ」
どうも、と吹雪はすぐ隣に腰掛けた。そこで弁当でも食べるのかと思ったが、そういうわけでもないらしく彼はただ横でニコニコと亮を眺めている。デッキの確認を再開しようとしても、目の端になにかが入り込んできて非常に鬱陶しく感じた。
はぁ、と浅く息を吐き、おそるおそる視線を横へ移す。彼はなにが楽しいのかにっこりと口を横へ広げた。
「ねえ、丸藤亮くん」
「なんだ」
「きみ、学校中で噂になってるよ。もしかして気付いてない?」
「噂……?」
予想外の単語に、亮は不思議そうに首を傾げる。ふふん、と吹雪は得意げに鼻を鳴らし、座ったまま上体を亮へと一呼吸分だけ近付けた。
「やっぱり自覚なかったんだ。みんな噂話が好きなのさ、中等部二年で転入してくるなんて珍しいからね。知ってる? きみがなんて呼ばれているか」
「知らない。興味もない。生憎だが俺が興味を持っているのはデュエルだけだ」
「うわぁ淡白。まあそう言わずに、ちょっとボクとお喋りしてよ。いいだろう? まだ昼休みはたっぷりあるんだし」
ね。と鳶色の双眸が亮を覗き込む。長く濃い睫毛に囲われていて、人を惹きつけることに長けた目だ、と亮は思った。こんなに正面から切り込んでくるやつもなかなか珍しい。
「……まあ、できるだけ手短に済ませてくれるなら」
吹雪は顔をぱっと明るくさせ、そう言ってくれて嬉しいな、と自身の両手を合わせた。ふわりと柔らかい春の風が吹く。彼はその風をいなすように前髪を払い、足を組んで意気揚々と話し始めた。
「きみ、『神童』って呼ばれてるんだよ。なんでも中等部の転入試験を、筆記も実技も歴代最高得点でクリアしちゃったったらしいじゃないか。中等部の転入試験は、高等部の試験よりも難しいっていうのは有名なんだ。それでこの前気になって過去問を調べてみたけれど、よっぽど優秀じゃないと中等部の途中からは入ってこれない仕組みみたい。ほら、中等部での成績が高等部での待遇に響いてくるからね。それなのにまさかの一発合格、歴代最高得点! アカデミア開校以来の超天才、まさしく『神童』だって、学年中、いや全校生徒がそう話してる。……ホントにきみは特別な有名人なんだよ、丸藤亮くん」
「……『神童』」
風が木立を吹き抜ける。吹雪からの話はどれも初耳で、そんなふうに周囲から思われていたなんてまったく想像もつかなかった。亮の上瞼がわずかに沈む。
「そんな、俺が『神童』だなんて。過大評価だろう。俺はそこまで特別じゃない」
「いいや、特別だよ。編入時の成績が物語ってる。きみは非凡で、いわゆる天才ってやつなのさ。ボクと同じでね」
ぱちん、と吹雪は亮へ向けてウインクをした。星が小さく弾け飛ぶ。きらりと輝くその星を直視できず、亮は再び視線を膝へ落とした。木漏れ日の中で青葉の影が揺れている。
「(特別、か。……特別も、神童も、嫌な響きだ)」
事実、亮はこれまでの人生でずっとそう言われてきた。当たり前のことを当たり前にこなしているだけなのに、成績は常に並以上、それどころか得点トップを叩き出す。なにをやってもそうだった。言われた通りに宿題をして、規範とすべきものをきっちりと厳守し、こつこつ勉強を積み重ねてきた、たったそれだけのことなのに。
「……神童だとか、非凡だとか、天才だとか。特別でよかったことなんて、ひとつもない」
亮は目線を中庭の奥へとずらした。自然溢れるこの学園はあちこちで鮮やかな花が咲いている。名前は分からないが大ぶりで濃いピンクの花が、ぽんぽんとスタンプでも押したように花開いていた。
昼休みということもあり、何人かの生徒たちがふざけて走り回ったり、大声で笑い合ったりしている。亮は無言で目を細め、脊髄に針金を通したかのように背筋を伸ばした。その様子を見た吹雪は、手を顎に乗せて少し考え、冷ややかに口を開いた。
「……へぇ。丸藤亮くん、きみ、雰囲気あるねえ。筋金入りってかんじだ」
「だから。やめてくれないか、そういうのは」
「ボクの話はまだ終わっていないよ、青い髪の転入生、丸藤亮くん」
「髪?」
思いも寄らないことを言われ、ふと亮は自身の横髪を触った。生まれつきの青い髪。頓着がないせいか襟足は気付けば長く伸びがちだった。
吹雪は足を組んだままベンチに片手を付いて、下側から覗き込むようにして顔を亮へ近付ける。煌めきに溢れすぎていて捉えどころのない瞳が、逆に亮を絡め取っていく。
「だってこの、アクアマリンの青い髪! 遥か彼方、どこか遠くの海みたいな深い色で。異国の風景を見てるみたいで憧れちゃうのさ。ボク含めてね」
「……容姿は関係ないだろう」
「いいや、関係あるよ。大アリさ。みんな、天才は身も心も綺麗であってほしいって思ってる。心はどうだか分からないけど、外見はおもてに出るからね。分かりやすいのさ。……へえ、きみ、瞳も髪と同じ色なんだ」
