午前10時のユウレイクラゲ─01.この世にたった二人だけ - 2/3

「珍しいよな、順平が映画じゃなくて水族館ってさ」

「そう? 僕けっこう好きだよ」

 午前十時。開場したばかりの水族館には人気ひとけがない。悠仁は『大人(十五歳以上)』と印字されたチケットの半券をポケットへ捩じ込み、順平に連れられて館内を進む。

「見てほしいもんってなんだよ? なんか面白い展示でもあんの?」

「まだ秘密」

 ふうん、と悠仁は生返事をして、ぐるりとあたりを見渡した。暗い館内に青い水槽がいくつも浮かんでいる。四角く囲われたそれらは、道しるべのように一定の距離感で並んでいた。その中にはそれぞれ異なる種類の魚が泳いでいて、状況を改めて考えるとなんだか不思議な空間だった。

「そういえば俺、水族館って来たことないかも」

「えっそうなの?」

「ウーン、機会がなくって? 近くになかったしさ。わりと最近できてたらしいんだけど、なんかそういうのってもっと小さい頃に行くかんじじゃん」

「あーそれはそうだね。僕も、昔に母さんと来たっきりだったかな」

 これらの四角い箱は、どれもこれも小規模なれど海を再現したものだ。水族館ここにはいくつもの海が詰まっている。悠仁はキャプションに一応目を通すが、世界のどこそこの海にいるだとか体のサイズだとかを読んでも実感はあまり沸かなかった。それよりも、いま目の前で遊泳している彼らの様子のほうがずっと興味深い。

「すごいまじまじ見てるね」

「なんか……勉強になる、気がする」

「わかる。なんの勉強かって聞かれたらわかんないけどさ」

 二人は並ぶ水槽たちをひとつひとつ丁寧に眺めていく。自分が知らないだけで、世界にはどうやら色々な生き物がいるらしい。色も模様もシルエットも様々で、よく見れば泳ぎ方も微妙に異なっていた。ふと視線が気になって横を向くと、こちらを見ている順平と目が合う。

「……なに?」

 順平の目を覗き返すと、順平の涙袋のラインがきゅっと上に持ち上がり、穏やかに笑いかけられた。

「ねえ、悠仁、幸せ?」

「……え、うん。幸せだよ?」

 順平の瞳は青に染まっている。水槽の青と照明の青だ。瞳孔の中心に自分が捉えられていて、もしかしたら鏡に化かされているんじゃないかと根拠のない考えがよぎる。

「……そう。なら、よかった」

「順平?」

「なんでもないよ。じゃ、そろそろ行こうか」

「行くってどこに」

「いいから。ついて来て、悠仁」

 水槽に釘付けだった悠仁を置いて順平は歩きだす。こっちだよ、とついてくるよう視線を向けられ、悠仁は順平の後を追った。順平の白いシャツにも青色が反射していて、ついて行かなければこのまま暗がりに溶けてしまうんじゃないかと思った。

 順平は早足でいくつもの水槽を通り過ぎていく。こいつら見なくていいのかと悠仁は話しかけようとするが、無言のまま突き進む背中を追っているとなぜかなにも言えなくなってしまった。順平が不意に振り返る。

「悠仁」

 そっと手が差し出された。あまり厚みがなく華奢な、少年の手だ。悠仁はなんの疑問も持たずその手を取る。握ったはずのその部分はなぜか、霞を固めたような不確かで極まりない感触がした。悠仁はそれについて尋ねようと口を開くが、どう言葉を繋げばいいかわからずすぐさま口を閉じる。順平は穏やかに笑ったままで、再び歩きだした。

 イワシの群れや、小さなサメ、ウミヘビも。それらはすべて二人の視界を次々に横切っていく。

 ──まるでこの世に二人だけみたいだった。他の客も館内スタッフも、いるのかいないのかまったく気配がない。チケットは自動発券機になっていたが、入場するとき係員はいただろうか。悠仁は無意識に、空いているほうの手でポケットの表面を撫でた。かさり、と中で紙が擦れる感触がして、小さく息を吐く。

