蓋を回し開けるとコーヒーの香りが鼻をかすめた。だいたいこんなものだろう、とスプーンで大雑把にそれを掬い、まだ空の水筒へざらざらと落としていく。
コンロに掛けた二種類の小鍋が丁度沸いた。片方はお湯で、もう片方は牛乳だ。この牛乳特有の乳臭さがあまり好きではなく、ジャックは思わず顔をしかめる。こんな夜中に勝手に火の前に立ち、その上こんなに牛乳を使ってしまったとバレたらマーサにどれだけ怒られてしまうだろうか。
「(まあ、おれが飲むわけではないしな)」
コンロの火を二つとも止め、インスタントコーヒーを入れたほうの水筒へお湯を流し込んでいく。スプーンでは底まで届かないため菜箸を一本拝借し、溶け残りがないようにかき混ぜた。だいたいこんなものでいいだろう。いかにも苦そうな香りが広がり、その大人っぽい雰囲気にジャックの期待感は静かに高まっていく。
もう片方の水筒には沸かした牛乳を詰めた。蓋をしっかり閉めたそれらをリュックの中へ納め、ハウスの誰かに見つからないようこそこそと台所を出ていく。向かう先は決まっている。ベランダだ。
「遊星」
ベランダの向こうは暗い。その闇に溶けるようにして、遊星が立っていた。ジャックの気配を感じ、彼はゆっくりこちらを振り返る。
「ジャック」
夜を研いだような黒髪に、濃い金の髪が冴えている。ジャックはベランダのガラス戸を半分開け、じっと遊星を見つめた。彼の頬にはいまの自分と同じようなガーゼが当てられていて、痛々しいことこの上ない。ガーゼの位置以外にも薄い擦り傷や赤い腫れがうっすら浮いているが、自分ほどではないだろう。
「部屋にいないと思ったら。やっぱりここに居たか」
「“やっぱり”? もしかして、前から気付いていたのか」
「当然だ。おれは年長なんだからな」
ふ、と遊星の頬が緩む。
遊星が夜中によくベッドを抜け出していることをジャックは知っていた。音もなくベランダを開け、その隙間へ幼い体躯を滑り込ませるのをジャックは何度も目撃している。彼は特になにをするわけでもなく、ただぼうっと空を見上げたりしているだけなので彼の行動を告げ口したりなどは一切しなかった。
どうせベッドの中にいても遊星は眠れてなどいないのだ。夜を過ごすのが布団の中か外かなだけで、本質的な問題は別のところにある。
びゅう、と真冬の厳しい風が吹き抜け、二人は思わず身を縮こまらせた。遊星、とジャックはベランダに立つ彼へ呼びかける。
「こんなところじゃ見えるものも見えないだろう。行くぞ」
「? 行くってどこへ」
「二つ隣の地区の廃ビルだ。このあたりで一番高い建物ならこの地区内にもあるが、あそこはガラの悪い大人たちが住処にしてる。二つ隣のところならその心配もない。遊星、ついてこい。ピクニックだ」
「はは、ピクニックか。ジャックからそんな言葉が出ると、少し面白いな。……二つ隣の地区って、いいのか、だって隣の地区のやつらは今日……」
「問題ない。こんな時間だ、きっと寝てる」
ジャックはテーピングが巻かれた指でリュックを背負い直した。擦った箇所が淡くひりひり痛む。
「……もしかして、そのリュックはその散歩のためか?」
そうだ、とジャックは頷く。
「おれのぶんはコーヒーを詰めた。おまえは牛乳を飲みたいだろうから牛乳だ。わざわざ温めてやったんだぞ、喜べ」
「ああ、ありがとう。……ジャック、コーヒー飲んでみたいって言ってたもんな」
「そうだ。あと、台所の奥からビスケットをいくつか拝借した」
「さすがだなジャック。わかった、行こう」
冬風を纏いながら遊星が戻ってくる。どうせまたすぐに屋外へ出ていくのだが、それでも彼が背負っている冷たさは冬風だけが原因ではないような気がして、ジャックは無言で彼を見下ろした。それに呼応するように、どうした、と濃紺の瞳は視線を投げ返してくる。
なんでもない、とジャックは返し、遊星と共に忍足でハウスを抜け出した。
***
二人分の白い息が次々に浮かんでは消えていく。満月だった。
ジャックは後ろを向く。遊星が問題なくついてきていることを確認し、一緒に廃ビルへと侵入した。壁と屋根があるだけで窓ガラスはすべて割られており、防寒になる要素はなにひとつ残っていない。懐中電灯を点けたところで、返ってくるのはコンクリート打ちっぱなしの壁が放つ無骨な冷たさのみだ。
