「お父さん、おかえりなさい」
父はいつも忙しくて、家にはほとんど帰ってこない人だった。気難しくて、固くて、無口で。怒られたくなくて、薫はいつからか父の顔色を伺うようになっていた。滅多に帰って来ないのに、会えば口うるさく小言を言う。だが昔はそれほど怖い人ではなかった──ように思う。
普段家を留守にする父も、家族の誕生日には必ず帰ってきてくれた。年に数回あるその機会だけ、家族全員が食卓に揃うのだ。
幸せだった。母お手製のケーキにロウソクを立てて、暖かくほの光る炎を見つめるのが好きだった。それが吹き消される瞬間も、吹き消す瞬間も好きだった。わずかに炭素が燃えた匂いが広がり、すぐさま照明が点けられる。
食卓に座る位置の都合で、照明のスイッチを操作するのは必ず父だった。そのときばかりは父の堅苦しい表情も解けて、優しい顔をしていた。逆を言えば、父が優しい顔をしていたのはそのときくらいだった。
ロウソクを消して電気を点けて、母がケーキを切り分ける。五等分は難しいだろうに、母はそれを難なくやってのけた。姉に一切れ、兄に一切れ、薫へ一切れ。そして父へ一切れ。
「誕生日、おめでとう」
みんなでケーキを食べた。白い生クリーム、黄色くて柔らかいスポンジ。甘いものが好きだった。
父は甘いものが得意ではないのか、少し固い表情でフォークをケーキへ突き刺す。それでも家族全員が揃うことが、父も含めた家族全員で同じものを食べることが、幸せだった。
薫の頭を優しく撫でてくれたのは母だった。女性の細く長い指。骨が細く、肉付きの薄い手。化粧水とハンドクリームが染み付いた柔らかい匂いがして、その手が好きだった。うちにはいつも母がいて、父が不在のぶんそれだけ愛情を注ごうとしたのだろう。だから父が家にいなくとも、寂しくはなかった。
母は綺麗な人だった。
小学校へ上がる前のこと。幼稚園が休みで、でも姉と兄は学校で。大好きな母を独り占めできるチャンスだった。どこへ行きたい? なにをしたい? と母が訊き、薫は「水族館へ行きたい」と答えた。
無数の魚群やクラゲの詰まった巨大な水槽。薄暗い館内でふと横を見上げると、母はにっこりと笑った。ずっと永遠にこの時間が続けばいいのに。
言葉も何もなく、ただただ静かで嫋やかな青。そう直感する幼い薫の頭を、母は優しく撫でた。その手が日に日に薄く青白く痩せていたことに、薫は気付くはずもなかった。ただ無邪気に、普通の子供がそうするように愛を享受していた。
「お母さん、好きだよ。大好きだよ」
なんの前触れもなく、思い返せば確かに予兆はあったのだが──母は倒れた。
そのまま入院して、「すぐ戻るから」と母は笑った。無理して笑顔を取り繕われた。手首に針が留められ、無機質なチューブとプラスチック、液体のパックが吊るされた点滴台。色がなくて、生き物の匂いがしない。
母の容態は一向に良くならず、回復させるはずの点滴チューブが逆に命を吸っているように思えた。その証拠に、どんどん手が細くなっていくのだ。皮膚が乾きひび割れる。爪は真っ白で、表面がぼこぼこと不気味に隆起していた。
「お父さん。……もうすぐ、たんじょうび、だよ」
母のお見舞いに行った帰りの車中で、薫はおそるおそる切り出す。暗くどんよりと沈んだ空気を払拭するチャンスだと思った。去年と同じように、ケーキにロウソクを立てて火を点けて。電気を消して火を吹き消して、再度電気を点け直して明るくなれば、母も父も明るくなれると思ったのだ。
全員で同じ物を食べて、それが甘いケーキで。誕生日にかけられる魔法を、幼い薫は本気で信じていた。
だが父は目線をまっすぐに保ったまま、冷静に答えた。
「誕生日なんて祝ってる場合ではないだろう。浮かれるな」
「──…………はい」
そのときの姉と兄はというと、末っ子の我儘に呆れて押し黙っていた──ように思う。薫は俯いて膝を見つめていたので定かではないが。返事をした声が震えたのは車の振動のせいだ。
