朝食を終え、悠仁は一度自室へ戻り私服に着替えた。リュックに財布やら交通系ICカードやらを積めて出掛ける準備をする。ここのところは任務による出張続きで、まとまった休みをなかなか貰えずにいた。肉体の疲労に対処する方法は多々あるが、精神的な充足感を自分で賄うのはなかなか難しい。だからこそ今日の順平との予定は楽しみで、ただでさえ待ちわびていたのだから期待感は倍増している。
リュックを背負い、悠仁はぐっと背伸びをした。
「(あ、そーだ。裏の朝顔、どうなったかな)」
ドアノブに手をかけたところで、悠仁はふと寮の裏庭のことを思い出した。
高専の敷地内にひっそりとガーデンスペースのようなものが設けられており、各々が好き勝手に花を植えたり鉢を置いたりしている。正式に管理されている花壇ではなく、いつごろからかは不明だが生徒の誰かが勝手に植物を栽培し出したのが始まりらしい。教員側も積極的に水を遣ったり管理に参加しているので、黙認どころか半ば公認化されていると判断してもよさそうだ。
「(順平は……まだかな。待ってる間に見に行っててもいいかな)」
廊下に出て隣の部屋の様子を伺う。ドアはすぐには開く気配はなく、まだ時間がかかりそうだ。ちょっと見に行くだけだし、と悠仁は玄関とは反対方向に向かった。この距離だ、呼ばれたらすぐ気付けるし、大騒ぎするほど広いわけでもない。それに、待つのはなにも部屋の前でなくともいいのだ。裏庭からぐるりと回って玄関へ行ったほうが、むしろ短縮になって都合が良い。
スニーカーの底が砂利を踏む。──裏庭の片隅に青々と茂る朝顔。しぶとく居座る夏を代弁するかのように、青い花弁は緑の葉に混ざって咲いていた。
「(相変わらずすげえボリューム)」
悠仁は朝顔の壁の前に立つ。無許可で占拠されてるスペースのくせに、こんなしっかりした骨組みのネットなど一体誰が設置したのだろう。内緒で育てるには行動が大胆すぎる。本当は誰かが昔、明確な目的を持って置いたのではないかと勘ぐってしまうほどだ。
朝顔の葉は元気につやつやと光を跳ね返し、秋の訪れを全く感じさせない。蔦はしっかりと支柱に絡みつき、縦横無尽にその腕を伸ばしている。蔦と葉に埋もれているが、まだ咲いていない蕾も複数確認することができ、強すぎる生命力に見とれてしまう。
寮に引っ越してすぐに、悠仁はこの裏庭の存在を知った。そのころにはネットにはまだなにも生えていなかったが、七月に入るころにはうじゃうじゃと蔦が這い回って蕾を付けていた。地下での修行を終え、復学した九月。一ヶ月ぶりに見た裏庭は壮観で、びっちりと隙間なく花をつけていた。
以来、悠仁はたびたびここへ足を運んでいる。本来ならとっくに枯れて然るべきなのに、夏が長いこともあってか一向に枯れる気配がない。悠仁は足元に植えられた、種類のわからない草たちを踏まないようにしながら朝顔の壁へと近づいていく。
「(──あ、なんだろうこれ)」
支柱の根本に茶色い塊が引っ掛かっているのが見えた。土の塊でも、枯れて色の抜けた葉先でもない。悠仁は膝をついてそれを覗き込む。からからに乾いていて、中身のない空っぽの──蝉の脱け殻。
悠仁は深く考えずそれを支柱から剥がして摘まみ上げた。背中に大きな切れ目があり、なにか糸屑のようなものも引っ掛かっている。なんの変哲もない、夏場ならどこに居たっておかしくない蝉の脱け殻だ。
「悠仁」
背後から名前を呼ばれて振り返る。私服に着替え、肩から鞄を下げた順平が立っていた。外出の準備はばっちりのようで、そろそろ行かなければと悠仁は手のひらの脱け殻を土の上に戻そうとした。
「悠仁、なにしてるの」
話しかけられ、脱け殻を持った手がぴたりと止まる。咎められるようなことはしていないはずだ。悠仁はしゃがんだまま、肩越しに順平を見上げる。
「なにって……なんもしてねーけど」
「そう」
固く冷えた色のない表情で順平は答える。
「あまり勝手に歩かないでほしいな。今日は映画に行くんだろ」
「え、ああ……うん」
──形容し難い違和感。順平がそんな顔つきになったのは出会ってすぐのあの日だけのはずだ。高専に編入して以降、塞ぎこんだり八つ当たりをすることはあれど、これほどの無表情になったことはなかった。なぜそんなに冷たい顔でこちらを見下ろすのだろう。
順平はちらりと悠仁の手元を見遣る。薄茶色で飴細工のようなそれ。