いい色だね、と吹雪は亮の頬へ片手を伸ばした。首の角度がわずかに変えられる。このアクションがどういった意図を持つものなのか見当がつかず、亮は一切の表情筋を動かさないままにじっと吹雪を見つめ返す。彼の指先が耳の生え際とこめかみとの間をなぞっている。
「きみが転入してきてからの二週間。話題を掻っ攫われちゃって、正直面白くないんだよネ。ボクの親友もさ、ボク以上に転入生の『神童』の話ばーっかりするようになっちゃって。あの子があんなにミーハーだったなんて知らなかったよ。……に、しても。ふうーん……へぇー」
「さっきからなんの話だ」
「別にぃ。きみが想像以上に格好いい顔だったから妬いてるだけさ。そうかそうか、やっぱり美形は遠くで見ても近くで見ても美形なんだねぇ。これじゃあ非の打ち所がない」
「だから、容姿がどう関係してくるんだ……」
「ねえ、話聞いてた? それともここでキスでもしてみないと分かんない?」
「……」
頬に手を添えられたままの状態で、亮はしばし無言で考える。なるほど、注目の対象を奪われてしまったことに対して思うところがあるのか。頭皮に差し込まれた彼の指先は、なにかをアピールするように横髪を弄んでいる。亮は相変わらずの真顔で口を開いた。
「悪かった。周囲に興味がなさすぎて、そういったことまで考えが及ばなかった。配慮が不足していた俺の不手際だろう」
「……あのさァ、ボクが言いたいのはそういう話じゃないんだよね」
「じゃあなんだ」
「…………」
吹雪はじめついた視線を向けている。彼の睫毛は密度が濃いうえに長く、こうしてまじまじ見るとずっしりとした重みを感じるほどだ。それにしても、容姿が関係するというのなら何にせよ一番は彼になるはずだ。最適な位置に最適なパーツが収まっていて、整っていると呼ぶには十分すぎるくらいだろう。
すり、と吹雪の手のひらが頬骨のあたりを撫でる。彼は目を湿気らせたまま、ぐっ、とその端正な顔立ちをすれすれまで亮へ近付けた。吐息をかけてしまいそうなほどの近距離に、亮はわずかばかり眉根を寄せる。
「……なんの真似だ?」
「……それ以外に言うことないの?」
「さっきから、俺になにを言って欲しいんだ? はぐらかされてばかりで発展性がない。話があるなら手短に、と俺は言ったはずだ」
亮は目線を逸らさずまっすぐに答える。彼はそれを鈍く重く跳ね返し、なんの前触れもなくパッと飛び退くように身体を剥がした。
「冗談! いまのは冗談さ。いやなに、きみがあんまり堅物だから、ちょっとからかってみたくなって」
「いい迷惑だな。今後は控えてもらえるか」
「つれないなァー。ていうか、本当にそれだけ? もうちょっとボクに興味持ってくれてもいいんじゃない?」
「……興味?」
怪訝そうな声色がぽとりと溢れ落ち、えっ、と吹雪はそれに目を丸くした。
「まさか、本当にデュエルのことしか興味ないって言うの? えっ嘘だ、そんなの嘘に決まってる」
「嘘じゃない。さっきも言っただろう」
「ええ、そんな人間がいるなんて! だ、だっていまきみの目の前にいるのはこのボク、天上院吹雪なんだよ? 本当に本当に、一ミリ足りとも興味が持てないって言うの?」
「それは……他人に対して興味があるとかないとか、俺はあまりよく分からなくて」
亮の証言は真実だった。会話をする必要がある相手、目の前で対峙している相手はともかく、多数の中から好きなものを選び取ることがほとほと苦手なのだ。この世はあまりに猥雑で、ちっとも整理されてない。何を基準に選べばいいのか、どう歩けばいいのか、どの道を歩けばいいのかなにも知らなかった。
亮の無関心っぷりに、吹雪はえらく狼狽している。信じられない、とでも言いたげに愕然とした表情を浮かべ、それはやがて憐れむようなものへと変わる。
「……きみ、前の学校でちゃんと友達いた?」
「おい、そんなふうに露骨に悲観してくれるな。俺は別に、友達とかそういうのは」
はあぁ、と吹雪は深い溜息を吐いた。外国人がよくするように肩をすくめ、大袈裟なそぶりでやれやれと両手を広げる。おもむろに指を一本、ぴっ、と立てて、どこか独善的な視線と共にそれらを亮へまっすぐに向けた。
「よぉし、じゃあこうしよう! ボクが今日からきみの友達第一号だ。ボクはきみに興味があるし、きみはボクのことを知らなくちゃいけない。いいね?」
「いいわけないだろう、どうしてそうなるんだ。勝手に決めるな」
「そうかなあ、これ以上ないくらい魅力的なアイデアだと思うんだけど。だってボクへの興味が何一つないなんて、絶対ありえないもの」
「凄まじい自信だな。どうしてそう言い切れる?」