ガラスの破片を踏みながらビル内を進んでいく。七階分の階段をぐるぐる上がり、二人は息を切らしながらも一番上に辿り着いた。屋上へ出れる鍵が壊れているのは確認済みだ。ジャックが最初に見つけたときからなにも変わっていない。
「ここだ」
蝶番が軋む。殺風景で何もない屋上だ。けれど本題は屋上そのものではない。
「……空が広い」
遊星はぐるりと空を見上げる。このあたりで一番高いビルからの景色だ。空間を遮るものはなく、ただただ真っ黒な夜空が二人の頭上に覆い被さっていた。遊星は上を向いたまま、ひらひらと屋上の真ん中へ躍り出ていく。
「ジャック! ここは空が広いな。こんなに空が広く見える場所があるなんて知らなかった」
柵も手すりも何もない平らなだけの屋上で、遊星は笑っている。月夜の明かりを受けながら白い息を吐いていて、ひょっとしたら自分が知らないだけで彼は地上から少し浮いているのかもしれない、とすら思えた。ジャックもおずおずと屋上の中心へ踏み出る。
「こっち側からあっち側までぜんぶ、空の端っこがぜんぶ見えるなんてすごいな。ああ、あんな地上すれすれの場所に星が在ったのか。ジャック、ほら見てくれ。あんなところに星が在る」
「……ずいぶん楽しそうだな、遊星」
ぴたり、と遊星の顔が一瞬強張る。頬に貼られたガーゼがわずかにヨレた。軽やかだった遊星の足は止まり、重力を思い出したように鈍くコンクリートへ沈んでいく。
「……いけないか?」
「ああいや、違う、そんな意味で言ったんじゃない」
「いいんだ」
細められた濃紺の瞳は寂しそうにジャックを視界から手放した。硬い鉱物のような表情を浮かべ、遊星はさっと体を翻す。
「違う、遊星」
「ジャック。おれがこの場所を知らなかったように、ジャックが知らなくておれが知ってることがあるんだ。そんなの誰だってある。みんな同じだ。だから、本当に気にしないでくれていいんだ。おれのことなんて」
「遊星!」
「別に怒っちゃいないさ。ジャック、……おれはただ、」
遊星はジャックに背を向けたまま屋上の際まで歩き、空中に脚を放り出すようにしてその場へ座る。丸めた背中は実寸以上に小さくか弱く見えた。名状し難い感覚に、ジャックの足は勝手に遊星の方へ進んでいく。遊星、とまじないでも唱えるように彼の名前を口にする。
「遊星」
真冬の風が屋上を均すように吹き渡っていく。月が丸く明るい。
実のところジャックには、遊星の言う空の広さなど露ほども分からなかった。空なんてどこへ行こうがどこへ立とうが同じだと思っていて、星がどれだけ見えるかなんて全く興味が湧かなかったのだ。ジャックに分かるのはせいぜい月の明るさだけで、それ以外のことはこの掃き溜めの街を覆うための蓋でしかなかった。
だから、遊星が見つけたという星を、ジャックは見つけることができない。
ジャックは遊星のすぐ後ろに立つ。
「……遊星。おれは、」
「おれはただ、怖かったのかもしれないな」
ぽつりと言葉が落とされた。その小声はすぐさま風に拾われて、跡形もなく街へばら撒かれていく。その街のほとんどは黒に飲み込まれていて、ところどころに灯る明かりはあるもののそのいずれにも自分たちの言葉は届かないだろう。
「なあジャック。冬の空は、夏の空と全然違うな」
「? そうなのか」
「ああ。向こうの工場地区からの煙が少し邪魔だけれど、このあたりはまだ空気がキレイだ。風も濁っていないし、イヤな匂いもしない。……だから星がよく見える」
遊星は顔を上げ、そのまま後ろへ倒れるようにして背中を地べたへくっつけた。コンクリートが相当冷たいはずだが、ダウンジャケットのおかげなのかさほど寒そうにはしていない。ジャックの足元に彼の頭部は置かれ、くっきりした睫毛が夜空を挟み込む。
「夏の空はあんなにたくさん、川みたいに星が見えていたのにな。いつのまにか消えてしまった」
遊星の言葉につられ、ジャックも思わず空を仰ぎ見た。そう言われるまで気付かなかったが、言われてみれば確かに随分と様相が変わっているように思う。夏は青い絵の具に少しだけ黒を溶いたような色だったのに、いまは黒い絵の具に青を溶いたような、そんな色をしていた。
