朝、一時間目の授業はまだ眠くてしょうがない。
うとうと船を漕ぐ吹雪へ向けて、おい、終わったぞと亮は声をかける。
がくん、と首が落ち、吹雪はハッと目を醒ました。
「あー……ボク寝てた?」
「寝てた」
「もうちょっと早く起こしてくれてもよかったのに」
「起こすもなにも、授業中に寝るんじゃない」
苦言を示す亮を吹雪は「はいはい」と適当にあしらい、ぐっと背を伸ばす。うたた寝のせいで意識は半分溶かされたままだ。
隣の亮はてきぱきとノートや筆記具をまとめ、次の移動教室への準備をしていた。亮に言われ、吹雪もぼんやりした手つきで机の上を片付けていく。
デュエルアカデミアの中等部に入学して一週間が経った。
雲ひとつない澄んだ空色の天井から、ぽかぽかと暖かい陽気が降り注ぐ、二〇〇〇年四月。
授業のセットを小脇に抱え、二人は校舎内の廊下を歩いていた。
「春だねえ」
「ああ」
廊下の窓はたっぷりと採光できるように大きく設計されていて、文句のつけようがないほど日当たりがいい。つい二、三分前まで夢の中に居たこともあり、気を抜けばまたすぐに戻ってしまいそうだった。さすがに歩きながらは眠れないので、吹雪はぎりぎりのところでなんとか耐えられている。
「(こんなにいい天気なんだから、外で日向ぼっこしたらきっと最高だろうなァ)」
外の爽やかな景色に夢想する。風も強くないし、今朝の天気予報では一日中快晴だと言っていた。
学園は豊かな自然に囲まれ、花だってあちらこちらに咲いている。柔らかい草の上に寝転がり、春特有の甘い香りに包まれてお昼寝できたらどんなに気持ちいいだろう。
「(ついこの前までは、そんなふうに明日香とよく一緒に過ごしてたっけ。あの大きな木の下、草の感覚が気持ちよくて……)」
「そういえば次の授業、」
「うん?」
思い出したように横で亮が口を開いた。片手を口元へ添えてなにか考え込んでいる。
「あいつ、次の授業は来るだろうか」
「あいつって?」
「藤原だ。藤原優介」
「あァ、居たねえそんな名前の子。出席してこないから名前しか知らないけど……」
吹雪は両手を頭の後ろで組む。
授業が始まる前の出欠確認の際で呼ばれはするものの、いつも返事がないので却って印象に残っていた。
藤原優介。
島には来ているはずなのだが、入学してからこの一週間、彼はすべての授業を無断欠席している。
中等部寮の夕食の時間にも姿を見せないので、もしかして籍があるだけの幽霊生徒なんじゃないかと噂になっていた。
「亮はその子が気になるの?」
「それなりに。だってここは普通の中学校とはわけが違うんだ。名だたるデュエルアカデミアの中等部だというのに、どうして」
「まー色々あるんじゃない? 本当は来たくなかったとか。さっさと辞めちゃいたくて放校されるのを待ってるのかも。環境が良すぎるっていうのも考えものだよねェ。こんなところに入学できちゃったっていうだけでも、プレッシャーすごそうだし」
「ふむ、そういうものなのか……」
亮は頷くものの、どうもいまいち腑に落ちていない様子だ。それも当たり前だろう、彼は中等部入試の実技部門を一度も負けることなく通過してきたのだから。
この一週間隣で行動を共にしただけでも分かる、丸藤亮という人物の性格の生真面目さとデュエルのへの真剣さ。
入試自体は吹雪も負けナシで通過しているが、彼のような徹底っぷりはそうそう真似できるものではない。
「しかしこのままでは出席日数も足りなくなるだろうし、放っておくのもな……」
「そうだねェ……」
次の授業が行われる教室へ行き、二人は席に着いた。休み時間が終わるまでもうすぐだ。
教室には既にほとんどの生徒が集まっているが、その中にやはりそれらしき人影はない。
吹雪はふわりとあくびをする。
椅子に座ってじっとしていると、一度は覚めた眠気がまたじわじわと揺れ戻ってきた。机に両肘を着いているだけで意識は既にかなり危うい。
「おい吹雪。寝るなよ」
「分かってるよ〜……。寝ちゃわないように、努力はするさ……」
「授業態度だって成績に響くんだぞ」
「出席してるだけ偉いよ。来ないよりはずっといい……」
声は無意識にふわふわと宙を飛んでいってしまう。
