悠仁は親指でスイッチを押し上げる。即座にモーターが起動し、温風が吹き始めた。コードを絡ませないように気を付けながら、悠仁は順平の髪にそれを当てていく。
「自分でやれるってば」
「いいからいいから」
普段使わないためドライヤーが普通どれほどうるさいものなのか悠仁は知らないが、想像していたよりもずっと静かだった。寮という環境もあり、比較的静かな機種が採用されているのかもしれない。
「熱くない?」
「……熱くない」
悠仁に促されるまま、順平はずぶ濡れの服を洗濯機に放り込み、段ボールに詰めていた服に着替えた。自宅のクローゼットから一時的に運んできたもので、本格的な荷運びはまた後日行くことになっている。ごうんごうんと奥で洗濯機が回る。
フローリングの床に直接座っている順平のすぐ後ろに、悠仁はドライヤーを持って膝立ちで陣取った。制服に着替えるのは髪が完全に乾いてからだと、わくわくと声を弾ませながら悠仁は言った。
「ひとにドライヤー当てるのってやったことないなー」
「僕だってやったことないよ」
「普段はドライヤー使わねーの?」
「んー、自然乾燥……? いつも適当」
ドライヤーの唸りが順平のすぐ後ろで右往左往する。温風が舞い上げた後ろ髪を、水分を散らすように悠仁が更に手で掻き回していく。手つき自体は雑極まりなく、店で髪を切ったときに浴びるプロの手技とは雲泥の差だ。動きが乱暴なため順平の首はがくがく回され、手櫛の途中で引っかかった髪がちぎれるのにもお構いなしだ。
「いッ」
「あ、ゴメン、いまの痛かった?」
「へたくそ……」
「ゴメンって」
あんまり器用なほうじゃないから、と悠仁は申し訳なさそうに続ける。
「……なんで、器用じゃないのにドライヤーしてくれるの?」
「え?」
「だってへたくそじゃん」
「言うなあ」
「ねえ、なんで?」
順平は振り返って悠仁を見上げた。ドライヤーの温風がなびかせた髪が、少し血色の良くなった肌に貼りつく。合間合間に額の傷痕がちらついていることに順平は気付いていない。
「俺がやってあげたいって思ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
「……ほんとに?」
「納得できない?」
「…………だって、別に髪ぐらい」
悠仁はドライヤーのスイッチを切った。空中で舞っていた毛先がふわりと落ちる。悠仁は今度はそうっと、指先で浅く順平の髪を鋤いた。引っかけてちぎらないように、慎重に絡まりを解いて整えていく。
「順平は難しく考えすぎんだよー。俺がやりたいって思ったからやったの! それでいーじゃん?」
髪を整え終えた悠仁は順平の両肩を軽く叩き、その勢いで顔を覗き込む。急に叩かれて不満げに口を尖らせる順平に、悠仁は暖かく笑いかけた。
「だめ?」
「…………だめじゃないけど」
「だろ? 髪、キレーに乾くもんだなー」
ドライヤーにコードを巻き終えたところで、ちょうど洗濯機からアラームが鳴った。様子を見に悠仁はその場を離れる。順平はその背中をなんとなく目で追いながら、まだ温もりの残る毛先に指を通した。
「(……こういうシナリオも、悪くはない、かな)」
***
湿っぽい空気が足元に沈殿している。灰色の壁と柱が林立する中に、その壁色よりも遥かに暗く濁った髪の男が座り込んでいた。
真人は片手に開いた本を持ち、時おり目元に零れてくる髪を指で掻き上げる。血の気のない青い肌。生きているものには存在し得ない、幽世の側で結晶化した憂い。目は純然とページの文字を追っている。指が次にめくったページは白紙で、区切りよくそこで章はお終いのようだ。栞紐を挟み、真人は本を閉じて背伸びをする。
「あーあ、つまんないなー! 順平はもう先に行っちゃったし。ここには戻ってこないだろうなー」
首と肩を回して筋肉をほぐす。細切れの布を繋ぎ合わせて作った服は、少し姿勢を変えるたびに縫い目が歪に揺れた。黒っぽい布がはだけて、死人の生肌が見え隠れする。
「都合のいいシナリオにほだされて、俺のことなんて忘れちゃうかな? ……いや、忘れてないから俺が存在できるのか」
立てた膝に頬を押し当てて呟く。長く量の多い髪が重力に沿って真っ直ぐに垂れた。イメージさえ強く持てばなんでも自由に演出できる世界だというのに、律儀に重力や物理法則が再現されているのは不思議な話だ。真人は奥に流れる下水へ視線を移す。
──突き落としたあの器は、流された先の分岐でうまくやれただろうか。
そういえば順平に本を一冊貸したままだな、と真人はひとりごちる。もともと拾ったものだし、そこまで固執するほどの物でもない。だが、貸した本がどの程度順平に影響を与えたのかはこの目で確かめたかった。
「つまらん領域だなここは」