「あの星たちはどこへ行ってしまったんだろう。みんな変わってしまうんだろうか。……ジャック、」
その夜空とよく似た色の瞳がこちらへ向けられる。ジャックは膝を折り、なんだ、とだけ返事をした。
「ジャックは、……格好いいな」
「急にどうした」
「今日みたいなときだってためらわずに出て行けるだろ。自分のことじゃないのに」
「あれは隣の地区のやつらが悪いだろう。先にけしかけたのはあっちだ。それに、おれが出て行ったのは遊星のためじゃない。あのとき出て行かなければおれは、ただ黙って見てただけのやつや、無視をしてたやつと一緒になってしまう。おれがそうなりたくなかったから殴り返しに行ったんだ」
「はは、ジャックらしい。……そういうところが格好いいんだ」
遊星は目を細めて笑う。頬のガーゼが白くてやけに目立っている。ジャックはふと、自分の頬の傷跡が熱を帯びていることに気付いた。ぴりぴり、じくじくと皮膚とガーゼの間へ生々しい体液が染みていく。ジャックはまるで他人の傷をさするような仕草で、恭しくそれをなぞった。
「……痛いな」
「ちょっとだけさ。いずれ治る」
風が冷たい。ジャックは何も言わないまま遊星の横へ座り、リュックを降ろした。水筒を二本取り出して、蓋をカップにしてそれぞれの中身を注いでいく。白い牛乳と真っ黒のコーヒーからそれぞれ湯気が立つ。
「まだ温かいな。けっこう歩いたのに」
「魔法瓶だからな。ありがたく飲め」
遊星は体を起こし、ジャックが差し出したカップを受け取った。ジャックのカップからはインスタントコーヒーの香りが立ち昇っている。大人っぽい香りに思わず背筋が正される。口先でそっと冷まし、ジャックはそうっと最初の一口を啜った。
「……なんだこれは。ただの苦いお湯ではないか」
苦い。想像していたものの数倍苦い。はじめてのコーヒーへの期待は瞬く間に裏切られ、ジャックの機嫌はくるりと反転してしまった。最悪だ、と言わんばかりに眉間に皺がより顔がしかめられる。
「まずいのか、コーヒー」
「まずいと言うより、なんだ……。苦いな。ひたすら苦い。濃いのかもしれない」
それでもジャックは顔をしかめながらちびちびとカップの中身を啜る。インスタントコーヒーを溶かす際に目分量でやってしまったのがよくなかったのかもしれない。舌に広がる苦味を誤魔化そうと、ジャックはリュックの中からさらにビスケットを取り出した。こちらはほんのり甘く、さくさくしていておいしい。
「遊星。おれがこの場所で見せたかったのは、空なんかじゃないんだ」
ビスケットを一枚指先でつまんだところで遊星の動きが止まる。ジャックは空いているほうの手をまっすぐ地上と並行に伸ばし、はるか遠くにある光の塊を指した。
「おれが見せたかったのは街だ。街の明かりだ。シティの光だ」
それは地上と海と空の境界線を繋ぎ合わせるように発光していた。青白い光が煌々と放たれていて、それはいま二人の真上に昇る満月よりもはるかに明るいに違いない。
「……あれがシティ」
「そうだ、あれがシティだ」
遊星の横顔はまっすぐに光の塊を見つめている。ジャックの知る限り、遊星がシティの様子を眺めるのはこれがはじめてだろう。これだけ高低差のある場所に行ったことはいままでないはずだ。ジャックは再び正面の景色に視線を移し、淡々と話し始めた。
「おれはいつかシティへ行く。いつまでもこんな街には居たくない。工場地区にいる大人たちみたいにはなりたくない。錆びた鉄くずの匂いなんてうんざりだ。シティには光がある。陰ることのない、尽きることのない光だ。おれは光の差す道を歩きたい」
サテライトとシティの間は広大な海で隔てられ、近付くことは容易ではない。ダイダロスブリッジだって途中までしか架かっていないし、続きが架けられることも絶望的だ。こちら側からあちら側へ渡る手段は相当限られる。
だからこそ、シティの光はジャックにとっての憧れになった。
あの眩しい光の下にはなにがあるのだろう。きっと食事に困ることもないし、サイズが合わなくなった窮屈な靴を履き続けることもしなくていいし、隙間風を気にしながら眠ることもしなくていいだろう。デュエルモンスターズのカードだってゴミ山から拾ったものなんかじゃなくて、お店で新しいものを買えるかもしれない。
