夏というのはああ見えて往生際が悪い。暦上では八月から既に秋ということになっているが、現代の気候風土に全く則していないなと悠仁は思う。七月だろうが八月だろうが九月だろうが暑いもんは暑いし、その暑さが十月ごろまで居座っている年だってそう珍しくない。昔は違ったのかもしれないが、少なくとも悠仁が生きてきた十数年間の夏は毎年そんな具合だ。
今年の夏は長かった。六月の終わりごろから徐々に気温が上がり始め、七月、八月と順調に夏らしさが加速したのは例年通りだ。だが九月になってもその暑さは収まらず、十月上旬になったいま、ようやっと気温が落ち着いたところだ。
しぶとい夏の暑さに野薔薇は辟易していたが、真夏最盛期の一ヶ月間を地下で過ごした悠仁にとってはあまり実感が沸かなかった。さすがに十月になってもまだ秋らしい涼しい日が少ないのには少し驚くが、生まれ育った仙台と東京ではきっと気候風土が違うのだろう。
それにきっと、修行に明け暮れて夏らしいイベントを満喫しきれなかったぶんの埋め合わせとして、このずるずるした夏が設けられているのだ。そうに違いない。現に、寮の裏にある庭の朝顔はまだまだ元気に花を咲かせている。
ノックとほぼ同時にドアノブが回され、その物音に悠仁はぱっちりと目を覚ます。が、問答無用で部屋に押し入りベッドに飛び乗ってくる順平を回避することができない。
「悠仁! 朝だよ!!」
「ぐぇっ」
勢いよくベッドへダイブし、順平は文字通り体当たりで悠仁は起こした。肘間接でも刺さったのかピンポイントでみぞおちに体重がかかり悠仁は咳き込む。順平はそんなことお構いなしのようで、すぐさま跳ね起きて掛け布団を奪い取った。
「おかえり!
晴れやかに屈託なく澄んだ表情で順平は呼び掛ける。顔の右側に前髪を垂らしているのは相変わらずだが、先月と比べると長さは目元に被さる程度に整えられていた。重たく鬱屈した印象だったが、ずいぶんと明るく軽くなったように思う。
「……オハヨー順平」
ダメージを受けたみぞおちが痛くて身動きができず、悠仁は深く息を吸って順平を見上げた。順平はいつもは寝起きが悪く、こうして順平の側から起こしにくることは珍しい。なかなか起きてこないので悠仁が起こしに行くことがほとんどだ。
視線に気付いたのか、順平は奪った掛け布団で顔の下半分を隠し、気恥ずかしそうに目を細めた。下瞼が持ち上がり、涙袋のふくらみが強調される。
「楽しみすぎてやけに早く目ェ覚めちゃって。まだ寝てた?」
「ん、いいよちょうど起きたとこだったし。……今日の予定楽しみにしてた?」
「楽しみにしてた! だって悠仁と久々の映画だもん!」
「……へ〜え、そっかそっか〜ウンウン。──隙ありっ!」
「わっ!」
悠仁は瞬時に飛び起きて、掛け布団ごと順平の胴体をがっちり確保する。うわあ、と調子の抜けた声が漏れるが、悠仁の腕力にされるがまま順平は引き倒された。ベッドが弾み、一人ぶんの寝床に二人の質量が乗る。
「俺も楽しみだったよ!」
ぎゅうう、と間に挟まった布団ごと順平を強く抱き締めた。
高専に編入してから最低限の体力のためにと稽古をつけられてはいるが、もとから筋肉がつきにくい体質なのか順平はまだまだ華奢だ。同じ年頃の男子と比べても細いほうだと思う。本気出したら折れちゃわないかなあ、と他愛のない心配が頭によぎり、なめらかな腰のくびれを両腕で実感するだけに留めた。
「出張超キツくってさあ〜一日で何ヵ所も回んなきゃいけなくて! ほっとんど移動時間! 現場着いたら集中するけど、一日に何回もオンオフ切り替えるのとかもいれたらすっげータイトスケジュールでさ!? 俺も伊地知さんもボロボロ!」
「だって悠仁、体力オバケだもん。それだけ期待も信頼もされてるんだよ。お疲れだったんだね〜よしよし」
「でも伊地知さんは俺みたいに四六時中動きっぱなしで平気ってわけじゃないよ? もうちょっと緩いスケジュールにしないと伊地知さんがしんどそう。……もっとよしよしして順平〜」
