旅は道連れ世は情け─6.共謀罪 - 2/2

 帰ると家中が真っ暗だった。照明のスイッチを壁づたいに手で探り当てる。部屋がぱっと明るくなるが、誰の気配もしない。夜逃げでもされたかのように、がらんとした空洞だ。

「奏汰くん? いないの?」

 どこをほっつき歩いているのだろう。だがいないのならむしろ好都合だ。薫は、奏汰に貸し与えていた部屋──もとい、物置──の扉の前に立つ。本人がいない間に部屋を盗み見るなど、まるで浮気を疑っているようで気が引けるのだが、そんなことを言っていてはいつになっても向き合えない。奏汰と向き合うならいまこのタイミングしかないと思い、緊張で生唾を飲む。

 そうっとドアノブを回す。鍵なんて掛かっちゃいないことは知っていた。手前に引き、おそるおそる中を除き込む。

「……なに、これ」

 薫の視界に広がったのは地図だった。

 正面の壁にでかでかと貼られたこの辺り一帯の地図。海岸沿い、ある一ヶ所を起点にして赤いペンで印がたくさん書き込まれている。その中心にある場所は──夢ノ咲学院。奏汰と部活を共にし、六年前に卒業した場所。

「え、なんなの、これ。……なに?」

 混乱のあまり薫は地図から思わず後ずさる。置きっぱなしになっていたサーフボードにぶつかり、それに連動して棚に置いていた物がいくつか落ちた。そういえばこのシュノーケル、二、三回しか使わなかったな、と現実逃避しそうになる思考を強引に引き戻す。

 ──この地図は、『死体』の場所?

 そうだとすればこれまでの不可解な行動にも合点が行く。夢ノ咲学院、そこから程近い海に赤い印は集中していた。どちらも奏汰と関連の深い場所だ。印が集中している場所はもう一ヶ所──あおうみ水族館。

「(ああ、奏汰くんとライブやったっけなあ……)」

 あのときも、奏汰くんと連絡が取れなくなって、必死になって探していた。水槽の内側で手を振ってくる奏汰くんに拍子抜けしたっけ。よく覚えている。ライブする予定じゃなかったけれど、同じ舞台に立てて嬉しかった。きっといい思い出になるって、そう確信した。

 地図上に書き込まれたその位置へそっと指を重ねる。

「楽しかったなあ」

「ええ、とっても楽しかったです」

「そうだね、はっきり覚えて──えっ?」

 声のしたほうを見ると、にこにこと微笑む奏汰が立っていた。驚いて数歩飛び退けば、また背中を棚へぶつけて私物がばらばらと落ちる。

「いっ、いつからいたの!? 声かけてよ、びっくりするなあ、もう!」

「『かって』にはいらないって『きまり』だったでしょう〜? さきに『やぶった』のは かおるのほうです」

「う……それは、そうなんだけど……。でも、もともと俺の家……う〜んなんでもない! ごめんね、勝手に入っちゃって」

「いえいえ〜。いずれ、こうなるのは『じかんのもんだい』だろうなって、おもってましたし〜? きにしてないですよ、ぜんぜん」

「……ほんとごめんって」

 奏汰は終始にこにこと笑顔のままだ。昔からこうだった、と薫は学生時代を思い出す。笑顔で造られた鉄仮面のポーカーフェイス。いつだって変わらないその様子が薫にとっての安心感の原材料でもあり、不安材料でもあった。

「ふふ。『これ』がなにか、きになりますか? きになるでしょう?」

 微笑んだまま、奏汰はふわふわと地図へ向かい合い、赤い印の中心へ愛しそうに指を重ねた。

「これ、『おもいで』なんです、ぜんぶ。ぼくの。だいじなだいじな、ぼくの『おもいで』」

 奏汰の人差し指が線に沿って移動する。夢ノ咲学院から、すぐそばの海辺へ。そこから海岸に沿って、水族館へ。

「かおる、おぼえてないなんて、そんなわけ、ないですよね……?」

 奏汰の指が水族館で留まる。

 高校時代にライブをした──いや、もっと、ずっと前。母が元気だった頃はよく、二人でそこへ行っていた。絶え間なく景色を変え続けるクラゲの水槽を、母となら何時間でも見ていられると思った。青暗い水槽と、母の記憶。そこへ紛れ込む、明るい水色の髪をした人影──。