「あ、どこ行ってたの?」
真人は声のした方向を振り返る。武骨で素っ気ない柱の影に、ぎらついた毒を纏った宿儺が立っていた。両腕を着物の裾に入れて組み、威風に満ちた佇まいで背中を預けている。わざとらしい溜め息をつき、顎で指すように真人を煽った。
「散歩だ」
「へえ、自由意思が効くんだ? 取り込まれてないんだね」
「この俺が飲まれる訳がないだろうが」
「ああでもそっか。順平の文脈には存在しないもんね」
自由に動き回れるのも当たり前か、と真人は本を地べたに捨て置き、埃の塊を踏んで立ち上がった。肉体としての質量があるようには見えない、どこか不確かで軽やかな動作。真人は、有らん限りの不快感を全面に表している宿儺と対峙する。
「悪いね、アンタの器、ちょっと悪戯しちゃった」
「好きにすればいい。俺はあれとは無関係だ」
「なに、ちょっと怒ってる?」
宿儺の眉間の皺がより深くなる。器である虎杖悠仁をベースにしているため容貌は同一だが、顔面に施されたまがまがしい呪印が両者の違いを物語っていた。宿儺は大きめの口をきつく食い締め、吐き捨てるように答えた。
「眺めるだけの千年がやっと閉じたはずだったのになんだこの領域は。手出しも口出しもできん。ストレスで反吐が出そうだ」
「出したいなら出せば?」
「バカか? 俺の痰ひとつでこの程度の領域、たちまち崩れるに決まってるだろうが」
無神経極まりない真人の言葉を受け、宿儺はおもむろに足の爪先を立てた。とん、と突いた箇所からコンクリートに亀裂が走る。苛立ちを代弁するかのように草履の先端をぐっと踏み圧すと、呆気なく足場はがらがらと崩壊した。真人はすかさず一歩後ろに飛び下がり、危ないね、と一言漏らす。身を軽々と翻して階段の途中に腰かけたのを見て、宿儺は渋く青筋を立てた。
「……崩す際に、どうせならお前も巻き込んでやろうかと思っていてな」
「食えないね」
「俺を食っていいのは小僧だけだ」
階段に座ったことで埃が舞い、階下に立つ宿儺にぱらぱらと降りかかった。嫌悪の表情は一層濃くなり、煙たそうに顔前の砂粒を払手で払う。真人は頬に手をつき、前のめりになって宿儺へ問う。
「でも俺はほっといても自然に風化していっちゃうよ? タイムリミットがあるんだ。壊すんなら早いとこ決めちゃわないと。ていうか俺、
見下ろされるのが不愉快極まりなく、宿儺は真人を追って階段を昇る。一歩進むごとにカビ臭さが湧き立ち、草履の裏がじゃりじゃりと鳴った。階段の中腹に着いた宿儺は、きょとんと幼く佇んでいる真人に冷たく言い放つ。
「……成程な。情報は共有されていない訳か。だがそれを知ったところで、俺がオマエに苛立っているのは変わらん」
「? どういうこと?」
「知性も教養も経験も足らん、と言っている」
宿儺は視線で刺し殺すかのように真人を一瞥した。怪訝そうに疑問符を浮かべる真人のリアクションもお構い無しに、階段を昇っていく。草履の独特な踏み音が移動していき、それに合わせて真人の首もぐるりと回された。
「ねえ、待ってよ。それって俺がバカってこと?」
「二度も言わせるな。こうして会話に応じてやったのも奇跡だろうが。死んで喜べ」
「代償を要するものは奇跡とは云わないよ。対等になるための縛りだ。俺だってほんとはね、アンタにもっと熱烈なラブコール送るつもりだったんだ。でもここじゃそれやったところで無駄だしさ」
真人は身を起こして宿儺を追う。ねえ、ねえ、と真人は呼び掛けるが、宿儺は無視を決め込んで黙って歩を進めた。
コンクリートで囲まれ蓋をされた地下空間に伸びる、長い階段。何度か折り返しながら上へと続いているが、道の先は黒い埃の靄に包まれていていつ地上に辿り着くのか定かではない。どれだけ昇っても果てに届かないことに、宿儺は足を止めて苦々しく舌打ちをした。──融点が近づいたせいで、
「言ったでしょ、タイムリミットがあるって。残念だけどここで俺たちはもうお終い」
真人は子供じみた動作で宿儺の着物をつまんで引き留めた。妙な言い回しに宿儺が振り返ると、ちょうど真人の指先がじわりと融解を始めたところだった。溶けて液状化した呪力が染み込み裾を汚す。宿儺は顔をしかめ、その手を払いのけた。継ぎ目に沿って真人の手首から先がもげて飛ぶ。
「──うわ。これほんとにもうダメっぽいね。順平の残穢がもう尽きそうだ」
吹き飛んだ手は虚空に飲まれ、どこに落ちたか判別は不可能だ。欠けた片手を物惜しそうに真人は眺める。呪力の総量が圧倒的に不足しているため、再構築はもう叶いそうにない。切断面は泡立ち、だくだくと呪力が零れていく。無言で立ち尽くす宿儺の着物を掴み直し、真人は薄ら笑みを浮かべて下から舐めるように覗き上げた。
「どっちにしろ、アンタとアンタの器はハナから