「……それ、蝉の脱け殻」
「これ……が、どうかした?」
「──ううん、なんでもないよ。行こっか」
ぱっと表情が切り替わり、つぐんでいた口もとにも一瞬にして色が戻る。口調も面持ちも、普段通りの順平だ。普段通りに見えるように、取り繕われている。
「順平? どうした? 俺、なんかよくないこととか言った?」
悠仁は立ち上がってリュックを背負い直し、先を急ごうと背中を向ける順平の肩を掴んだ。
「え、なんでもないってば。行こうよ。早くしないと映画、始まっちゃう」
「いいよ遅れたって。だって順平、顔色ヘンだよ。そっちのほうが心配──」
「──なんでもないってば!!」
順平が手を払いのける。ずるり、と土に足を取られて悠仁はその場に転倒した。尻餅をついた拍子にリュックの底部分に土が付着する。
「──あ」
土についた手のひらの下で、脱け殻が呆気なく潰れていた。砂に混じってぱらぱらと破片が落ちる。脱け殻は殻でしかないというのに、まるで生き物を踏み殺したような罪悪感があった。
──嫌な予感がする。が、正体を確かめなければならない気がして、悠仁はおそるおそる順平を見上げた。
──刺し殺すかのような、鋭い視線。
「……順平」
一度は取り戻されたはずの生気は跡形もなく消え去っていて、悠仁の中の不安がざわざわと増殖していく。今朝はあんなに和やかに話していたというのに、なぜ突然豹変したのか意味がわからない。まさかこの朝顔に原因があるわけではないだろう。
『悠仁、もっと、ちゃんと見て。僕のこと、もっとよく考えて』
脳裏にいつだったかの順平の言葉がよぎる。このときもたしか、順平は冷たく鋭い目付きでこちらを見下ろしていた。あのときはまだ順平の前髪が長くて、髪を切って整える前だった。目の前の光景と過去の様子が重なって、悠仁はどう言葉を続ければいいのかわからなくなる。
──過去の光景?
──それは、
悠仁は必死で記憶を手繰り寄せる。今朝のこと、昨日の出張のこと、その前に行った任務のこと。それよりも前、九月に順平が編入してその翌朝に、順平の髪にドライヤーを当てたこと。そしてその前は里桜高校での事件の日で、その前は──。
「なあ。順平──もしかして、
いつ聞いた言葉なのか、いつ見た景色なのか全く思い出せない。記憶が矛盾して、悠仁が覚えていることと食い違う。まるで物語の途中で第三者に上書きされたかのような、不自然な継ぎ目。
順平は困惑する悠仁から視線をずらし、奥の朝顔の壁を眺めて観念したように言った。
「……時間切れ。やっぱりこのシナリオを突き通すのは無理があったかな」
「え?」
「──悠仁。よく聞いてね」
熱のない、涼しい風があたりに吹き抜けた。がさがさと悠仁の背後で葉が揺れ、乾いた音を立てる。からからに乾いた軽い音。順平の視線につられて悠仁が後ろを向くと、瑞々しい緑色だった葉は変色して、くすんだ黄土色になっていた。蔦も干からび、風に紛れてちぎれた葉が飛ぶ。
「夏はね、終わったんだ」
ぼとり。ぼとり。ぼとり。
朝顔の花が次々に地面に落ちる。花びらの付け根からまるごと──本来の朝顔ではありえない枯れ方だ。一斉に剥がれ落ち、地面が朝顔の青い残骸で埋まる。吹き始めた風がそれらを順平の足元へ転がしていき、花の骸はどろりと溶けた。
「とっくに終わってるんだよ。でも夢を──夢を見たくなった。誰だって自分にとって都合のいい世界を探してる。こんなつもりじゃなかったんだ。ちゃんと終わるはずだった。でも、想像したもしもがすべて叶うならって──こっちが正解だと思い込みたくなった。いっそこのまま気付かなかったらいいなって、途中から思ってた。もしもが続けばどんなにいいだろうって。
朝顔の青い骸は絵の具に成り代わり、地面にマーブル模様を広げていく。悠仁はどう対処すればいいかわからず、呆然とその場にへたりこんだままだ。
「でも、それももう、お終いだね」
順平の声色に合わせて風が一層強くなる。暑さも湿気もない、秋の乾燥した涼しい風。世界から彩度が失われ、あらゆるものの色味がくすむ。土に染み込んだ赤と青の絵の具に土が溶け、足場はまたどろどろに崩壊をし始める。視界が真っ暗になり、天地がひっくり返される。その感覚に悠仁は身に覚えがあった。そうだ、順平のあの言葉のあとに、俺は──。
「そんな、お終いなんかじゃ──」
世界が途切れた。