午前10時のユウレイクラゲ─02.おろかものたちの不文律 - 2/3

 理不尽は確かに存在する。人間、すべての感情にいちいち辻褄が合わせられるほど器用にはできていない。あちこちで生じる綻びや矛盾に、気付かないふりをして生きているのだ。その結果、軋轢が生まれ、余ったエネルギーが理不尽となって降り注ぐ。──それを防ぐ術はない。

「吉野ちゃーん、もう少し賢く振る舞ったほうがいいんじゃないの」

「せっかく成績良いんだからさ。その頭を役立てないと」

「ちょっと揺らしてみる? 昔のテレビみたいにさ」

 順平は背後から雁字がらめにされ、下卑た笑い声を一身に受けていた。抜け出そうと抵抗するも、先日殴られた腕や脚部に痛みが走り、うまく力を込めることができない。

「ッ、やめ、」

 前髪を引っ掴まれて無理矢理顔を上げさせられた。こいつらは暴力を振るうことで楽しみを感じている。苦痛に顔を歪めることを強いているのだ。僕はオマエらの娯楽物じゃない。順平はきつく口を結び、奥でタバコをふかす伊藤を睨みつけた。

「吉野、つくづくバカだよなあオマエ。そんなんだから友達いねーんだよ。俺らがかまってあげてるのに感謝してほしいくらいだよ」

「あ? 感謝なんてするわけないだろ!! こんなことやってるオマエらのほうが頭おかしいんだ!」

「素直じゃねえなあ。頭より先に腹いっとくか? 本音吐けるようにさ。本田、やれよ」

「あ、ぐッ──!! ゔ、ぅえ゙っ」

 腹部の柔らかい部分に容赦なく拳がめり込む。内臓が押し上げられ、瞬間的に圧縮された内容物が行き場を失い消化管を逆流した。順平の正面に立っていた本田の腕へ、飛び出た吐瀉物がかかる。汚えと口々に飛び交う罵声。拘束がわずかに緩み、順平はずるり、とその場にへたれこんだ。吐瀉したものが気管にも入り込んだのか、えづきと咳き込みが止まらず、生理反応で涙が滲む。地面に落ちた吐瀉物は薄茶色をしていた。休み時間に飲んでいたコーヒーだろう。

「はぁッ、はぁ、ッい゙っ」

 再び前髪を掴み上げられる。頭皮に走るぴりぴりとした痛みに、朦朧としていた意識は強制的に叩き起こされた。伊藤は壁から背を剥がし、無表情でこちらへ近寄ってくる。ぐちゃぐちゃになった順平の顔へ、更に追い討ちと言わんばかりに煙を吹きかけた。煙が目に染み、まともに吸い込んだせいもあってか治まりかけていた咳がまた復活する。

「ぐッ、ゲホッ、ッ」

「きったねえ顔だな。さすがにこれは台無しすぎて萎えるわ。おい、佐山、バケツ」

 言われた通り佐山は校舎の向こうに消える。校舎裏から一番近い手荒い場かトイレにバケツを取りにいったのだろう。もうこのあとになにをされるかは明白で、順平はくらくらする意識を必死に保ちながら悪態を吐こうと口を開いた。

「ふざけんなよ、ひとを、玩具みたいに──っい、……!!」

 言い切る前にこめかみを殴られた。目の前がちかちかと明滅し、世界のなにもかもがぐわんぐわんと撹拌される。脳震盪だ、とかろうじて残った生存本能が囁くも、そのほかの神経接続が断絶されているせいでまともに体を動かすことなどできなかった。

「吉野ォ。オマエさ、『見なかったふり』するの、下手だよな。態度に出てんだよ。俺のこと見下してるっていうのがさ」

「……っ、う……、ぐ……」

「否定しないってことはそういうことでいいんだな? ま、否定もなにも脳ミソ揺れてて喋れねーか。いいよ、どっちにしろ答えは出てんだし。露骨すぎんだよオマエ。もっとうまいこと隠せよなあ、勘付かれたらどうしてくれんだよ、ああ!?」

 倒れ伏している順平を伊藤は激しく詰問する。抵抗したくても目眩と耳鳴りが凄まじく、伊藤の怒号に指先をびくびく収縮させることしかできない。笑い声が遠く聞こえる。気持ちが悪い。息を吸う動作ひとつにも猛烈な不快感が走り、順平は浅く早い呼吸を繰り返す。先ほど殴られた腹部が思い出したように痙攣し、体液が再び汲み上げられた。

「うわ、また吐いたのかよ。根性ねえな」

「……ふ……っ、あ゙、……う、え゙っ」

 立て続けに三度めの嘔吐。色のついていない透明な液体は唾液や胃液がミックスされたものだろう。もう吐くものなど無いのに、脳の誤作動なのか吐き気が止まらない。横たわる順平の腹部へ蹴りが入れられる。吐き気やら痛みやらで情報が渋滞していて、うまく処理ができない。

