「かおる、かえってたんですね〜。ただいまです〜」
「ああ、おかえり」
薫は煙草を灰皿に押し付けて火を消し、煙を吐き切ってからリビングへ戻った。
先週の薫の誕生日のこと。
奏汰が宣言した通りテーブルには『スペシャルメニュー』もとい、マグロ丸々一匹が並んだ。奏汰はそれを手際よく解体し、新鮮なうちにどうぞと刺身にして提供した。六年前の再演だ。今回は覚えてたんですね、と奏汰にからかわれたが、マグロの解体ショーなどそうそう忘れられるものではない。
たっぷりともてなされた食後には、薫のリクエスト通りクリームの乗ったホットケーキが出された。魚料理以外はもっぱら専門外の癖に。始めて作ったにしては上出来でしょう、と奏汰はにこにこと笑う。ロウソクもなにもない、ただの甘いクリームが乗っただけのホットケーキ。目頭が熱くなっていたのも、当然のようにバレた。
机の上には奏汰が置いたスーパーのレジ袋が置かれている。
「買い物行ってきたの?」
「『ちょうみりょう』がたりなくなったので。ふう、つかれました」
「行ってくれたら買って帰ったのに」
「いえいえ、ぼくが『さんぽ』にいきたかったんですよ」
奏汰は脱いだコートをハンガーにかける。暑そうに手の甲で額の汗を拭った。
「きょうはいいてんきでした。ぽかぽか、『ようき』……♪ 『いちょう』も、とってもきれいです。かおるのかみとおんなじ『きいろ』ですね〜。かえりに、かおるが『べらんだ』にいるところをみましたよ〜」
奏汰は朗らかに笑いながら買ってきたものを整理をする。ふと、不自然な焦げ茶色のものが奏汰の指と爪のあいだにこびりついていることに薫は気付いた。
「(……土?)」
「かおる? どうかしました?」
──指名手配犯を匿い──事件発覚──隠すだけでも罪──。
「かおる?」
「ん? ううん、なんでもないよ?」
ここのところ忙しかったのもあり、薫はすっかり『死体』のことなど忘れてしまっていた。スケジュールの密度自体はそれほどでもないのだが一本一本の撮影や取材が長く、自覚していなかったのだが疲労が溜まっていたらしい。しかし自宅へ帰れば奏汰が必ず出迎えてくれ、それらに薫は安心感を覚えていた。
「(──忘れてた。そうだ、こんなのいつまでも続くわけないんだ)」
「ぼくのはなし、きいてなかったでしょう〜? 『いちょう』がとっても『きれい』だっていうはなし。きいてました?」
「ごめん、全然聞いてなかった」
まったくもう、と奏汰は不満げに頬を膨らませる。
「……あの『いちょう』、きられちゃうってはなし、でしたよね」
「あぁ、そうだよね。勿体ないよね〜、綺麗なのにさ」
「それなんですけど、『とりやめ』になったみたいです」
「そうなの?」
奏汰はスマートフォンのアルバムを開き、薫へ渡す。爪に食い込んだ土が気になるのか、台所のシンクで手を洗いに始めた。手渡された画面には、銀杏の幹に括り付けられた看板の写真。
「ああ、ほんとだ」
以前に見た看板に被さるように、追加でもう一枚紙が張り出されている。『撤去は中止になりました』と赤いゴシック体で記され、下部に町内会の名称が記載されていた。
「反対運動でもあったのかな。よかったなあ、できれば来年も見たいなって思ってたから」
「──でも、『ことし』の『いちょう』は『ことしだけ』ですよ」
手を洗い終えた彼方は奏汰は薫からスマートフォンを取り上げた。拭き残された手首はまだ濡れている。
「来年は見たくないの?」
「そういうことじゃ、ないです。けど」
「けど?」
「……また『でえと』してくださいね、かおる」
今年が終わらないうちに。と奏汰は呟き、手を洗うために捲り上げた袖を元に戻した。
「……デートくらいいくらでもするよ。俺は来年も見たいよ。好きだから。奏汰くんと一緒に見たい。ていうか、葉っぱが散っても銀杏は銀杏だよ。変わらないよ。なにも変わることなんてない」
「『きやすめ』ですよね。それ。たとえなにもかわらなくたって、おわるものはおわるんです。『おしまい』は、かならずくるんですよ」
奏汰は苦し紛れに笑い、居心地悪そうに頬を掻いた。中身をなくしたレジ袋ががさりと音を立てて崩れ、形を無くす。
忘れていた。こんな生活がいつまでも続くわけがないのだ。夢みたいな幸せが立て続けに起きたせいで誤解していた。普通で、当たり前で、これが本物の日常だと──錯覚していた。蝉の声が遠い。当たり前だ、夏はとっくに終わったのだから。
「……それでも、約束してるからね。今年一年はデートするんだって。だから今年いっぱいは……」
まるで執行猶予だ。
薫の語尾が空中へ立ち消えていく。奏汰は崩れたレジ袋を無造作に掴み、ゴミ箱へ投げ入れた。
***
「どうしたどうした、元気が足りてないぞ! 俺が分けてやろう……☆」
貰えるもんなら貰いたいよ、と薫はぼやく。
声に張りがないのは、伸びに伸びた収録を終えたところだからだ。様々な企画に挑戦するバラエティのゲストとして呼ばれた薫と千秋は、楽屋でだらだらとスマートフォンをいじりながら駄弁っていた。特に見たいコンテンツもないのだが、なんとなく指だけでも動かしていないと落ち着かないのだ。仕事は終わったのだしもう帰ればいいのだが、どうも気が進まない。
「もりっちはほんといつでも元気だよね〜」
「今日がたまたまそうなだけだぞ。いつでも元気なんていうことはないのだが」
千秋は座ったままパイプ椅子を後方へ倒し、バランスをとりながら薫のほうを見る。
薫は千秋の視線に気づかないまま、深いため息を吐いた。画面をスライドする親指はホーム画面を行ったり来たりし、無意味にアプリを起動しては閉じて、また無意味に立ち上げる。非生産的でなににもならない行為にも飽き、テーブルへ突っ伏して顔を埋めた。
考えても考えてもわからない。
一昨日、奏汰の爪に土が食い込んでいた。茶色く柔らかい、やや湿った土。あの並木道、銀杏が植わっている根本の土と同じものだ。土の出所に見当をつけるくらいのこと、コンクリートやアスファルトで固められた都会では造作もない。
「(土を触らなきゃああは汚れない。なにかを掘り起こしたか、あるいは……埋めてた?)」
それは『死体』?
