「ラゼン!!」
重いはずの体躯が軽々と宙を飛ぶ。その放物線につられるように会場全体はどよめき、マッドラヴは席から立ち上がって悲鳴を上げた。ごしゃっ、と人間が地面と激突する音をマイクが拾う。
「どうしよう、あんなのラゼンが死んじゃうよォ!」
「落ち着きなラヴ! あいつはこの程度で死ぬようなタマじゃない!」
「でも!」
マッドラヴは顔面を真っ青にしてパンテラへ訴えた。だがパンテラ自身も動揺を隠せないようで、険しい表情で奥歯を噛んでいる。ここまでの事態になるなんて予想だにしていなかった。
ラゼンは地面に倒れ伏したままで微動だにしない。会場のざわめきが大きくなる。
「なんで!? あいつラゼンのお兄さんなんでしょ!? なんでこんな……!」
「兄貴分というだけで本当の兄ではない、とラゼンサマは仰っていまシタ」
ぶるるん、とマッドラヴに抱えられていたプルトンHGの軟体が震える。申し訳程度の核をスライムが包んでいるという組成の、一体どこに発声器官があるのだろう。史上最悪の生物兵器ダ、とか以前自称していたような気がするが、そんなことはいまはどうでもいい。
「蛟龍。彼は、螺旋流のかつての兄弟子だト」
「でも兄貴分なことに変わりはないじゃん! あいつから見たらラゼンは弟分ってことでしょ!? こんな、こんなのって……!」
マッドラヴはプルトンHGのスライムを引っ掴み、八つ当たりするように上下左右へ捏ね回している。その手は小刻みにかたかた震えていた。普段飄々としている彼女がこんなにも狼狽しているなんて、とパンテラはフィールド内のラゼンへ視線を戻す。
「この大会はなんでもありのルール……死人が出ようが知ったことじゃない。あの暴君とも言える龍帝ヴァリウスが連覇を続けている以上、そのルールは変わらない。運営委員によるストップもかからないのがその証拠よ。マッドラヴ、あなたもそれを承知の上で出場したんでしょう」
「そ、れは、そうだけど……嫌だよボク! パンテラもっ、プルトンだって嫌でしょ!? ねえ!」
ねえ、と繰り返しマッドラブは訴える。そんなのわかりきったことだろう、とパンテラはか細い祈りを絞り出した。
うつ伏せで倒れるラゼンのもとへ蛟龍が近付いていく。多節棍の先端、墨色の艶を放つ巨大な爪がじゃらじゃらと揺れる。
「ラゼン」
「……」
蛟龍の呼びかけにラゼンは答えない。未だ意識が戻らないのだろう。蛟龍は紅玉の瞳をすうっと細め、冷え切った顔でラゼンを見下ろした。
「この程度で落ちるなど。弱くなったな」
一切の反応を示さないラゼンを片脚でごろりと転がす。気絶していても愛用の改造トンファーを手放さないのは流石といったところか。だが、そんなものなど気絶してる以上は無意味だ。持ち上げた片脚が澱みない動作でラゼンの頭部へ向かっていく。
「私は弱い者が嫌いだ」
「っ……!」
蛟龍の踵がラゼンの頭部を踏んだ。まるで靴底に付いた汚れを擦り取るように、ぎりっ、ぎりっ、と青い髪を踏みつけにしていく。会場の悲鳴が大きくなるが蛟龍は全く気にも留めていない。
「弱さは罪だ。強くなければなにもできない。搾取は弱い者から順に始まるんだ。お前だってそうだっただろう、嫌というほど知っていただろう。奪われる側の仕打ちを、恐怖を! 奪われたくなければ奪う側になるしかないんだ。強さを求めることの何が悪い!」
「ぐ……あっ……!」
「お前は弱い。弱者から搾り取れるのは強者の特権だ。強さとは奪う側へ回ることだ。私は強くお前は弱い。たったそれだけのことだ!! 光栄に思うがいい、私の血肉となれることを。私にすべて奪われることを」
蛟龍は幽然と武器を構えた。両腕は頭の後ろまで持ち上げられ、そのまま一直線に振り下ろそうとしている動作だ。どこからともなく吹いた風が蛟龍の長い白髪を靡かせる。その面持ちに、第三者が読み取れる感情は何一つ込められていない。