そうだ、欠席しているやつよりも出席してる自分のほうが偉いに決まっている。どれだけ居眠りしようが授業自体をサボっているわけではないのだ。
「(でもこんな一週間も出てこないなんて。何してるんだろうか……。眠たくならない授業だって色々あるのに)」
例えばデッキ構築論の授業とか、実技演習の授業とか。
デュエルモンスターズ史の授業は歴史の授業とほとんど変わらないから眠いけど、それでも数学や化学に比べれば幾分マシだ。普通の学校にはない、そういった特別な科目があるのがこの学校の売りのはず。
彼はそういった授業についてはどう思っているのだろう。
「(そういえばここは図書室もデュエルモンスターズに関する蔵書がすごいとかって聞いたなあ。ひょっとしたら図書館にいるとか……いや、校舎内じゃなくて屋外にいるって可能性も)」
この学園は広い。一般的な公立の中学校よりも遥かに規模が大きい。生徒数の割にはどの部屋も施設も余裕がありすぎるほど広大で、逆を言えば隠れるところならいくらでもある。
校舎の外ならそれは尚更で、木立の影や砂浜のあるビーチなど、逃げ回ろうと思えばいくらでも逃げ回れてしまうのも事実だった。
「(もし外にいるんだとしたら……いいなあ、ボクも一緒になってお昼寝したいなあ……)」
外とは言わず、たとえば屋上とか。そういうところもいいかもしれない。
「(そうだ、屋上)」
屋上なんてサボタージュを決め込むのに鉄板の場所だし、欠席し続けている彼だって案外そういう場所にいるのかもしれなかった。屋上の床は硬いかもしれないけど風通しがいいし、無論日当たりだって抜群にいいだろう。
眠たげに瞼を半分降ろして、吹雪はぽつりと呟いた。
「……ボク、探しに行ってみようかなァ」
「え? 藤原をか?」
自分で呟いた言葉が自分の耳に届き、ばちっ、と吹雪は閉じかけていた両目を見開かせる。寝言だと思って聞き流していた亮は、突然の吹雪の覚醒にぎょっとしていた。
「うん、そうしよう。そうだ。絶対それがいい!」
眠気はどこかへ吹っ飛んでいき、それまで緩んでいた表情筋も見違えるようにやる気で満ち溢れていく。
そうと決まれば話は早い。吹雪は勢いよく椅子から立ち上がった。
「じゃあボク、ちょっと行ってくるね!」
「!? 今から行くのか!? 授業は!?」
「それは〜……結果的にはサボることになるね!」
「おい待て吹雪!!」
引き止めようとする亮を振り切り、吹雪は一目散に教室を出ていく。出会い頭に教師とすれ違い、なにか注意をされたような気がしたがそれらもすべて軽快に無視した。
善は急げ、思い立ったが吉日。決断したならばうなんて勿体ない。
足取りはひたすらに軽い。
まだ見ぬ彼を探しに行くことに、心はどこか楽しげに弾んでいた。
*
とはいえ、どこを探せばいいのかなんて皆目見当もつかなかった。思いのままに教室を飛び出してきたはいいものの──結果的にサボることになった時点でまったくいいわけではないのだが──手がかりゼロの現状から彼を見つけ出すのはあまりにも無理難題だ。
「(……無断欠席してるっていうことは、どこかにひとりで隠れてるっていうことだよね。一週間も、ひとりっきりで過ごすなんて……)」
吹雪は校内を適当にぶらつく。
「……それって、さみしく、ないのかな……」
途中でいくつかの空き教室を見かけて念の為に覗き込んで見たが、やはりそこには誰もいなかった。教室を三つぶん覗いたあたりで、むむう、と収穫の無さに唇を尖らせる。
もう少し彼についての情報があればよかったのに。なにせ彼と話したこともなければ顔を見たことすらないのだ。
「(何が好きで何が嫌いかとか、探すならせめてそういう情報のひとつでもないとなァ。うーん、やっぱり無謀だったかなぁ……亮も置いてきちゃったし……。一緒に誘えばよかったかな?)」
授業中のため廊下はシンと静まり返っている。自分の足音だけが長い廊下の奥へ奥へと伸びていった。
ここがこんなに広々としていたなんて知らなかった。
吹雪は自分ひとりだけの空間を闊歩する。授業中の教室に差しかかると、中にいる教師に見つからないようコソコソと身を屈めて歩いた。サボっていることがバレたら大目玉だ。もう少しこの気ままな自由さを堪能していたい。