思い出したようにそよ風が吹き、髪の先が爽やかにくすぐられていった。ふふん、と吹雪は上機嫌に微笑み、亮の耳元へそっと唇を寄せた。
「実はね。ここだけの話、ボクは空から零れ落ちた天使、恋を司るキューピッドなのさ。──そう言ったら、きみは信じるかい? 丸藤亮くん」
木漏れ日の中で、吹雪は詩を口遊むように笑っている。風は確かに金色で、並大抵の奴ならば鵜呑みにしてしまうだろう説得力を彼は纏っていた。彼が天使を名乗るなら、当然それが正しいのだろう。同い年とは思えないほどの、有無を言わせない迫力がある。
ただ、いま彼を相手にしているのはこの俺、丸藤亮だ。亮はきっぱり強く言い放つ。
「信じない。天使なんていうのはカードの中だけで十分だ。そんなものは実在しない」
ふと手元にさみしさを覚え、亮は片手に持ったままだったデッキを持ち替えて、何度かオーバーハンドシャッフルをした。規則的な動きとカードが擦れる音が心地よい。吹雪は亮の様子を見て、煽るように一笑する。
「はは、やだなあ、もちろんジョークさ。そんな力強く否定してくれちゃって。もしかしてちょっとは本気にしてくれたってこと?」
「……天上院、」
「吹雪って呼んでよ」
悪戯っぽい笑み。なんてしらじらしくて、掴みどころがない男なんだ。正体は天使を自称するだけの小悪魔なんじゃないだろうか。亮はデッキシャッフルを止め、カードの束の側面を指でざりざりと撫でながら考える。
さっきからペースを完全に握られてしまっている。振り回されているのだ、この俺が。こんな受け身になることなんていままでになかった。背筋を正しく伸ばしていれば、煩わしいコミュニケーションに巻き込まれることもないと、そう信じていたのに。
この、天上院吹雪という男は、それらの障壁をすべて易々と飛び越えてくる!
「ところで丸藤亮くん。知ってるとは思うけど、次の授業はどこでなにをするんだっけ?」
「……第一デュエル場で、二年生全員での実技演習だ」
「そう。そのためにデッキを見てたんだよね。……昼休みが終わるまで、もうそろそろだね?」
「!?」
亮は慌てて中庭の時計を確認する。次の授業が始まるまでもう幾ばくもない。あれだけ溢れていた多数の生徒もいまやすっかり校舎内に戻ってしまっていて、ただ春の草花が陽光を浴びているだけだった。
「天上院、お前──」
「だからさ、吹雪って呼んでよ。うーん、これは時間を見てなかったボクに非があるなァ。意地悪をするつもりじゃなかったんだよ、本当さ。でもゴメンね? これじゃ遅刻しちゃうね」
吹雪はそう言う割に焦っている素振りはなく、呑気に頬杖をついてニヤついていた。その態度にもとからほとんど無かった愛想が完全に底をつき、急いでベンチから立ち上がった。だがその弾みに、手にしていたデッキがばらばらと崩れ落ちる。あっ、と亮は落ちたカードを拾おうとするが、それよりも数秒早く吹雪が先に拾い上げた。
「……《サイバー・ドラゴン》?」
「返してくれ」
「どうぞ。ボクは初めて見るモンスターだ」
吹雪からカードを受け取り、デッキをポケットへしまう。もうこんなやつと会話する必要もないだろう。亮はさっと踵を返し、屋内へ戻って早足で第一デュエル場へ向かう。
「ねーえ、いまのモンスターなに? ドラゴンと付くのにドラゴン族じゃなくて機械族だなんて、聞いたことないよ。あれがきみのフェイバリットカード?」
かつかつと靴の踵が早いテンポで鳴る。吹雪が背後からなにか言っているようだが、いつまでも構っていられないと無視を決め込む。この鬱陶しい同級生を引き離したく、靴音は徐々に早くなっていく。
「光属性のレベル5で、特殊召喚がすごくしやすい。いいモンスターだね!」
「……」
「機械族ってことは、機械で出来た龍のことかな? ああ、だから光属性なんだね。電気が通ってるイメージで」
「……」
「サイバーと名の付くモンスターならボクの妹も何種類か使っているけれど、そっちとは関係なさそうだ。光属性なのは共通しているけれど」
「……」
目的地が同じだから当然なのだが、吹雪はいつまでもついてくる。廊下にちらほら残っていた生徒たちは有名人二人の様子が気になるようで、嫌な興味を惹いてしまっていることも迷惑だった。しかしここでなにか言い返してしまうのは吹雪の思う壺だ、と亮はあらゆる反応を示さないように留意する。
「このあとのデュエルの実技演習、楽しみだなあ。いまのモンスターがどんなふうに使われるのか早く見てみたいよ」
「……」
「……ねえ、丸藤亮くん。さっきからさぁ……ちょっとくらい返事してくれたっていいじゃないか。だってボクはきみの友達第一号だろ? これでも天才同士、きみと仲良くなりたいんだって言ってるつもりなんだけど、伝わってない?」
──天才同士?
