午前10時のユウレイクラゲ─05.もしもともしもの交差点 - 3/4

 スタッフは順調に清掃を進め、真人が座る座席の列にモップを滑らせていく。邪魔にならないように律儀に両足を引っ込め、真人はより背もたれに半身を密着させた。姿勢を変えたことで、適当に結わいて前面に垂らしていたおさげが一本、背中側へ流れる。

 宿儺は腕の先を裾へ隠し、しかし、と続ける。

「もとより中身のないがらんどうだったのだ。仮に入り込んだのが俺でなくとも、あれはなんの器としても成立しただろう」

「そうなんだ? じゃあ順平のこれとも相性がよかったってわけだ」

「埋めようと思って仕掛けているのなら尚更だな」

 一通りの清掃を終えたスタッフが、掃除道具を抱えて座席の角を曲がる。その人影は通路の暗がりに溶けて見えなくなった。出ていったのではない。出入り口らしきものは融解と侵食の速度に比例して癒着しきってしまっている。宿儺の後ろにある防音扉も、隙間ががっちり固定されていてびくともしなかった。こじ開けるにも隙間が存在せず、ただの壁に持ち手が生えただけのものと形容するのが妥当だろう。

 残された二人は次のプログラムが始まるのを待つ。

「しかし大したもんだな。残穢がひとりでに領域を構築し、取り込みにかかるなど。覚醒したばかりの術師にしては優秀だ」

「ね、でしょ? 順平は才能あったんだよ。さすがだよね。でもまあ、脳いじったときに仕込んどいた俺の呪力を見逃しちゃったのはまだまだかな」

「分霊体を仕込めずに呪力を注ぐに留まるあたり、オマエもだいぶ未熟だがな」

「酷いな、俺にだって得意不得意はあるよ。それに分割は宿儺の専売特許でしょ? ていうか二十分割もするなんてちょっと保険のかけすぎじゃない?」

「また裂かれたいか?」

「『また・・』?」

「……」

 宿儺は目を細め、呆れのあまり無言になった。無邪気に疑問を提示する真人を座席ごと裂いてもよかったが、まだその時ではないだろうと思い留まる。

「あ、そっか。きっと向こうの俺がたぶんなんかしたんだ。悪いね、何度も怒らせちゃって」

「…………」

 悪行の自覚があるなら大概にしろ、と発憤しそうになるのを、宿儺は袂の中で指を擦り合わせることで耐える。

「怒ってる? ねえそんな怒んないでよ。これでも我慢してるんだ。ほんとは魂に直接訊いてみたりしたいんだけど、ここだとちょっと加減が難しくてさ。うっかりしたらこっちが大破しちゃいそー」

 真人は思い出したようにぽんと手のひらを打ち、片腕をついて座席に立ち上がった。

「あ、そうだ。そろそろ頃合いかな、いいこと教えてあげる」

 膝立ちをやめたことにより目線は高い位置へ移り、宿儺を見下ろすかたちになる。もう片方の腕の先、手首の切断面から呪力が零れた。残光は尾を引きながら、真人の懐で所在なく浮いている。

「さっき、虎杖悠仁に俺の呪力をプレゼントしたんだ。異物が故に干渉できなくて辛そうだったからね。ただ、少々馴染みすぎてるっぽくてさ。自分が異物であることを忘れちゃってる。そもそもなぜ領域に招待されたかっていう本来の目的もね。──さて、ここでもしもの思考実験だ」

 真人はわざとらしい口調に身振り手振りをつけて持論を展開する。手首の切断面からの呪力の流出は止まらず、懐は妖しい光で満ち満ちていく。光は布の縫い目だけでなく、細かな織り目までありありと観察できるほどに煌々と照らしていた。

「このまま虎杖悠仁が、この世界に馴染み続けたらどうなるだろう? 目を醒まさず、永遠に夢を見続けたとしたら。簡単だよ、さっき贈ったのはほんの気持ち程度だったけど、一足先に馴染みきった俺の呪力を、あるだけ全部注げばいい。代わりに俺は霧散しちゃうけど、本体は現実でぴんぴんしてるはずだから無問題だ。虎杖悠仁の意識は順平の幽世と同化し、魂もゆるやかに死ぬ。そうしたら肉体は文字通り蛻の殻・・・だ」

 真人は両腕を開き、呪力の玉粒を宙へ開放していく。発光するそれらはふわふわと空気に乗って泳ぎ、宿儺の周囲に辿り着いた。頭髪の先端や耳たぶのすぐ下をかすめ、接触しないギリギリの距離を保ってちょっかいを出している。

「きっと幸せだよ。なにせ願った通りに世界が動くんだ。もしもこうだったら、って願望を抱いたことにも気付かないうちに、それが実現される。 ヒトは空洞を抱えたままじゃ生きていけないんだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・? ぴったりじゃないか。虎杖悠仁の魂が死んで肉体が蛻の殻になれば、支配権が全部アンタに譲渡されるんだよ」

 玉粒のひとつが宿儺の頬骨、二対目の瞼の上をくすぐった。宿儺は羽虫のように鬱陶しいそれを顔を歪めて睨み、ばちん、と手のひらで叩き潰す。手についた残骸を息を吹き飛ばす様子を見て、真人はなにが可笑しいのかけらけらと笑った。

「俺はね宿儺。アンタの完全顕現を待ってるんだ」

 軽い動作で背もたれを飛び越し、宿儺の目の前にふわりと着地する。結わいた髪が一房、なめらかな軌跡を描いて柔らかく舞った。壁ぎわに立ったままだった宿儺は簡易的に動きを封じられる。成る程な、と宿儺は内心で呟き、真人を鼻先で煽るように笑った。

「なんだ、目的があるなら先に言えばいいものを」

「ごめんね、時間稼ぎをする必要があってさ」

 悪びれる様子の一切ない真人の反応を見送り、宿儺はにっこりと満足げな笑みを作った。

「小僧の魂が死に、蛻の殻になったところを乗っ取れと。そういうお膳立てをしてくれたのだな。良い良い」

「! そう! そうだよ、アンタだって早いとこ自由になりたいんでしょう? やってみるもんだな、順平の領域に乗っかってみたのは正解だった」

 真人は欠けた手首を宿儺に見せつける。ヒトの形を模してはいるがヒトとは全く違う断面。骨と筋肉らしきものはあるが、もげたところで痛みがあるわけでもない。ようやく真意を伝えられて満足したのか、真人は機嫌良さそうに声を弾ませていた。

「シナリオを立てるのは楽しいねえ。宿儺もそう思うでしょ?」

「そうだな。──その程度のお膳立てに、俺と小僧あれの両方が応じるとでも?

 

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