空き教室をひとつずつ確認して潰していく。
「(……やっぱり居ない、よねー)」
ただの空き教室なんていう退屈な場所には、彼は居ないような気がする。椅子と机があるだけの空間に居たって楽しいこともないし、なにより教室内よりも廊下のほうがずっと日当たりがいい。
もう探すのなんてやめてしまおうか。
出席名簿の天上院吹雪の欄には、既に無断欠席の判が押されていることだろう。どうせ同じ時間を過ごすなら、見たこともない同級生を探して宛てどなく校舎をさまようよりも、自分自身のために使ったほうが有意義なんじゃないか。
気付くといつのまにか廊下の突き当たりにまで来ていた。こんな果てまで来てしまったらしい。
進むならすぐ横の階段を下へ降りるか、上へ昇るかの二択だ。
「あ! そうだ、屋上!」
吹雪はポンと手を叩き、上へ向かう階段を迷いなく昇っていく。とにかく上へ行けばきっと屋上へ着くはずだ。
サボるのならやはり、ぽかぽかした場所がいいに決まっている。
踊り場には窓が作られておらず、薄暗くてどこかジメッとした空気が滞っていた。校舎には定期的に清掃業者が入っているようだが、こんな奥地の階段は利用者も少ないだろうし、手入れが行き渡っていないのかもしれなかった。
「(とりあえず一番上まで行ってみたいな。鍵が開いてるかどうかは分からないけど……。それに、屋上へ向かうルートはこの階段じゃないかもしれないし)」
まあそのときはそのときで、また別の階段を昇ってみるだけだ。授業一コマぶん丸ごとの時間があるのだから、ゆっくり自分のペースで行動すればいい。
「(それに二時間目だけじゃなくて、サボろうと思えば三時間目もサボれちゃうんだし)」
普段やらないことをしているせいで吹雪の気はだいぶ大きくなっていた。
上階へ向かうにつれ空間が少しずつ明るくなっていく。屋上ルートはここで正解だったのかも、と吹雪は当たりを引いたことに嬉しくなり、階段を早足で駆け上がった。
うきうきと踊り場でターンした、直後。
「──えっ!?」
正面の階段に、見知らぬ少年が腰掛けている。
屋上へ繋がるドアを背に、窓から差し込む清廉な光を浴びて、彼はどこか物憂げに佇んでいた。その顔は吹雪の登場によって瞬時に、ぎょっとしたものへと変わる。
「!?」
新芽のような緑の髪、自分と同じ焦茶色の制服。
手にはデュエルモンスターズのカードを持って、座り込んだ周囲にもそれらを何枚も散らばせて。
「えっ、だ、誰──?」
ずるり、と吹雪の足が滑った。
そのまま斜めに倒れ込む最中、吹雪の視線はその少年に吸い寄せられていく。
野に咲くスミレの花に似た、明るい紫色の瞳。
あっ、と思った瞬間、体は固い床に叩きつけられていた。
「だっ、大丈夫……?」
「いッ、痛ァ……あ〜、うん、大丈夫……いてて、こんなとこ見せちゃうなんて恥ずかしいな……」
ろくに受け身も取れず左半身を派手に打ち付けてしまった。みっともないところを晒してしまったのを誤魔化そうと、吹雪は起き上がって頭を掻く。
彼は階段に座ったまま、心配そうにこちらの様子をちらちら窺っている。突然の来訪者に困惑するのも当然だろう。しかも登場と共に派手に転倒してしまうなんて気になって尚更だ。
そのとき、彼の足元に散らばったカードの中に、真っ白い天使の翼が描かれているのが見えた。
「そのカード、もしかして《オネスト》? ということは天使族のデッキ……ああ!! もしかしてきみが、『藤原優介』!?」
点在していた情報が一本に繋がり、思わず声を張り上げた。
そうだ、吹雪、亮と同じく入試を全戦全勝で通過した彼は、天使族デッキの使い手だったと聞いている。授業中のこんな時間にこんな辺鄙なところに居るなんて、彼がその噂の正体である以外に他ならないだろう。
彼は名前を言い当てられたことに、えっ、と目を更に丸くして驚いた。絶句による沈黙がしばし続いたあと、彼は訝しげにおそるおそる口を開く。
「そう、だけど……。確かに、僕の名前は藤原優介だ。そういうきみは誰なの」
