午前10時のユウレイクラゲ─01.この世にたった二人だけ - 3/3

 順平はずり落ちてきたショルダーベルトを肩にかけ直した。今日は珍しく雨が降っていないどころか、梅雨入りしたばかりとは到底信じられないほどの快晴だ。朝はどんよりとした曇り空で、天気予報では雨だと言っていたのに。持ち出した傘が無駄になってしまった。こういった具合に晴れた日に傘を持ったまま歩くのはままあるとは言え、やはりなんだか気恥ずかしいものがある。

「(あ、傘、学校に置いてくればよかったな)」

 地面を引っ掻かないように、傘の先端を少し浮かせて持つ。順平はぼうっと、遠巻きに見える街に視線を移した。変わり映えのない風景だ。いつも同じ、ひっそりとした住宅地と砂利道、下の河川敷へ続く坂道、それと少しの喧騒。時刻は夕方五時半。ランドセルを背負った小学生や、犬を連れて歩いている人とすれ違う。すれ違い様に挨拶をしたりなんかしない。ここは都会のど真ん中ではないけれど、密接な人付き合いが必須になるほど田舎でもない。要するに中途半端なのだ。

「(どうしようかな。今日はこのあと何がやるんだっけ)」

 順平はポケットからスマートフォンを取りだし、ブックマークから最寄りの映画館のサイトへ飛んだ。上映スケジュールから今日の日付を選び、下へスクロールしていく。視界に伸びかけた前髪が乱入してきて、順平は鬱陶しそうに顔をしかめた。

「(髪、伸びたな)」

 スマートフォンを持った手の甲側で、前髪を掻き分ける。そういえばしばらく切りに行っていない。面倒くさがって放っておいたせいで、襟足もうなじにかかりそうなくらいには伸びている。梅雨でじめじめするし、そうなる前に切りに行ったほうがいい。

「(……とは、思うものの。面倒だよな。どうせ伸びるんならいつ行ったって同じだろう)」

 順平はスマートフォンを持ち直す。今日のラインナップには特別魅力を感じられず、画面をスリープモードに落としてポケットへしまった。適当にレンタルショップや本屋でもうろついてから帰ろう、と前を向いた矢先、同じ高校の野球部のランニング集団が目に入った。過剰なまでの掛け声は盛大に河川敷に響き、順平は思わず端に寄って道を空ける。すれ違いざまに、そのうちのひとりが順平のほうをちらりと見た。

「(誰だっけ、クラスの誰か、だっけ)」

 顔と名前を一致させる暇もなく、野球部集団はたじろぐ順平を置いて通り過ぎて行った。学校からスタートして、橋を渡って川向こうまで行って帰ってくるコースだろうか。順平は彼らの後ろ姿をなんとなく眺め、浅いため息をつく。

 部活には入っていなかった。どの部活動にも興味は持てなかったし、興味のない集団に混じって興味があるふりができるほど器用ではない。幸いにも、必ずどこかに所属しなければ、とか、一年生のうちは、とかそういった類の不文律も無く、そのため、順平は今年も帰宅部を貫くこにした。

 面白いもので、授業が終わってまっすぐ帰るのはどうやら異端らしい。高校は義務ではないのだから、本来は部活動だって任意のはずだ。ところが、集団と異なる行動をとる個体はなんにせよ異物とみなされるようだ。友人がまったくできなかったわけではない。腹を割って話せるほどの人物とまだ出会えてないだけだ。

「(……髪、やっぱり切ろうかな。……いいや、やめとこ。来週でいいか)」

 衣替えしたばかりのシャツに風が吹き抜ける。無意味に見上げた空は、夕方で少し暗くなりはじめているが澄み渡った青色をしていた。夏はそう遠くない。ふと、後方から妙な気配を感じて順平はおもむろに振り返る。

「……誰?」

 ざり、と傘の先端が地面を擦る。リュックのショルダーベルトがまたずるりと落ちた。

 

***

 

「なんだよこれ」

 悠仁はアスファルトから立ち上がる。膝下についた細かな砂利がぱらぱらと落ちた。

「どうなってんだよ、さっきまで水族館だったのに」

 見通しのいい河川敷の一本道だ。悠仁が立っている場所は土手になっていて、川と反対側には住宅街が広がっている。ランドセルを背負ったままの小学生がちらほら確認でき、太陽が少し傾いていることからも時刻は夕方に差し掛かっているのかもしれない。