亮の青い瞳が揺らぐ。足取りはもはや早歩きを超えて小走りと言っていいスピードになっていた。ぐ、と無意識のうちに右手へ力が込められる。
吹雪は亮の動向などいざ知らず、平然とした様子で独演を続ける。
「あっ言ってなかったっけ? この学園にはきみの他に、天才が二人いるんだよ。特別で、非凡で、身も心も綺麗であってほしいって切望されてる、そんな天才がさ。一人はこのボク、天上院吹雪。もう一人は──」
「……だから! いい加減にしろ、俺について来るな、いつまでも構ってくれるな!!」
「! あ、待ってよ!」
ぐ、と足の指先へエネルギーを滾らせ、亮は荒々しく廊下を走り出した。青い髪が鋭く宙を裂く。校舎内の地図なら既に頭に入っているため、方向に迷いはなかった。
特別だとか、天才だとか。
どうしてみんなそうやって、俺ばかりを褒め称えるんだ。そう褒められて良かったことなんて、ひとつもないのに。
──お兄さんは、特別だから。
そうやって上着の裾を握りしめ、平均よりもうんと小さい体躯をさらに小さく縮こませて、あの子はそう言った。あそこの兄弟は兄貴のほうがなにもかも全部持っていってしまったのね、と誰かが言うたびに、弟は静かに俯く癖がついた。
けれど、自分ばかりを持ち上げるのをやめてくれと言うことも、なんだか憚られて。
「(……走っていて脚が痛い。…………嫌なことばかりで、うんざりする)」
ずきん、と膝下に痛みが走る。一歩進むごとにそれはどんどん大きくなり、第一デュエル場のすぐそばまで来たところで亮は走るのをやめた。準備運動もなしにダッシュしたために息が上がっている。一拍置いて、後ろから吹雪が追いついて来た。
「待ってよ! まるふじっ、丸藤亮くん!」
「……亮でいい」
「えっ?」
肩で息をする最中、亮はじっとりと後ろを振り返る。そのへらへらした軽薄な立ち振る舞いが視界に入るだけで、苛々してしょうがなかった。亮は温度のない目線で、静かに冷気を込めた声色で言う。
「亮でいい。呼び方。いつまでもフルネームでは呼びづらいだろう」
「えっ本当!? じゃあ友達っていうのも、」
「いいや。それは断る」
吹雪の綻んだ顔は瞬時に曇った。亮は走って乱れてしまった髪と服装を直しながら、呼吸をそっと整えていく。脚の痛みだけは健在だが、それもじきに治まるだろう。デュエル場へ向かうのを再開し、後ろを振り返らないままに吐き捨てるような口調を放った。
「名前で呼んで構わない。だが、もう俺につきまとうのは、金輪際やめてもらう」
「……っ、そんな」
亮、と背後で自分の名前が呼ばれているが、それにつられて見返ることはない。亮はまっすぐに姿勢を正し、第一デュエル場へのドアを開けた。
感触が、妙に軽い。
「あれっ、あっ、ごめんね、入るところだったんだ。先生かと思った……」
ドアの内側から、若草色の頭髪の男子生徒が現れた。感触が軽かったのは、どうやら外側と内側から同時にドアを開けたせいらしい。ああすまない、と亮は彼の横を通り抜けようとする矢先。えっ、とその彼が息を呑む音がはっきり聞こえた。
「──天上院! きみ、まさかあの『神童』丸藤亮を連れてきたのか!?」
彼は亮と吹雪とを見比べて、紫色の目を大きく開かせて驚く。その表情は嬉しさと興奮と困惑と恐れがすべて混じったものであることは、さすがの亮でも手に取るように分かった。