「
***
俺が十歳のときに出会った七つ年上のそいつは、とにかく強かった。
「お前弱いなあ。弱いからいじめられるんだ」
俺をいじめていた奴らだけでなく、その辺り一体を根城にしていたチンピラどもをあっという間に一掃してそいつはそう言った。武器はその場にあるものと己の身体のみ。たったそれだけであんな立ち回りができるのかと、何も知らない俺はすっかり目を奪われてしまった。
自分より年上なのは明らかだがけして筋肉隆々とは呼べない細い体つき。男にしてはやや長めの黒髪と片側一本だけの三つ編みを揺らして、身一つで同時に何人もを相手取るその姿。返り血ひとつ浴びずに戦う様子は、武道というよりもある種の舞に近いように感じた。
そいつはチンピラのひとりの頭を踏みつけながら言う。
「お前、この街から出たほうがいい。弱いやつがここに居残ってもまた搾取されるだけだ。分かったらさっさと失せろ。私は弱いやつと不潔なやつが嫌いなんだ」
「……っこいい」
「は?」
「かっこいい!」
気絶しているチンピラの財布を漁る手を止めて、そいつは心底意外だというふうに驚いていた。あんなに目を丸くしていた表情なんて、俺はあとにもさきにもあの瞬間しか知らない。
「格好いい? 私が?」
「かっこよかった! ものすごく! 何人もいっぺんに倒しちゃうなんて、すっげえすっげえ! かっこいい!!」
俺は感動で胸がいっぱいになって、そいつの周りをぴょこぴょこ跳ね回った。そいつはしばらく唖然としたあと、くははっ、と堪え切れなくなったように顔をくしゃくしゃにして笑った。
「格好よく見えるのか、この私が。皮肉なものだ。あんなに手に入らなかったのに、今更こんなところで……。ただ……そう思われるのは、案外心地いい」
そいつはチンピラを雑に放り投げ、まだ小さい背丈の俺と目線を合わせるように膝を折りたたむ。
「お前、気に入ったよ。この街に残る理由もないんなら、うちの道場に来てみるか?」
「! 本当!?」
「後継不足の流派でね。まあ、ガキの一人くらい連れ帰っても
蛟龍の真っ赤な瞳が俺へ向けられる。こんな赤い瞳なんて珍しいな、と思った。血のように赤く、血よりもうんと赤い。俺はその真紅に見惚れながらも、そうだ名前を聞かれていたんだとハッとする。
「名前、は……知らない。俺はそんなもの持ってない」
「……名前がない?」
「ない。知らない。そこのガキ、とか、お前、とか、そういうふうにしか呼ばれたことがない」
「……」
どうしてそんなに絶句するのか意味が分からなかった。この街で親のいない子供に名前がないのは当たり前で、個人としての識別なんてあってないようなものだ。子供はただでさえ死にやすいというのに、親がいなければ尚更あっという間に死ぬ。そんな弱い存在に、識別用の記号なんて考えるだけ無駄というのも当然だろう。
蛟龍は静かに考えたあと、柔らかく口を開いた。
「それなら。私が考えてやろう。なにか希望はあるか? ……ああ、なにも思いつかないって顔してるな。そうだな……」
差し出された手を無言で取る。その指は細く女みたいな爪をしているのに、タコと血豆があちこちに浮かんでいて並々ならぬ修行を重ねていることが伺えた。
「まあ……私もそうすぐには思いつかないな。名は体を表すと言うし、真剣に考えないと」
帰ってから一緒に考えよう、と蛟龍は特別綺麗な顔で微笑んだ。
繋いでくれた手は温かかった。
***
ぐっ、と蛟龍の足首が不自然に引っかかった。
「……やっ、と、捕まえた」
「!?」
うつ伏せで気絶していたはずのラゼンが、蛟龍の足首を片腕で掴んでいる。合皮のブーツに皺が走り、蛟龍は武器を構えた姿勢で思わず息を呑んだ。
「お前、いつのまに──」