誕生日なんて祝ってる場合じゃない。浮かれちゃいけない。
すぐ戻るから、なんて母はとんだ大嘘つきで──薫の頭を撫でてくれた手は、もう二度と戻らなかった。
瞬く間に世界が黒く塗り替えられ、黒い服を着せられ、母の写真が花の中に置かれていて──。
否が応でも理解させられた。
母は死んだのだと。
薫はひとりきりの食卓にケーキを置き、ロウソクを刺す。父がそうしていたのを思い出し、危なっかしい手つきでライターを握った。うまく着火できない。何度目かの挑戦でようやく成功し、火傷しそうになりながらもロウソクの芯それぞれへ火を点け、電気を消す。この役割も父がやっていたことだ。
そしてテーブルの灯りを頼りに椅子に座り直し、勢いよく火を吹き消した。炭素が燃えた匂いが鼻をかすめる。
椅子から降り、手探りで壁のスイッチを探した。ぱっと部屋が明るくなる。
が、そこには誰もいなくて──ケーキなんて最初からなくて、ロウソクもライターも全部嘘で──幻だった。
父は薫の誕生日に帰ってこなかった。
母が死んですぐの年も、その次の年も。
薫だけでなく姉と兄の誕生日にも帰ってこなかった。
子供たちだけでなく父自身の誕生日にも。
いつからか、家族はそれぞれの誕生日を忘れた。
以来、食卓に家族全員が揃ったことはない。
***
個人での仕事の収録終わり。スタッフから花束を貰った。誕生日のお祝いだと。なんかしらお祝いされることは自明の理であったが、やはりお祝いされるのは嬉しい。いつだって、いくつになってもそうだ。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「羽風くん、このまま食事でもどう?」
プロデューサーがこのまま食事でもどうかと誘う。が、時刻は夕方で食事に行くにはまだ早いことに加え「先約があるので」と薫はそれを断った。
「どうしたの、もしかしてイイコでもいるの?」
「違いますよ〜、ただの男友達です。先に約束してたほうを優先してるだけですよ。これでも一応、スキャンダルには気をつけてるので」
──指名手配犯を匿い──事件発覚──隠すだけでも罪──。
いつだったかに目にしたニュースの見出しが蘇る。
「(確かに、そっちもそっちでスキャンダルにはなるけどさあ……! なんでいま思い出したの、そっちを!)」
真相を先延ばしにしたまま二ヶ月近くも経ってしまった。薫は未だ、奏汰が言う『死体』の正体がずばり何を示しているのか皆目見当もつかない。
『埋める場所を探す』『殺してない』『ひとではなくかみさま』──そのあたりがキーワードなのは間違いないだろう。いや、見当自体はついているのだが──確かめるのが怖かった。
「お花、ありがとうございます。花瓶に入れて飾りますね。お先に失礼します」
死体なんて、本当はないのだろう。──ないと信じたい。
そういった物騒な思考を悟られないように内側へ押し込め、怪しまれないように丁寧に感謝を述べて薫は現場を後にした。丁寧すぎてかえって怪しかったかもしれない。が、過剰に喜ぶくらいなんだというのだ。
「(こればっかりは隠し通さなきゃだよね……)」
例え本当は無実でも、彼の名誉と彼からの信頼のために。
「(約束したじゃんか。それくらい覚悟したって。それなら貫かないと)」
俺と奏汰くんは共犯、なのかもしれない。
薫は花束の入った紙袋を提げて歩く。花の種類には詳しくないのでこれがなんという名前の花なのかはわからない。
さりげなくラメが織り込まれたリボンが、フワフワとラッピングを留めている。花もリボンも、甘いケーキにどことなく似ていた。幸せの匂いがする。
***
足元に銀杏の葉が吹き溜まっている。誰かが掃き掃除をして道の端に寄せたのだろう。
ここ数日で一気に紅葉が進み、銀杏だけでなくモミジもカエデもすっかり秋色の装いだ。先日の買い物以来、薫はこの並木を気に入っていた。少し遠回りにはなるが、今月末で伐採されることを考えるとそれも悪くない。むしろあと数日しか見られないのであれば当然の心理だ。