ジャックの紫色の双眸に、シティの中心にあるというモーメントから放たれる輝きが映り込む。輝きはジャックの願いを取り込んだかのようにきらきらと拡大していく。
「あの光はおれの夢だ」
ゆめ、と遊星は小声で復唱する。ジャックはゆっくり遊星へ視線を移し、己の眼に宿した光を遊星へ投げかけた。
「遊星。おれがシティへ行くときは、おまえについてきてほしいと思ってる。簡単なことじゃあないだろうが、遊星ならきっと、おれが歩いた道を辿れるだろう。おれがいなくなったとしても、おまえならおれを見つけられる。いいや、絶対に追いかけてくると、そう信じている。どんなに眩しくても、おまえはおれの足跡を見失ったりしない。だから、」
──だから、おれと同じ夢を見てほしい。
ジャックはまっすぐに、揺れることのない顔つきで遊星にそう告げた。
屋上の一切を吹き飛ばすような冷たい北風が吹き荒ぶ。テーピングを巻いているとはいえほとんど素肌のままの指先がひどくかじかんだ。コーヒーは手元でまだ湯気を上げているが、カップが魔法瓶のため熱を遮断してしまっているのだ。
遊星はシティを見つめたまましばらく無言のままでいた。小さく薄めの唇は閉じられ、自分よりも年下のはずなのにどこか大人びて見えた。彼の黒い毛先が風に揺れる。ジャックは沈黙を誤魔化すようにコーヒーを啜った。苦い味がする。
「夢か。……いいな、ジャックは」
ふいに遊星が口を開いた。それまでずっとシティの明かりを見つめていた瞳が、ようやくジャックのほうへと向けられる。黒い前髪が風に靡いていて、彼に宿っているだろう光の行方は確かめられない。
「……ジャック」
「なんだ」
「ここはいい場所だな。空も広いしシティも見える。風は寒いけど、ジャックがくれた飲み物があるから平気だ。……それだけじゃ、だめなのか?」
「え?」
あれだけ吹き荒んでいた風がはたと止む。遊星の前髪は風に乱されていて、その奥から覗く瞳は温度のない無機物のような質感をしていた。空いた片手で髪を直しながら、遊星は再びそっとジャックの名前を呼ぶ。
「ジャック。ジャックは格好いいよ。迷わないんだ。だから格好いい。……でも、おれはそうはなれない」
その言葉にあらゆるものを断ち切られた気がして、ジャックは思わず眼を見開く。どうして、なぜ、と激昂したかった。声を荒げて怒りをぶつけたかった。ただ、遊星がまたジャックから視線を外した瞬間に、その怒りは急速に熱を失っていく。
遊星の横顔に映っていたのはシティの光ではなく、地上と空のすれすれの場所へ向けられていた。
「……」
ジャックは苛立ちを抑えようとカップのコーヒーを飲む。苦々しいことこの上ない。怒りは悔しさに変化し、喉の粘膜をやわく焼きながら胃袋へ落ちていく。遊星もまたジャックの動作につられて、自分のカップから牛乳を飲んだ。苦味に耐えながらジャックはぎりぎりと口を開く。
「……おれがなんのためにコーヒーを飲んでると思ってる」
「? なんのためなんだ?」
「コーヒーを飲むと眠れなくなるんだろう。……おれも夜ふかしをしてみたくなったんだ」
「ああ……なんだ、そういうことだったのか」
遊星は丸く微笑む。なんだか余計なことを見透かされているようで腹立たしかった。口の中が濃厚な苦味でいっぱいだ。
少しくれないか、と遊星は微笑みながら自分のカップを差し出してきた。見ると、中身の牛乳は半分だけ残っている。
ジャックは不機嫌に黙ったまま、自分のカップに残っていたコーヒーをそこへ注ぐ。黒いコーヒーが牛乳と混ざり合っていく。
「……確かにこれは苦いな。だが、言うほど苦いか?」
「牛乳と混ざってるから丁度よくなってるのかもしれない。だが、俺は牛乳は嫌いだ」
そうか、と遊星は適当な返事をする。二つ分のカップから立ち上る湯気をかき消すように風が吹いた。
ジャックは改めて、遊星が見つけたという星を探そうと空を凝視する。シティの明かりは眩しい。眩しくて、か弱い星くずの輝きなんてやすやすと打ち消してしまっていた。じっと目を凝らすうち、内側にはじわじわと眠気が湧いてくる。コーヒーのカフェインなど睡魔の前ではほとんど無意味なようで、ジャックは意識の続く限りそれを探したが、そんな星を見つけることはついぞ叶わなかった。