「──覚えてるよ」

「ほんとですか? ……それなら、うれしいです」

 奏汰はぎこちなく笑う。覚えてる、と言ったのは正確には間違いだ。そんなたった一瞬の人影のことなど忘れていて当然で、そもそも覚えているはずがない。思い出せたのは奇跡に近い。むしろ、思い出したと思い込んでいるだけで実際には全く見に覚えがないのかもしれない。現実が遠ざかる感覚に、薫は口の内側で奥歯を噛む。

「……ねえ奏汰くん、『死体』って」

「かおる」

 奏汰は透き通った声で名前を呼ぶ。薫はこの声色で名前を呼ばれるのが好きだ。優しくて柔らかくて、呼ばれるたびに心が満たされる。なのに、いまはなぜかぎゅうぎゅうと喉が締め付けられた。

 奏汰は朗々と、詩を読み上げるかのように話しだす。

「むかし、『ぬけがら』をうめたんです。『せみ』の『ぬけがら』。そこにあったから。『せみ』に、『いきてるんですか』『しんでるんですか』ってきくなんて、できません。だって、『こえ』しかきこえないんだから。『ほんとうのこと』はみつけられないんです。だから、かわりに、そこにあった『ぬけがら』を、うめました。『つち』をかぶせて、たしかに『ここにうめた』って。たしかに『ここにあるんだ』って。ほったらかしにされて『のざらし』になるより、そのほうがきっと『すくわれる』から」

 薫は遠い昔に読んだ、昆虫図鑑の解説を思い出す。

 

《蝉は土の中で育ち──》

《やがて、風のない日を選んで土から這い出て──》

《止まり木を探し、そこで一晩かけて脱皮を──》

《あとには脱け殻が残され──》

 

 ──あの夏。青色、砂浜、水平線。

 上下まっぷたつに割れた視界の上半分には星空、下半分にはさざなみの立つ水面。

 二人で一度だけデートまがいのことをした、名前のない星座に名前をつけて、星を数え明かした夜。

 

『かおる。           』

 

 夜が明けて、太陽があたり一面を金色に染めた。その眩しい金色を背負った奏汰は、なんと言ったのだっけ。

 うるさいほどの蝉の鳴き声に掻き消される。無数の蝉の声。無数の脱け殻。不確かなことと確かなこと。中身のないからっぽの、かろうじてかたちを保ったなにか。

 

「『死体』って……、思い出のことなんだ」

 こぼれた薫の思考に、あたりです、と奏汰は答えた。

 奏汰の指が赤い印をなぞる。点と点を結び、自分で考えた新しい星座を教えるような手つき。やがて指先は印からはみ出し、ある一ヶ所へと向かう。
 いま二人が立っている場所、薫の自宅があるこの場所。奏汰は棚からペンを抜き取り、そこへ赤く丸い印を描き足した。

「ぼくが『ここにいた』っていう、ことに、させてください」

 奏汰が目を伏せる。妙にざわざわして、薫は咄嗟に、奏汰の右手首を掴んでいた。キャップの開いたままのペンが床へ落ち、赤いインクがわずかに溢れる。

「そんな──そんな、嘘みたいなふうに言わないでよ。嘘でもなんでもないよ。奏汰くんはここにいる。奏汰くんは、ここで生きてるよ。生きてたし、まだずっとずっと生きるんだよ。あのね、奏汰くん。俺、奏汰くんに死んでほしくないんだよ。何度でも言う。死んでほしくないって!」

 ペンは赤いインクを床に広げながら転がる。奏汰の手からキャップがころりと落ちた。掴んだ手首がびくりと震えた。掴まれたまま、手はなにか言いたげに空気を握っては離す。薫はそのままもう片方の手を奏汰の背中へ回し、丸ごと抱き寄せる。