「思い出したんだ……いい刺激になったよ。その、負かした相手の頭を踏みつけるクソみてえな性格は、変わってねえみたいだなァ……!」
青い頭髪と地面の狭間から金色の瞳が覗く。散々頭を踏まれたせいで額の一部が切れ、砂まじりの鮮血がたらりと流れた。その顔は体力の限界ぎりぎりを表しながらも、どこか狂気的な笑みを浮かべている。
「なぜだ! あれだけの攻撃を喰らってなぜまだ動ける!」
「分かんねえのか。俺がどれだけ、アンタにボコられたと思ってる!!」
「ッ……!」
ラゼンは右腕を素早く引きずり、嵌めたままだった改造トンファーの手元のスイッチを押した。
「いつまでも俺を舐めんじゃねえよ、バカ兄貴」
きぃいん、と一瞬の起動音。直後、トンファーの端から炎を纏ったエネルギー弾が炸裂した。この近距離ではまともに避けれるはずもなく、蛟龍は正面からそれを喰らってしまう。
「うっ、ぐぁあ!」
「どうだい、ウチのマッドサイエンティストの味は。なかなかのモンだろ? 自慢の仲間なんだ」
「ぐ、ッ、よくもっ……!」
閃光によるダメージで視力が使い物にならないのだろう、蛟龍は片手で目元を覆っている。ラゼンはその隙に立ち上がり、ふらつきながらも蛟龍へ打撃を加えていく。う、う、とブローが当たるたびに蛟龍の白髪は揺れ、多節棍からぶら下がる爪はがちゃがちゃと不穏な金属音を立てる。
右、左、もう一度右。顎を狙うアッパーカットで軽く上へ飛ばす。一瞬の滞空時間。すかさずラゼンは一歩強く踏み込んで、蛟龍の着地へ向けて照準を合わせた。
「──
「──
「!?」
蹴り上げた右脚に纏わせていた螺旋の風が突如消失した。辻風を乗せるのに失敗した必殺技はただの上段蹴りにしかならず、蛟龍に易々と受け止められてしまう。
「裏螺旋流は表螺旋流の逆回転。相殺することなど容易い!」
「くっ……だが、まだ俺のコンボは終わっていない!」
捕まえられた右脚を軸に、蛟龍の手ごと巻き込むように体を一回転。左脚で再び上段蹴り、旋回の勢いを殺さないままに右トンファーで──。
「それで地面へ叩きつけるつもりだろう」
「なに!?」
「お前は武器の存在を忘れている!」
ずざざっ、と蛟龍の片脚が砂埃を上げながら大きく横へ開いた。体勢を立て直すことで生まれた遠心力に引かれ、多節棍の先端は空間を大ぶりに舐め上げる。それはラゼンの視界の外側を走り、墨色の鉤爪が背中を引き裂いた。
「ぎっ、あ゙あ゙あ゙!!」
「こんなにもわかりやすい武器など滅多にないと言うのに。戦いの最中に失念されるなんて、残念で仕方ないな」
「ぐっ、ッ……蛟龍ッ!」
爪による傷は浅いが派手に肉を抉られてしまった。ラゼンお気に入りの青いブルゾンは裂け、生地の切れ端と共に鮮血があたりへ散らばる。
戦いによるダメージは深刻だ。吹っ飛ばされた際の衝撃で肋骨は何本か折れている。集中を少しでも絶やせば、脳震盪由来の眩暈に倒れそうになる。気合いと根性だけでこの場に立っているようなものだ。
トンファーの持ち手をすがるように握り込める。ラゼンの霞んでいく視界の中、蛟龍は付着した血糊を振り払うように何度も多節棍を宙へ降っていた。じゃらん、じゃらん。棒を繋ぐ鎖が擦れあって軋んでいる。無軌道だったその音はやがて一定のリズムを持ち、それにラゼンが気付いた矢先、どこからともなく冷風が吹いた。
「気根がどれだけ立派だろうと実態が伴ってなければただの意地だ。それを意地汚いと呼ぶ。だがその醜さもここで終わりだ」
多節棍はまるで蛟龍の体の一部のように滑らかに、自由自在に空を斬る。風切り音の速度が増すにつれ、彼を中心にした旋風も冷たく凍っていく。
それは表螺旋流が祖にある火起こしの風の、対極にある風。
自身と引き換えにすべてを凍てさせ、温度を奪い、命を奪う風。
「蛟龍! もうやめろ!!」
「お前がなにを言おうが手遅れだ。お前は私を止められない」
「……ッ!」