だが人間一人を隠せるほどの大穴はあのあたりにはない。当然時間もかかるし人目につく。大型のスコップや、掻き出した土を溜めておくためのスペースも必要だ。とすると、埋めたものはもっと小さい。奏汰の言う『死体』は──死体ではない。
「(そこまでわかったところで……動機がわかんないんだよなあ……)」
奏汰に貸し与えている部屋を覗き見すればヒントが得られるかもしれない。リビングや台所の共有スペースとは別の、個人のためのプライベートな空間。最低限の線引きは必要だと薫は考えていると同時に、自分を守るためでもある。
「(浮気を疑うみたいで嫌だなあ……。浮気どころの話じゃないんだけど。でも直接聞けない雰囲気出てるし……)」
「なあ羽風。本当にどうした? 大丈夫か? ここ最近……というか、この前会ったときからずっと落ち込んでるみたいだが……。ひとりで抱えずに相談してほしい」
千秋は椅子を傾けたままテーブルに置いた片手でバランスを保ち、空いたほうの手で薫の腕を小突く。突っ伏した上半身を揺すられ、現実逃避代わりの思考整理は中断を余儀なくされた。首だけを千秋のほうへ回し、そのお人好しの面構えを確認する。
「それ、説得力ゼロ〜。もりっちが言う〜?」
薫は疲労感を表情筋に馴染ませながらへらりと笑った。
「ははは……。これでも俺は俺で改善に努めてるんだぞ。昔よりはうまく立ち回れるようになっていると思う。ともあれ俺の話はいい。羽風」
「なに〜」
「……駄目になる前に呼んでくれ。落っこちて割れた卵はもとに戻らないんだ。運良く割れないかもしれないが、中身がどうなってるかは外側からは分からない。だから、落っこちる前に呼べ」
千秋は真剣な目で柔らかく笑った、それは純粋な厚意で。それ以上の深い意味や策略や算段なんて千秋にあるわけがない。どこまでも純粋で混ざりけがなくて、ヘドが出そうなほどまっすぐだ。
「……眩しいね。もりっちは」
薫は目を細め、スマートフォンの画面を再び点灯させる。指は無意味に非生産的に画面を操作し、いつのまにか電話帳を開いていた。たった一匹の魚の絵文字がやけに目立つ。
「落っこちる前に呼んだら助けてくれるの?」
「そうしたいって俺は思うぞ?」
「いまの話『アリス』でしょ。昔に読んだことがある」
「おお奇遇だな。俺も先日読み終えたところだ」
「そんならさ、知ってるよね」
──アリスが何を言ったって、ハンプティダンプティは最後には落っこちるものなんだって。
「いや──なんでもないよ。ありがとねもりっち。俺が元気ないの心配してくれてるんでしょ?」
「羽風」
「いつまでも俺が帰んないから付き合ってくれてるんだよね。ごめんねほんと」
「羽風!」
薫の横でがたん! と音がした。見れば、千秋が椅子ごとひっくり返っている。後方へ倒れすぎてバランスを失ったのだろう。びっくりしてぽかんと空中を見る千秋に、薫は思わず吹き出した。
「ぷっ、あはは。大丈夫?」
「だ、大丈夫だ……! 少々恥ずかしいがこの程度!」
「もりっちが落ちてどうすんの。あー、なんか悩んでるのが馬鹿らしくなっちゃった。うん、帰るよ。いつまでもいたってしょうがないもん。スタッフさんにも居座ってごめんねって謝らなきゃ」
「ん、なにはともあれ元気が出たようでよかったぞ! 俺も一緒に挨拶に行こう」
千秋は起き上がり椅子を元に戻す。
「(帰らなきゃ。帰って、直接、話をしなきゃ。いつまでも逃げてちゃだめだ。俺にとっても奏汰くんにとっても、そういうのってよくない)」
薫は千秋とともに楽屋を出て、スタッフたちに挨拶をして回る。だらだらと居残ったことで迷惑がられているのではと危惧していたがそんなこともなく、二人はすんなりテレビ局を出た。
「じゃ。また次の現場でね」
「おう! またな」
千秋と別れ、薫は帰路につく。
「(黙っててごめんね。ほんとは一番に教えなきゃいけないはずなのに。……ちゃんと、整理ができたら言うから)」
──隠すだけでも罪。むしろ、隠すことそのものが、罪だ。
だけど。
「(……ごめん)」
***