 確か水族館にいたはずだ。クラゲの水槽を見ていて──。

「(あれ。それから、どうなったんだっけ)」

 直前の記憶がない。どういう経緯で自分がいまこの河川敷に立っているのかは皆目検討がつかなかった。

「(……服、乾いてる? なんで?)」

 なぜそう思ったのかはわからない。が、そう思ったということは、水槽からここに至るまでの間に、ずぶ濡れになるような目に遭ったのかもしれなかった。そういえば喉や鼻の奥が、水を飲んだときのようにヒリついていた。

 困惑する悠仁の後ろから、野球部だろうランニング集団が現れ、慌てて道を空けた。一糸乱れぬ掛け声と隊列。彼らは悠仁のことなど眼中にないようで、粛々と悠仁を追い抜いていく。ユニフォームの背面には各々の背番号と一緒に『SATOZAKURA』と書かれていた。さとざくら。その単語は一体いつどこで知ったものだったか。聞き覚えがあるような気がして、悠仁はますます混乱する。

 ──ひんやりとした固い感触が、なぜだか手のひらに残っている。

「……そうだ、順平は? さっきまで一緒にクラゲを見て……」

 手を当てた水槽の向こうに浮かんでいた、無数のクラゲたちとつくりものの海。青い光と色に照らされた順平の横顔、髪、目、輪郭。触れた箇所から流れ込んだ、霞のような孤独感。そして──どろりと融解したガラス。悠仁はようやく、知らず知らずのうちに己の内部を満たしていた不安を理解する。

「順平! どこにいんだよ!! いるんなら返事しろよ!!」

「喧しいな。騒いでもあれには聞こえんぞ」

 手の甲側に、大きな口がぐぱりと開いていた。両目のすぐ下、頬骨のあたりの切れ目も裂けていて、なかから宿儺のぶんの目が覗く。

「宿儺、なんか分かるのか?」

 悠仁は手の甲を顔の前に翳し、不愉快そうに口角を下げたそれに詰め寄った。

「なあ、ここどこだよ。順平どこ行ったんだよ。オマエならなんか分かんだろ」

「知るか。仮に、知っていたとしてもそう易々と種明かしをするのはつまらんだろう」

「ンなこと言ってる場合じゃねえんだってば! 俺は、順平を助けに行かなきゃいけな──」

 言葉が詰まる。

 ──助けに行く?

 どうしてだ? さっきまで、水族館で一緒に喋っていただけじゃないか。なぜ、順平には助けが必要だと思ったんだ?

「くくく。いい具合に混乱しているな」

 宿儺の口が嗤う。顔の皮膚がひきつる感覚がして、おそらく宿儺のぶんの両目も嗤っているのだろうと想像がついた。置かれている状況も経緯もなにひとつ理解できず、悠仁は宿儺の口と対峙したまま言葉を失う。

「──あ、すんませ……──!?

 後ろから歩いてきた通行人が、悠仁の体をするりと通り抜けた・・・・・

「なッ……すり抜け、て……」

 通行人はそもそも悠仁に気づいていないようで平然と前を歩いている。悠仁は自分の体のあちこちを触って確かめるが、自分の手が肉を貫通する様子は一切ない。意味のわからなさが更に加速して、冷や汗がどっと吹き出す。

「すり抜けるのも当然だな。此処では小僧のほうが異物なのだから」

「どう……いうことだよ」

「いちいち俺に訊かんと分からんのか? 少しは自分で考えろ」

「分かんねえよ俺バカだもん」

「開き直るな。態度が悪いぞ。……ここでは俺も小僧と同じく異物扱いだからな。しゃしゃり出ようと思えば出られるが、やったところで旨味がない。俺は今回も一切干渉しない」

「話が見えねえよ。もっと分かりやすく話せ」

「つくづくバカだな。──つまり、俺たちはいま、あれの生得領域に閉じ込められているということだ」

 手の甲の口が呆れと嘲りを込めた口調で言い放った。ずるり、とまた悠仁の体を通行人がすり抜ける。得体の知れない気持ち悪さに襲われ、悠仁は脳内で宿儺の言葉をゆっくり飲み込む。