多節棍を操る蛟龍の体軸は微動だにせず、次にどの動作に移るのかまったく予想できなかった。
それでも。
ラゼンはボロボロの体を引きずり、無意識のうちに蛟龍へ向かって歩き出す。
「蛟龍、違うだろ。違うだろ兄貴。俺は、」
「醜い! そう喚くな。これで終わりにしてやろう。──
「兄貴!!」
飛び交う雪風の刃を潜り抜ける。急所を狙う鉤爪はトンファーで叩き落とす。すべてがスローモーションに見え、どう動けば彼のもとへ辿り着けるか直感ですべて分かった。多節棍ががらんと地面へ落ちる。
蛟龍の間合いの内側へ到達したラゼンはゆっくりと踏み込む。紅玉の瞳と目を合わせ、苦しそうに請うようにそれを絞り出した。
「ごめん兄貴。俺、兄貴に勝てるようになっちまった」
「!? お前なにを言って──」
ラゼンは右脚を振り上げる。それが蛟龍へ直撃する寸前、脚を覆っていた辻風が急速に回転を上げた。蛟龍の裏螺旋流雪風(スノーデビル)は相殺され、それどころか雪風とは逆向きの強烈な回転を持って襲いかかる。
「
***
呼吸をどうにか整えていく。使えるものは全部使い果たした、全身全霊の戦いによる満身創痍。あちこちボロボロだというのに、全力を出し切れたことにどこか満足感があった。
「……どうして」
仰向けに倒れた蛟龍が虚ろに呟く。
「どうしてあのとき、私に気付いた」
「ああ、あれか。あれは……」
一つ前での街のこと。ここ帝都へと向かう列車の中で、ラゼンは偶然にも『仕事中』の蛟龍の姿を認めた。数多の人間が行き交っているにも関わらず、ラゼンはごく自然に、まるでそうすることが宿命づけられていたかのように蛟龍の腕を掴んだ。
「なにせこの白髪だ。お前が知る私の面影はどこにもなかったはず」
「バーカ。歩き方の癖で分かンだよ。アンタは昔っから気配が無さすぎるからな。かえってよく目立つ」
「……は。そうか、そうだな。そういうことも、あるか。気配がないことを逆に気取られていたんだな……」
はぁ、と蛟龍は息を吐き、ずたぼろのラゼンへじっと目を合わせた。
「私を莫迦だと思うか?」
「ああ。バカもバカ、この大陸一の超大バカ野郎だ」
「そこまでじゃないだろう……。まあ、『仕事中』の場面を見られたんだ。罵られても仕方あるまい」
蛟龍は静かに眉をひそめる。その様子にラゼンはカチンときて、思わず声を大きくした。
「言わせてもらうけどな。俺は昔からずーっと、何も言わずに出てったアンタに腹が立ってンだよ!! アンタの『仕事』についてはまた別件!」
二年前のある日突然、蛟龍は姿を消した。前兆もなくそれらしい痕跡もなにもなく、ただ忽然と抜け殻になった部屋だけがあった。
置いて行かれたと思った。拾われてからの五年間、アンタの背中を追いかけたくてずっと憧れていたというのに。共に修行した月日のすべてが、蛟龍にとってはなんの楔にもならなかったのかとなにもかもを悔いた。
「俺がアンタを止められないだって? 違うだろ!! アンタが俺に止めさせてくれなかった、だけじゃねえか……!」
「……」
ラゼンは否定するように右腕で宙を薙ぎ払った。見下ろせば、蛟龍は諦観に満ちた顔でただラゼンの言い分を受け入れている。試合開始直後の、なにかに取り憑かれたような怨嗟はもう感じられない。
蛟龍は少しだけ身を捩り、薄い唇をそっと開いた。
「悪かった。お前に何も告げず行ってしまって」
「……ッ、当たり前だろ!!」
「私の負けだ。
蛟龍の戦意はとうに消えている。これまで一度も浮かべたことのない、敬愛に満ちた表情でラゼンと目を合わせた。
ぐ、とラゼンは口を横一文字に結ぶ。目の端をかすかに震わせ、それを無理やり誤魔化すように蛟龍へ手を差し出した。
「
懐かしい呼び名だな、と蛟龍は顔をくしゃりと歪める。ラゼンの手に重ねられた手は、タコと血豆にまみれた不恰好極まりない手だった。