「(あ。奏汰くんいる……)」
並木道の先、黄色い景色に紛れ明るい水色の髪が角から現れた。両手はレジ袋で塞がっていて、買い物帰りなのだろう。
「(スペシャルメニューって言ってたっけ)」
ケーキをリクエストしたのは気まぐれだった。甘いものが好きで、なんとなく食べたくなったから言ってみただけだ。
奏汰の主食は魚で副菜も魚で、汁物に至るまでなにもかもが魚で、正直期待はしていなかった。だがもしかしたら、あの袋の中にはそれに近しい類のものが入ってるかもしれない。なにせ、願ってくれたのだ。
せっかく願われたのなら、それに応えたい。
奏汰はご機嫌に、道端に降り積もった銀杏を大きく蹴り上げながら並木を歩く。レジ袋を持った大きく両手を振り、右足で一回、二回。左足に踏み換えて一回。黄色い飛沫が上がり、まるで浜辺で水と戯れるように──。
「(あれ? いつかどこかで、見たことある……?)」
ふいに奏汰がこちらを振り返った。薫は咄嗟に横の小道へと身を隠す。別にやましいことはしていないのだが、黄色い銀杏を浴びる奏汰に見惚れていたことに気付かれるのが恥ずかしくて、顔が熱かった。
「なにしてるんですか、かおる?」
「奏汰く──」
「おかおが『まっかっか』ですよ〜?」
隠蔽工作も虚しく呆気なく奏汰に見つかり、みっともなく肩が跳ねた。赤くなった顔を覗き込まれ、キャパオーバーになり薫は顔を背ける。奏汰もそれを分かってやっているのか、さらに一歩踏み込んで薫をまっすぐ見つめた。
「も、も〜やめてよ! ギブ! ギブアップ!! 隠れて見ててごめん!」
「……え。みてたんですか? ……いつから?」
「……奏汰くんがあそこの角から出てきたあたりから」
ぼう、と奏汰の顔が弾けたように耳まで赤くなる。目が見開かれて視線が泳ぎ、眉尻も下がって口角も横に開き、それは明らかに照れの表情だった。
「スーパーの袋を振ってるとこ見てた……。ごめん」
「み、みてたんですか、かおる、なんで『こえ』かけてくれなかったんですか」
「だってご機嫌だったし……。奏汰くん照れてるの?」
「ま、まさかぁ。ぼくがかおるに『てれる』なんて。そ、そんなこと〜」
「顔、『真っ赤っか』だよ」
逆転とばかりに薫は奏汰を指す。幼い子供みたいにはしゃいで大きく手足を振っているところを見られたのが、よっぽど恥ずかしかったのだろう。奏汰は薫へ、レジ袋の片方を突き出し「もって」とぶっきら棒に言った。
「もってください。ぼくはさきにかえります」
「そんなこと言わないでよ〜、一緒に帰ろ?」
「ぼくは『すぺしゃるめにゅう』の『じゅんび』があるので」
「え〜俺も手伝うからさぁ? それに、なんかデートみたいじゃない? したいでしょ、俺と『デート』」
薫はレジ袋を受け取り、奏汰へ向けてにっこり笑いかけた。奏汰は負けを認めたがらない子供のように口を尖らせ、早足で歩き出す。
「ほら、なにしてるんですか。かおる。かえりますよ、『いっしょ』に」
木枯らしが吹き、銀杏の葉を一斉に巻き上げた。地面に吹き溜まっていたものは上空へ、まだ枝にぶら下がっていたものは空中へ投げ出される。逆光を背負っているようだった。
『──かおる。 』
「(……思い出した。あの日の、あの海で見た夜明けだ)」
今しがた感じたデジャヴの正体。
海で星を数え明かした、デートまがいの記憶。
あのときも奏汰は足首を浅瀬に浸していて、背後から差す太陽が辺り一面を金色に照らしていた。
「……うん。帰ろっか」
記憶に焼きついたあの日の記憶はどこまでも静かで無音で、奏汰が何と言っていたのかまでは思い出せない。だがきっと、今日と似たようなことを言っていたに違いないと、薫は奏汰に連れ添って歩いた。
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