 ──もしも本当に、この世に二人だけだとしたら。  

 コーナーとコーナーを繋ぐ通路に差し掛かったのか、ぐっと照明が落ちる。壁と壁だけの、なにもない通路だ。順路の先に、冴え冴えと青色が発光しているのが見えた。通路を抜け、順平は両手を広げて悠仁へ振り返る。

「着いたよ」

 天井から床までを貫く、壁いっぱいに広がった澄んだ青。そこに散らばる、白く柔らかいお椀型のなにか。

「……クラゲだ」

 悠仁は上から下までをゆっくり見渡す。どこまでも真っ青で果てがなく、これが壁で囲われたつくりものだとは到底思えない。突然海の中に放り込まれたような気分がして、悠仁の口から淡く息がこぼれた。

「見てほしかったのって……これ?」

「うん。そうだよ。頑張って思い出したんだ、悠仁に見てほしくて」

 無数のクラゲたちはゆっくりゆっくりと時間をかけて、浮いては沈み、沈んでは浮かび上がりを繰り返す。そこに生き物としての自由意思は存在せず、ただ水に押し流されるままに浮遊するだけだ。クラゲが自身の透ける肉を柔らかく翻す様子は、まるで瞬く星空のようだった。

 口を半開きにしたまま水槽を見上げる悠仁の隣で、順平もまた同じように水槽を見上げる。

「僕が自由に演出できるなら、こういうものもいいかなって思ってさ。ベタだけど、上から降ってくるものって綺麗に思えるんだよね。雪とか桜とか。星もそうかな」

「あ、いま、俺思ったよソレ。星空みたいだって」

「ほんとに? なら、……嬉しいな。悠仁に見せた甲斐があったよ」

 順平の視線がゆっくり下ろされ、悠仁の両目へ向けられる。照明で青く透けた髪、青白い肌。瞳の奥に、捕らえられた『虎杖悠仁』が映る。

「順平、クラゲ好きなの?」

「さあ、どうかなあ。特に考えたことなかったけど、たぶん好きだよ。それに気に入ってるんだ。この眺めとかさ。考えるのに疲れたときとかにぴったりだ」

「ああ、なんかわかる。順平、気苦労が多そうだもん」

「それ、ちょっと失礼じゃない?」

「え〜そんなことないんじゃないカナ?」

「白々しいな。目が泳いでるよ!」

 むっと唇を尖らせた順平の様子が面白く、悠仁はわざとらしくよそ見をしてみせた。順平は物事を考えすぎるきらいがある。考えて考えて、考えるのに疲れた結果、なにも考えないことに行き着いたのかもしれない。

「ほらっ、ちゃんと僕のほう見てってば!」

 しびれを切らしたのか、順平は悠仁の顔を引っ付かんで無理矢理自分のほうへ引き寄せた。ぎゅるん、と首が回されて舌を噛みそうになり、虹彩が虹彩に激突する。

「…………ちゃんと見てってば」

 順平は悠仁の両頬に手を添えたままわずかに項垂れたうなだれた。長い前髪が表情を隠す。悠仁はふと、接触しているはずの部分から一切の刺激を感じないことに気がついた。温度も質感も、皮膚の下で鳴動するの脈も。触られているはずなのに触られていない。

「……順平?」

 漠然とした孤独が着々と己の内側に溜められていくのを感じた。それは毛細管現象のように、順平を通して悠仁のなかをしていく。

「(あ、これ、俺知ってる)」

 悠仁はそっと、順平の手首であろう場所に両手を添えた。

「(じいちゃんのいない家ん中と一緒だ)」

 接触面積が増えたことで、孤独が伝わってくる速度も倍増する。が、それは滔々と流れてくるだけで内部を満たし切ることは絶対にない。孤独には実体がないからだ。

「……俺は、ちゃんと見るよ。順平のこと」

 悠仁はそっと言葉を渡し返す。

 ──思えば、最初から奇妙だったのだ。チケットを係員に渡した覚えがないことも。館内で誰ともすれ違わなかったことも。順平と、こうして喋っていることも。

「ごめんな。俺、ちゃんと見るから……ちゃんと見せてほしい」

 悠仁の指先が順平の前髪を優しく掻き分けた。反射的に順平の筋肉は硬直するが、すぐに緊張が解けて元通りになる。幼い子供をなだめるように、悠仁は飾り気のない言葉を少しずつ分け与えていく。