「はい、よしよし」
頭髪の短さを楽しむように撫でられる感触がくすぐったく、悠仁は両目を閉じた。順平が姿勢を整えるのが布団越しに感じられ、重みや、かすかに伝わる体温に内側が満たされていく。──そこでやっと、悠仁は自分に空洞があったことを知覚した。
「悠仁」
「なに?」
「……いま、幸せ?」
顔のすぐ近くで順平が囁いた。指先が淡く短い髪を掻き分け、丸く綺麗な額が晒け出されてていくのが分かった。ふに、となにか柔らかいものが触れ、それが順平の鼻先だと分かるのには数秒間の沈黙を要した。悠仁は順平の腰に置いていた腕を背中へ滑らせ、肩甲骨の窪みを捕まえる。Tシャツの薄い生地が捲れて、上に乗っかっている順平が少し身じろぎをした。
肢体と、布と、綿が擦れる音。
「……幸せだよ?」
「…………悠仁、顔、真っ赤」
額に押し当てられていた鼻先が離れていく。閉じていた目をそっと開けると、耳まで顔を赤くした順平が悔しそうに頬を膨らませていた。一度寝転んだせいか黒髪はやや乱れ、悠仁の目の前に垂れ落ちて視界に入り込む。指摘されてようやく、自分も同じように紅潮していたことに気付いた。
「………………順平もじゃん」
「………………僕はいいんだよ」
「俺はだめなの?」
「だって僕がもっと恥ずかしくなるだろ」
順平の吐息が額にかかり、鼓動がばくばくと鳴る。なんと返していいか分からず、どうにもできない静寂が二人を硬直させた。お互いを壊さないように慎重に息を吸って、蝋燭の火を守るかのように押し殺しながら息を吐く。茹だった血液が全身を駆け巡り、首から上だけでなく指や足の先端隅々にまで赤が広がっていった。満たされすぎて破裂しそうだ。
ふと、順平の前髪の隙間、額に残っていた傷痕が薄くなり始めているのに悠仁は気付いた。右手を背中から首筋、顎の稜線へと移動させて頬を撫で上げる。一瞬、触れられる感触にびっくりしたのか順平の頭部は後ろへ逃げた。が、悠仁はすかさず左手を後頭部へと回し、逃げられないように優しくその場に固定させる。右手の親指で垂れた前髪ごと順平の頬を軽く押すと、自分とお揃いの気持ちがそこからどくどくと流れ込んできた。満たされすぎて溢れそうなのに、表面張力でも働いているのかまだまだ内に蓄えることができる。──まだこぼれない。
「……なに悠仁?」
「なんでもなーいっ」
「ふ〜ん? ……へえ、そう。──隙あり!」
順平は嗜めるように悠仁の弛緩した顔を観察すると、悪戯っぽい笑みを浮かべてぬるい拘束から瞬時に抜け出した。挟まっていた布団を剥がし、悠仁の体のすぐ横に手を滑り込ませる。直前まで両手を挙げていたため悠仁の脇は無防備だ。
「ちょっ順平、待っ」
「さっきのお返しだ! ほ〜らどうだどうだ!」
「まって、順、待っ、ぁははっ、あーーーやめ、あはははははは!!」
順平は寝転んでいる悠仁に跨がり、がっちりと布団に縫い止めて脇をくすぐった。生理反応で笑いが込み上げてきて、身を捩ったり半身を浮き上がらせたりして逃げようとするが順平のくすぐりは止まらない。
「待ってって言われても待たなーい! 脇腹もやっちゃう!」
「ッあはは、あははははははは!! じゅんぺーっ、やめ、ッあははははは!!」
手を脇腹へ移動させた順平は、露骨に面白がりながら皮膚のすぐ下の神経をくすぐっていく。悠仁は拘束されていない足でぼすぼすと布団を蹴って抗議するが、順平は心底愉快そうにそれを無視した。
「悠仁、くすぐったい?」
「すっごいくすぐったい! っははははは、あーーーヤバイ、順、順平、くすぐったいってば! あはははははは!!」
もうどこをなぞられてもくすぐったく感じてしまう。くすぐったくて、楽しくて、幸せで仕方がない。
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