「……順平の、心の中なのか、ここは」

「ハナからそうだ。先の場所もな」

「だからすり抜けんだな。異物扱いってそういうことかよ」

 ようやく状況を理解した悠仁に「そうだ」と宿儺は答え、けたけたと嗤う。

「無意識に理解していたように思えたのだがな。過大評価だったらしい。ともあれ、俺が動けば即座に壊れるような、脆弱で、全く洗練されてない生得領域だ。小僧ひとりでなんとかしろ。それに、俺はオマエとは違うからな。オマエがあれ・・に執心しているのはお見通しだ」

「……執着して悪いかよ。それと、順平をあれ呼ばわりするな」

 もういい、と悠仁は口が浮き出ているのとは反対側の手で宿儺の口と目をぱちんと叩いた。だがインパクトの直前に宿儺は姿を消し、蚊を仕留め損なったような歯痒さが残る。

 さて、と悠仁は顔を上げ、思考を切り替える。ここが順平の生得領域だというのなら、必ずどこかに本人がいるはずだ。以前に宿儺の生得領域に引っ張られたときは、そこで初めて人間体の宿儺と対面した。現実での両面宿儺は体をバラバラにされてとっくにミイラや死蝋になっているはずだが、それらは心の中での姿かたちとはあまり関係がないのかもしれない。現実での順平がどうであれ、この世界には確実に、生きている吉野順平がいる。

「(もしかしてここ、あの場所か? 順平と二人でしゃべった……)」

 探さなければ、と悠仁はとりあえず河川敷の一本道を歩きだした。川沿いの景色はやがて見覚えのあるものになっていき、前もここに来たことがあるな、と断片的に記憶が再生される。

「(そうだ。映画館、今度連れてってよって、言ったんだっけ)」

 あのとき順平はどう答えていたっけ? いいよ、と頷いたのか、それとも──。

 悠仁は一刻も早く順平を見つけようと走りだす。自分が物体を通過する状態なのをいいことに、人とぶつかるのを気にしなくていいと悠仁はただまっすぐに走った。そもそもそれら通行人たちも、あくまでオブジェの一部であり本当の人間ではないのだろう。宿儺の言い分からも、外から呼ばれたのはおそらく悠仁だけだ。

「……いた」

 橋のあたりまで走って、悠仁はようやく順平らしき後ろ姿を発見した。半袖のシャツに黒いスラックスで、リュックをゆるく背負っている。学校から帰る最中なのだろう。片手に閉じたままの傘を持って、もう片方の手はスマートフォンを操作している。やや猫背ぎみな歩き方で、髪が少し短い。悠仁が知っているそれと多少の差異はあるものの、この少年は吉野順平だと即座に確信できた。

 順平は悠仁に着けられていることに気付かず、スマートフォンの画面を注視している。足取りは歩きスマホのせいで多少ふらついているが、いつも歩いている通学路なのだろう、リラックスした様子だった。はじめて会ったときに感じた独特の後ろ暗さや、神経質な印象はあまり見受けられない。

「──順平」

 悠仁はその背中にこわごわと話しかける。ぴたり、と前を歩く順平がその場に立ち止まった。

「──順平! 探したんだぞ!」

 返事はない。それどころか、順平はあたりをきょろきょろと見渡し、不思議そうに首を傾げるだけだ。しびれを切らした悠仁は、順平に駆け寄って更に畳み掛ける。

「どこ行ってたんだよ、なあ、帰ろう、俺と一緒に帰ろ──、ッ!?

 肩を掴もうとした手は順平の体を貫通した。そうだ、俺は異物なのだから見えていないのだ。見えていないし、声も聞こえていないし、触れもしない。先走ったエネルギーのせいでバランスが取れず地面へつんのめる。

 順平は悠仁の存在自体をまるきり認識できていないようで、見当違いの方向に振り返った。

「……誰?」

 順平の傘の先端が地面を少し削った。

「(……あ、前髪が、短い)」

 顔の右半分を覆うほどに伸びていた前髪は、まだ目元にぎりぎり被さる程度の長さだった。あたりをきょとんと眺めるその顔には、傷痕ひとつ付いていなかった。