「勘だけど。順平、もしかして映画監督になりたかった?」

「……さすが。誰にも言ったことないんだけどね。よくわかったね?」

「正解? やっぱりそっか。そんな気がした」

 したり顔で笑いかける悠仁につられ、前髪の奥に隠れていた目がふわりと緩んだ。目を細め、眉を下げて少し困り気味に順平は笑う。その様子を見た悠仁は少し安心し、正面の分厚いガラスに手をついた。ひんやりとした硬い感触。

「これも順平が作ったの?」

「そうだよ。僕が作った。僕だけの秘密の場所だ」

「マジ!? すげー。さっきまで全然わかんなかった。凄い作り込んでんね。感動しちゃったし。順平、才能あるよ、映画の」

「……そ、そう?」

「うん。あるよ、才能」

 そう、そうかな、そっかあ。と順平は受け取った言葉を何度も反芻する。すっかり口角は持ち上がり、、「うん」と小さく頷く。

「一本くらいね、撮ってみたいって思ってたんだ」

 順平は名残惜しそうに悠仁から視線を外して、水槽へ向き直った。

「──これは後付けの物語だ。懺悔でもないし、告白ですらない。完全に蛇足で、口直しにすらならないかもしれない。でもしょうがないだろ、終わったDVDが勝手に巻き戻されるなんてないんだから、普通は。ああだったこうだった、やっぱりそうなのかも、なんて好き勝手な憶測と妄想を並べ立てるのが関の山だ。それを僕が知る術はないけど、ほとんどの人はきっと僕を正しく思い出さないだろう。見当違いの印象を持ったまま、忘れるんだ。僕のことを・・・・・

 順平は朗々と語りながら、正面のガラスに手を当てた。直後、順平が触れた部分のガラスと水の境目がぐじゃりと溶けた。その融解は悠仁の手元にも伝搬する。

「──ッ!?

「でも、悠仁は僕の話を聞いてくれたよね。だから、」

 悠仁の手がガラスを貫通し、水はその境目を失った。突然の異常事態にも関わらず意識は驚くほど冷静で、こちらへ飛び込んでくる水流に備えて悠仁は順平の腕を強く掴んだ。

「あ──順平──」

 ──引き寄せて後方へ投げ飛ばすつもりだったのに、掴んだ腕に感触がない。悠仁はバランスを崩した。ガラスは完全に溶け去り、水もクラゲもいっしょくたにこちらへ押し寄せてくる。足をとられ、悠仁は体軸ごとぐるりとひっくり返った。

「ごめんね悠仁。もうちょっとだけ、僕のわがままに付き合ってくれるかな」
 水中にいるのに順平の声が恐ろしくクリアに聞こえた。もがきながらなんとか体勢を建て直し息継ぎをする。ぱっと目に入ったのは激流のなかその場で棒立ちのままの順平で、そこでやっと、これが夢だという確信を得た・・・・・・・・・・・・・。悠仁は青い水と白いクラゲたちに揉まれながらも、なんとか声を絞り出す。

「ッ、順平、おい、これ──待てよ!」

「たぶん僕は、虎杖くんのことがちょっと好きだったんだよ。だからこんなことに付き合わせちゃってる。ごめんね虎杖くん。ごめんね悠仁」

 悠仁は濁流に流されていく。青い暗がりに立ち尽くしたままの順平がどんどん遠ざかる。なのに声だけははっきり聞こえていて、なんて都合のいい夢・・・・・・なんだと奥歯を噛んだ。青い青い世界にたったひとり立ち尽くす順平が、青い青い世界に飲み込まれて、小さくなる。

「順──」

「見せたかったのはこっちが本命。……クラゲの水槽も違くないけど。悠仁にはちゃんと見せるよ。だって、たぶん僕、虎杖くんのことちょっと好きだったから」

 ──それを言い切るには、あまりに短すぎたけどね。

 順平が胸の前で印を結んだのが見えた。口に水が入り込む。流れに飲まれて視界が沈む。上下左右がわからなくなる。順平の姿は、もう見えない。

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