「ああっごめんごめん! 自己紹介が遅れたね。ボクは天上院吹雪。天空の天に上下の上、寺院の院で天上院。吹きつける雪と書いて吹雪さ。そっか、やっぱりきみが『藤原優介』くんだったんだね!」
吹雪はズボンやジャケットの裾を手で払い、彼が座り込む正面の階段へと歩み寄った。
彼──藤原優介は、警戒心たっぷりに目を細めてこちらの出方を探っている。
「吹雪……って、なんだか寒そうな名前だね」
「はは、名前に雪って字が入ってるからねえ。冬生まれなんだ。確かにちょっと寒そうな響きだけど、ボクはこの名前、気に入ってるんだよ。真っ白で透き通ってるイメージがあって、綺麗だと思わない? 隣、座っていいかな」
「え? それは、えっと」
「嫌?」
「……」
優介の視線が下へと落ちる。
返答は曖昧に立ち消えてしまい、吹雪は階段の一段目に掛けていた足をゼロ段目へと引き戻した。
まるでこの段差の数だけ、彼との間に壁があるようだ。
屋上へ繋がるドアの窓から差し込む光が、彼の頭髪や睫毛のふちをくっきりと掘り起こしている。
彼は手元のカードへ視線を落としたままで、階下に立つ吹雪と目を合わせようとしない。
「話があるならそこでしてよ。十分聞こえるから」
「隣に座るのはだめ? 近付かれるのも嫌?」
「……嫌だ。それ以上近付くって言うならいっそ屋上から飛んでやる」
「えっそんな、きみ、ちょっと物騒すぎないかい。飛ぶって本気で言ってる? そんなことしたら、……死んじゃうじゃないか」
「死なないよ。僕は僕だけの翼を持っているから」
彼の口調にブレはなく、この場限りの出まかせを言っているわけではなさそうだった。
「(自分だけの翼がある? どういう意味だろう。……人間のふりをした天使っていうわけでもないだろうし)」
屋上からジャンプしても地上に落ちることなく、背中から翼を生やして青空を滑空できるとでも言うのだろうか。
それこそ本物の天使のように。
つんとそっぽを向く彼の横顔を見つめて考えていると、屋上側から差し込む光がひときわ眩しさを増した。
空気中を漂う埃が乱反射して、微細な輝きを放ちだす。
吹雪は息を飲んだ。
「(……嘘だろう。まさか本当に……いや、そんなことあるはずない)」
彼の背中に、あるはずのないものが見える。
埃がその箇所を避けて舞うせいで、透明な翼の輪郭が浮かび上がっている。
逆光で彼の顔面には影が落ち、階段の上に座っていることも加わって、まるで教会に飾られる絵画のような構図だった。
前屈みになって頬杖をつくその佇まいにも、指先の隅々にまでも、どこか現実感のない神聖さが宿っている。
「なに? 僕の背中になにか見えるの」
「あ、ああ、うん、いや……なんでもないよ」
その光景はあまりに強烈で、吹雪の目も心もなにもかも、すべてひとつ残らず奪い去ってしまうには十分すぎるほどだった。
太陽に雲が被さったのか差し込んでいた光がフッと陰る。ないはずの翼の輪郭も、それと共に緩やかに見えなくなっていった。
いまのは気のせいで、光の屈折とかそういうもののせいで見間違えてしまったに決まってる、と吹雪は両目を擦る。
「ところで天上院。きみはどうしてこんなところに来たの。どうして僕の名前を知っていたの」
「どうしてもなにも……噂になってるよ。入学式からこの一週間、ずーっと全部の授業を勝手に欠席するなんてさ。授業中なのにこんなところにいるのだって、なにか理由があるんだろう? それってさ、……さみしかったり、しないの?」
「……さみしい?」
彼は言葉に詰まり、また目を伏せる。想像以上に彼は心を閉ざしてしまっているらしい。
取り付く島もないな、と吹雪は肩をすくめた。しかしここまで来たのだから、こちらもただで帰るわけにはいかなかった。
「ボクはきみを見つけに来たんだよ。ねえ、授業に出てきてよ。きみは中等部入試の実技はトップだったって聞いたよ? 実はボクもそうなんだ。実力が同じくらいのボクとなら、いい勝負ができると思うなあ。面白い友達ならもう一人いるし、こんなところでひとりぼっちで座り込んでないでさ……」
「友達……」
「そう! 友達だよ!!」
ようやく反応らしきものを引き出せたことに、吹雪は両手を広げてアピールする。彼の紫の目は吹雪と床とを往復し、どう答えるか考えあぐねている様子だった。
