籠の中には色とりどりの花が咲いている。
黄色、白、ピンク。何色ものガーベラがそこにはバランスよく詰め込まれていた。先週注文した花束が今日やっと届いたのだ。
デュエルアカデミアは離島であるため、私物を購入できるタイミングは週に二度の定期便のときしかチャンスがない。間に合ってよかった、と吹雪は花籠を提げて廊下を進む。
窓ガラスの向こうには、絵本に描かれるような夕焼けが広がっている。オレンジともピンクとも紫とも言い難い、夢の中で見るような色だった。
吹雪はなんとはなしに空を見上げる。
「……」
いつか、こんな色の空をどこかで誰かと見たような気がする。
忘れてはいけない約束を、忘れてしまっているような気がする。
「(……だめだなぁ、この時期はなんだかセンチメンタルになってしまうね。お見舞いする側なんだから、される側よりも元気でいなくちゃいけないっていうのに)」
頭を軽く横へ振って雑念を振り払う。
脳内がこの不可思議な空の色でいっぱいになってしまいそうだった。透明人間に水を浴びせたように、虚空の輪郭が浮かび上がってしまいそうな気配がする。その虚空から、とらえどころのない恐怖が湧き上がってしまう。
ここ一週間ほど、そういったざわざわした気がかりなものが心に吹き込み続けていた。
胸騒ぎの正体に心当たりがないわけではない。けれども不安の正体を探ろうとすればするほど、その残像が遠ざかっていくのだ。船上から海へ落とした宝石のように、それは深く深く、闇の奥へと沈んでいく。
病棟の廊下は恐ろしいほどに静かだ。
白いはずの壁は窓から差し込む夕焼けを浴び、同じ色に染まっている。自分の足音以外はなにも聞こえず、目的の病室へ辿り着くまでに誰ともすれ違わなかったことも、静寂に拍車をかけていた。
ネームプレートを確認し、扉をノックする。
返事はない。ただ相手は気心の知れた仲だ、邪魔してもさして問題にはならないだろうと判断し、吹雪は彼の病室へ入った。照明は点いていないが外がまだ明るいため、光量は十分だ。
「亮。お見舞いに来たよ」
病床に、彼──丸藤亮はひっそりと横たわっていた。
もし仰々しい機械やチューブの類がたくさん繋がれていたらどうしよう、とは思っていたものの点滴台がひとつあるだけだ。
肌の青白さは彼の生来のものであるし、ひとまずそこまで心配なさそうだ、と吹雪は安堵する。
花籠をサイドテーブルへ置き、彼の顔をそっと確認した。
「あれ……なんだ、寝てるんだ」
閉じられた両瞼と口。表情筋が動いていないせいか、ここ一年ほどの彼とは比べものにならないほど穏やかな顔に見えた。年相応のシャープさがあるもののこの寝顔は間違いなく、学生時代の彼と同一人物であることを表している。
「(ノックしても返事がなかったのはこのせいか)」
時計の針はまだ夕方五時半を指していて、眠りにつくには些か早すぎる。だが彼は先日心臓の手術をしたばかりで、体力を回復させるための休養も必要だ。
ふと、壁に掛けられていたカレンダーが先月のままで止まっていることに気が付いた。月が変わってもう一週間近く経つが、手術直後でバタバタしていてめくるのを忘れてしまったのだろう。
吹雪はカレンダーを手に取り、なるべく音を立てないよう気を付けて一番上の紙を破いた。
今日は二〇〇八年の三月八日、土曜日。
卒業式を間近に控えている。
破った二月の紙を捨て、ベッド脇のパイプ椅子へ腰掛ける。横たわる亮をぼうっと眺めていると、それまでは気付かなかった寝息が少しずつ聞こえてきた。よく見ると薄い胸もわずかに上下している。
サイドテーブルの上、花籠の横で置き時計がコチコチと秒針を刻む。
「(ああ、見覚えのある寝顔だ。亮は寝相もすごくいいんだ。……こうして見ると、なにひとつ変わってないような気がするのにね)」
静かに眠る亮の顔は、まるであらゆる毒気を抜かれたようにさっぱりしている。
吹雪が留年してしまったせいでこの二年、亮との間にはほとんど交流はなかった。テレビや雑誌で試合の記録を見てはいたが、それも吹雪からの一方通行なものだ。
吹雪は亮の身に起きた変化を察知していても、亮は吹雪の変化をなにも知らない。
「(……きみの前では変わらないボクでいたいと思うよ。でも、みんなはそれをきっと許さないだろうね。……亮はどう思うかな)」
白磁の肌に藍色の髪。
険しさも厳しさも一切無く、彼はただに眠っている。
夕焼けの色がレースカーテンを通り抜けて病室に差し込んできた。
吹雪のなにか柔らかいものを覆っていた膜が、秒針の音に少しずつ削られていく。
「……亮。眠ったままでいいから、少しボクの話を聞いてくれないかな」
邪魔にならないようにするから、と吹雪は呼びかける。
眠っているままの亮はもちろん何の反応も示さない。吹雪はそれを確認し、ぽつりぽつりと話し始めた。