「だって俺、奏汰くんが好きなんだよ!! 好きだから生きててほしい、好きだから死なないでほしい、それ以外に理由なんて要る!? 要らないよ!!」

「かおる」

「お願いだからわかってよ。…………奏汰くん」

 薫はすがるように奏汰を抱き締めた。勢いに任せて喋ったものの、次第に語尾は弱々しく消える。奏汰は自分も抱き締め返そうと腕を少し持ち上げ──考え直して、やめた。その様子は薫には見えていなかったが、これが一方的な行為だというのは痛いほど感じていた。

「(……『死体埋め』を手伝えば、わかってもらえるのかな)」

 死体埋め。思い出巡り。既に終わったものを丁寧に拾って、確認して、埋める。

 楽しかったことや嬉しかったことを順に思い出していけば、もうこんなさみしいことを言わなくなるかもしれない。

 思い出すにはきっと、ひとりよりもふたりのほうがいい。

 

***

 

『もしもし奏汰くん? ──逃げよう。一緒に』

 直後、電話口の向こうからがたがたと乱暴な音が聞こえ、一方的に通話が切られた。喜びが落胆に変わる。

「奏汰」

「こないで!!」

 八方塞がりだ。奏汰の声に千秋は身じろぎ、その場で立ちすくむ。千秋に話しても理解はされないだろう。理解できないのに共感しようとするから厄介だ。

 奏汰にとって千秋は『思い出』そのもので、目を逸らしたくなるほどに綺麗だった。こんな綺麗なものを埋めるなんてできない。埋める必要がない。だから、全部を思いだし尽くして、全部を埋め終わってから一番最後に会いに行くつもりだった。

 奏汰は通話の切れたスマートフォンをポケットへ滑り込ませる。

「奏汰。会いたかった。探してたんだ、ずっと。なんで羽風の家の前にいるのかなんて、教えてくれなんて言わない。俺のほうを向いてくれ。俺に顔を見せてくれ。それだけでいいんだ、それだけで──」

 千秋は立ちすくんだまま奏汰へ語りかける。奏汰は振り向けない。いま千秋の顔を見てしまったら、固めていた決意が根っこから崩れていきそうだった。心配されているのも当然分かる。でも、答えられない。

 奏汰は握りしめていたスコップを無造作に手放した。がらんがらん、と金属が音を立てる。音に気を取られた千秋のすぐ横を走り抜けた。

「……ごめんなさい、ちあき」

「──奏汰!!」

 奏汰はその場から走って逃げた。肩をぶつけられて千秋はよろめくが、すぐさま荷物もなにもかも放り出して奏汰を追う。

「奏汰!! 俺は、嬉しかったんだ! 十九の誕生日にっ、会いに来てくれたこと!! おまえもそう思ってくれたって信じてる!! だから、次は絶対言おうって──嬉しかったって! ありがとうって、言いたくて──奏汰──」

 千秋は奏汰を追いながら叫ぶ。足の遅い奏汰に追いつくのはさほど難しいことではない。手を伸ばし肩を掴む。

「──はなして!!」

 奏汰が声を張り上げた。一瞬動きを封じられ、隙の生まれた千秋の手を荒々しく振りほどく。明確で強烈な拒絶。千秋は躓き、膝から地面に倒れこんだ。

「ごめんなさい。また、ちゃんと、あいにいきますから。ごめんなさいちあき。まだあえないんです」

「謝らなくていい……嫌だ、行かないでくれ……」

 千秋は砂利にまみれても尚立ち上がろうとする。恥も外聞も無関係に懇願する千秋に、奏汰は身を引き裂かれるような思いがした。

 ──それでも、もう元には戻らない。あの青春の日々のようにはいかない。変わってしまった。千秋はずっと綺麗で、奏汰が変わったぶんだけよけいに眩しく思えた。こんな綺麗なものを連れてはいけない。

「かおるにも、つたえてください。『あとはひとりでやります』って」

 奏汰は逃げた。今度こそ、二度と戻ってこないつもりで。

 
 
 


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