「ボクはきみと友達になりたいなあ! ボクみたいな友達がいたらさ、きみもきっと授業に出やすくなると思うよ。そんなに迷わなくたって、ボクはきみを裏切ったりしないんだから」
「……裏切らない?」
「? ああ勿論さ! 絶対に!」
「……」
階段に沈黙が立ち込める。
じっと彼は吹雪の目を見つめ返し、しばらくして周囲に散らばっていたカードを片付け始めた。
やっと気持ちが通じたのかも、と吹雪は顔をぱっと明るくさせるが、彼の二言目にそれはすぐさま打ち砕かれる。
「ごめんね、やっぱりだめだ。一緒には行けない」
「そんなっ、どうして!?」
「…………怖いんだ。だから……。ごめん。こんなところまで来てくれたっていうのに。一緒には行けないや。天上院、きみは、みんなのところに帰ったほうがいいよ」
「──ッ!」
彼の声は妙に落ち着き払っていた。出会い頭と比べれば少しだけ口調は柔らかくなったものの、強情で頑固な意思が滲み出ている。
思い通りにならないことに気分がむかっときて、吹雪は突き刺すように彼を指差した。
「このっ……この分からず屋! いいよ、きみがそこにずっと座ってるって言うんなら、ボクにもボクなりの考えがあるさ! いいかい、そこに座って待っててくれ。ボクが必ず、きみをそこから連れ出してあげるから!!」
そう力一杯叫び、吹雪はさっと踵を返した。
彼がどうリアクションしたかも見届けず、階段を勢いよく駆け降りていく。上階から彼の声が途切れ途切れに降ってくるが、壁に反響して何を言っているのかはうまく聞き取れなかった。
あんな場所にずっとひとりでいるつもりなんて、あまりに可哀想で見ていられない。
必ず楽しい場所に連れて行ってやるんだ、この手を必ず取らせてみせるんだと、吹雪は心のままに校舎を走り抜けていく。
*
「行っちゃった……」
「行っちゃいましたねえ」
優介は手すりから身を乗り出して下の階を覗き込む。吹雪は階段を降り切ってしまったのか、既に姿は見えなくなっていた。
手すりに顎を乗せて、はあぁ、と浅く息を吐く。
「なんなんだあいつ。……え? なんだったんだろう。なんだったんだろう、いまの」
急展開すぎて頭がうまくついて行かない。
突然現れて授業に出るよう諭されたかと思えば、勝手に腹を立てて帰ってしまった。まるで竜巻のようなやつだ。
「どうするんですかマスター」
「どうもこうもないよ。え〜、どうしようかな」
「相手するのを面倒だと思ってらっしゃるでしょう」
「う。バレた? だって面倒じゃないか、あんなやつ……」
ううん、と優介は眉をひそめ、オネストにそっと目配せた。そうですねえ、とオネストも苦笑いを返してくる。
彼はカードの精霊だ。天使族の名に違わず、大きく立派な翼を背中から生やしている。物心ついたときからずっとそばにいてくれて、優介にとってかけがえのない存在だ。
「ここで待ってろって、なにする気なんだろう。嫌だなあ、戻ってこないうちにどこかへ行ってしまいたい」
「それはさすがに不義理というものですよ。あんなふうに啖呵を切れるご学友は貴重です」
「そうかなあ。あいつ初対面のくせに、ちょっと押しが強すぎるよ……」
優介は今一度階段に座り直し、背中を反らせて真後ろの扉を見上げた。
屋上に繋がる扉は施錠されていて、そこから先には進めない。
四角い覗き窓越しに見える空は青く、無限に高く広がり続けていた。外はうんざりするほどいい天気だ。扉の隙間からは春風も細く吹き込んでくる。
青空を眺めていた視界に、にゅっ、と白い天使の羽が入り込んだ。オネストのウェーブがかった濃い金髪が顔の前にしなだれる。じっとり不服そうに、彼の目は据わっている。
「マスター、しかしですよ。ああも軽々しく『飛んでやる』などと言うのはおやめになってください」
「あんなのただのハッタリだよ。屋上には鍵が掛かってるから実際にはできないし、するつもりもない」
「だとしても言葉が軽すぎます。あのご学友も困惑なさっていたでしょう」
「いいんだよそれで。そう思わせるためにわざと言ったんだから」
「それにしてもですねぇ……」
ああうるさいうるさい、と優介は耳を塞いでみせる。