「ッはぁ、はぁ…………、ひ──ッ!!」

 順平の頭部めがけて冷水が浴びせられる。冷たさは痛みに変換され、なにをされたのか理解し終えるまでの数秒間、順平は声にならない叫び声に悶絶した。がらん、とバケツの軽い金属音が鳴り、嘲笑がこだまする。

「ん、キレーになったじゃん、吉野。ほら、こっち向けって」

「うッ、……!」

 伊藤は順平をごろりと足で転がす。濡れて額に張り付いた髪をそっと掻き分け、ぐったりと苦痛に喘ぐ順平の顔を真正面から覗き込んだ。

「俺さ、前に言ったよな。髪、切ったほうがいいって。でも切らなくてよかったよな、ちょうど隠せるから」

「は……なに、いって……」

 目眩がようやく治まり、順平は薄く瞼を開けた。ぞっとするほど無色透明な伊藤の目付きに、息が止まる。

「おい、逃げられねえように押さえとけよ」

「え、伊藤、なに考えて」

「いいから、手足押さえとけって」

 伊藤は淡々と三人に命令する。くわえたタバコ越しに静かに息を吸い、深く丁寧に吐いた。煙を吹きかけられた順平は煙たさに顔を歪める。逃げ出そうともがくが、体力はすっかり消耗していてろくな抵抗ができない。そうこうしているうちに三方向から両手両足を地面に縫いつけられ、口にも手が被せられた。こんなくぐもった悲鳴では校舎の向こう側にもどこにも届くはずがない。

「歯、食いしばれよ、吉野」

 ばくばくと心臓が耳元で鳴り響く。伊藤はくわえていたタバコを、普段吸うときのそれとは異なる持ち方へと変えた。順平の顔の前に、火が点いたままのタバコが翳される。──正気じゃない。三人が伊藤に向かってなにかを口走るが、耳元で鳴り続ける動悸のせいで情報がシャットアウトされている。細い煙を上げるそれが順平の額へ近付けられ、皮膚に接触するまでのコンマ数秒間。視界が火の赤と燃え尽きた白い炭で満たされる。頭部をも固定され、顔を横へ倒しての回避も不可能になった。伊藤の指が、タバコが、火の点いたままの先端が、じりじりと、額に少しずつ──。

──ッ!! ──ッ!! ッ、う、──ッ!

「っはは、吉野、オマエ最高だよ」

 伊藤の笑い声は乾いていた。押し付けられた熱源が皮膚を焦がし、表面だけでなく次の階層もその次の階層までもを鋭く焼いていく。猛烈な熱さと痛みに体が弓なりに反り上がり、白い首筋がびくびくと宙に浮いた。五秒、十秒と永遠とも思える地獄が続き、三十秒も経過したころにようやく伊藤はタバコを押し当てるのをやめた。

「っぁ、う、ううう……ッ!」

 わずかに拘束が緩んだのを機に、順平は押さえつけていた腕をはねのけて体を丸める。じくじくと広がる灼熱感と疼痛。頭蓋に穴を開けられて脳味噌を直接抉られたような、耐えがたい痛み。順平は患部を手で押さえ、自らの頭部に爪を立てた。少しでも痛みを散らそうと奥歯を食い締める。

「吉野ォ、それ、うまいこと隠せよ。もとから前髪長かったし、下ろしとけば分かんねえだろ。な、いいよなそれで」

 伊藤は立ち上がり、水溜りに倒れ伏した順平を冷ややかに見下ろした。ぼと、と順平の顔のすぐ目の前にタバコを落とす。水に触れて即座に火は消えたが、見せしめと言わんばかりに伊藤はそれをざりざりと足で踏み擦った。順平がその様子を目視した直後、足はゆらりと持ち上がって標的を変える。頭部を押さえていた順平の手の甲を、トドメを刺すかのように荒々しく踏みつけた。

「う、ッ──゙いっ、……!!」

「処世術って、あるよな。うまいこと世渡りするための不文律だよ。不文律にってなかったから、オマエはこうして理不尽な目に遭ってる。わかるよなそれくらい? 俺は優しいからさあ、吉野のこと『見なかった』ことにしてあげてんのに、オマエは『見なかったふり』が可哀想なくらい下手くそでさ。苛々すんだよオマエ。なあ、なんで生きてんの? うまい生き方も理解できてねーくせに、よくのうのうと生きてられるよなあ。吉野。理不尽を押し付けられるのは誰だって嫌だろ。俺も嫌だし。だからこうして、生きるのが下手くそでどうしようもないバカの吉野に、身をもって教えてあげてんだ。俺はなにも『見なかった』。オマエもなにも『見なかった』。いいな? 今度こそその捻くれた頭でよく考えろ。明日も、学校来いよ。俺が教えたことをちゃんと理解できてるか採点するからさ」

 延々と悪態を吐いている最中、伊藤は順平の手の甲を踏みにじり続けた。靴底の溝に入り込んだ砂利が皮膚を擦り、浅く細かい傷が無数に生み出される。順平は情けない呻き声をあげ、路傍に転がされた石のように小さく背を丸めて耐えた。

 

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