「これで全部だなあ!」
洗濯カゴが屋上の床一面を埋め尽くしている。ランドリールームと屋上を何度も往復するのはさすがに堪え、少し息が上がってしまっている。階段の登り降りは心肺機能が鍛えられていい、と心地よい疲労感を斑は感じていた。布が詰められたただの洗濯カゴとはいえ、ずらりと並べられた光景は圧巻である。
「あはは、すごい量なんだぜ〜!」
「ほんとだなあ、物干し竿がいくらあっても足りないくらいだ」
本来屋上は立ち入り禁止になっているのだが、近頃は誰ひとりとしてそれを守ろうとしていない。そのため屋上入り口脇の物置には薫のサーフボードを筆頭に、多数の生徒による私物や、校内の備品が乱雑に置かれていた。鍵がかけられていないことは すでにすでに折り込み済みだ。
「えっと、たしかこのあたりに……」
がらくたたちを退けて物干し竿を引っ張り出す。慣れた手つきで次々と組み立てていくが、シーツの枚数と布面積を考慮するとスペースが足りないかもしれない。
「(ううん、どうしようかなあ。本当にこの量を干せるかどうか怪しいぞ)」
組み上げた何基もの物干し竿たちを見渡して静かに息を吐く。青空の下で、まだ湿ったままの白いシーツたちがいまかいまかとその身を広げられるのを待っているようだ。太陽光が白に反射して眩しい。
「三毛ちゃん先輩、これ」
物置からひょっこり顔を出した光は手に麻紐の束を持っていた。斑は駆け寄ってきた光に視線を写す。
「お、ずいぶん長そうな麻紐だなあ? これがどうかしたのかあ?」
「物干し竿が足りないんなら紐に吊るせばいいんだぜ。ここに洗濯バサミ通して……端っこと端っこ持ったら、ほら!」
洗濯バサミを通した紐を光は両手いっぱいに伸ばし、ピンと張ってみせた。斑はその動作を一目で理解し、顔をほころばせた。
「おお! 名案だなあっ、これなら全部干せそうだ」
「えへへ、前に創ちんたちと干したときにも足りなくって、こ〜いう方法でやったんだぜ」
光は笑って胸を張り、斑に紐の片端を手渡した。端を結び付けられそうな部分はあるだろうかと、斑は壁のほうへ歩いていく。紐に通された何個もの洗濯バサミが、宙に浮かんだままじゃらじゃらと小ぶりに揺れた。
「うん、ちょうど良さそうなフックがあるなあ。おおい光さん、俺はここに結ぶからなあ。光さんはそっち側で結べそうなところを探してくれ」
「わかった!」
端 を持ったまま光が向こう側へ走っていくのが紐伝いに感じられる。空中に浮いた洗濯バサミがゆらゆらと揺れた。斑は渡された紐の端をフックへ括り付けていく。物置の壁から出っ張ったそれは、掃除用具などを吊るしておくのを想定されたものだろう。
「……光さん。ちょっと聞いてくれるかなあ」
──じゃらり。洗濯バサミが空中で音を立てる。
「一緒に走れなくてごめんなあ。でも嘘をついたつもりじゃないんだ。というか、本当は光さんに、聞いてみたいことがあって」
麻紐をきゅっと引き締める。フックの形状を利用した結び方を施したので、そう簡単にすっぽ抜けたり緩んだりはしないだろう。
「……光さん。俺と走るのは、そんなに楽しいことなんだろうか。俺の、ひとりよがりなんじゃないだろうか。わがままに付き合ってもらってるんじゃないだろうか」
──ゆら、ゆら。じゃらり。
「光さん?」
妙な違和感を覚え、斑は後ろを振り返った。──紐の向こうが見えない。ましてや、その向こう側にいるはずの光の姿さえ忽然と消えていた。
「(あれっ……? これ──)」
空が真っ黒だ。清々しかった青空はいまや墨色になり、晩春の爽やかな風もぴたりと止んでいる。ただただ、斑が持ったままの紐が虚空へと伸びていた。向こう側の端は闇に飲まれていて見えない。指先から伝わる斑の脈拍に合わせて、木製の洗濯バサミがじゃらじゃらと鳴るだけだ。
白昼夢。
「(ああ、またこれかあ)」
斑は紐を持ったまま呆然と立ち尽くした。すうっと表情から色が消える。まったくもって意味のない、よくある白昼夢だ。現実では単にぼうっとしているだけに見られているのも知っている。一分もしないうちに覚めるものだから、と斑はさして抵抗もせずにこの幻覚に身を任せていた。
「(今回はなんだろう。意味はないもんだとは思っているが……なんのための現象なんだろうなあ)」
手足に感覚がない。まったく厄介な現象に取り憑かれたもんだ。深く息を吸ったのはため息を吐くためだ。
「──三毛ちゃん先輩?」
──じゃらり。
「どうしたの?」
「……光さん?」
突如として虚空は晴れ、目の前に青空が舞い戻った。すぐ横には光が立っていて、やや不安そうな面持ちで斑を見上げている。手は紐の端を握ったままで、宙に浮いていた洗濯バサミも床に落ちていた。ゆらゆらと浮遊する不安定さはもう感じられない。
「具合でも悪いの? ……ぼうっとしてて、なんか変な雰囲気だったから」
愚直にまっすぐに向けられる視線。おそるおそる光の手が伸ばされ、紐の端を握る斑の右手にふわりと重ねられる。少年の指はふっくらとした肉付きだがまだ華奢で、いずれ成長し、骨ばった大人の手へ変わっていくのだろう。
「……三毛ちゃん先輩、いつも、どこか違うところ見てるようなかんじがするから。具合悪くなったら、言ってほしいんだぜ」
「(ああ、心配させているのか。俺は)」
この手はいつまで少年でいてくれるだろうか。早々に成長を終え、少年期を捨てざるをえなかった斑には、想像もつかない。自分の手とは大違いだ、と思考の片隅に、ぼんやりとなにか情のようなものが映り込んだ。斑は重ねられた光の手に、もう片方の自分の手を包み込むように重ねる。温度がわずかばかり上昇して、こわばっていた表情筋もふっと緩んだ。
「ううん、なんでもないぞ。ほんとうに、ちょっととしてただけだなあ」
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと。どこも具合は悪くない。むしろすこぶる順調だ。光さんが手伝ってくれるからなあ」
「むっ、違うんだぜ。手伝いなのは三毛ちゃん先輩のほうで、今日の洗濯当番はオレだもん! 三毛ちゃん先輩が言い出したんだから勘違いしないでほし〜んだぜ」
柔く噛み付いてくる光を、「ごめんごめん」と斑は軽く受け流した。立ち尽くして日光をじっと浴びていたせいか、背中や体のあちこちがじんわりと温まっている。
***
気を取り直して紐を張り直し、宙に浮く洗濯バサミへ濡れたシーツを挟みこんでいく。大きな布地は二人掛かりで干したほうが効率がよく、一人でやるよりも作業はずいぶんと楽だった。
布の端を端を持ち、せーの、と掛け声を重ねて濡れた布を広げる。そのたびに、洗剤だか柔軟剤だかの香りがふわりと屋上に広がった。物干し竿にかけ、飛んでいかないよう、裾部分にも洗濯バサミを噛ませた。シワがないようにピンと伸ばしたら次の布へ。それを洗濯カゴ一つ分ごとに繰り返し、屋上はあっという間に洗濯物でいっぱいになった。
「洗濯すると気持ちがいいなあ」
「うん。今日は天気もいいし、お日様をい〜っぱい浴びてすぐ乾いちゃいそうなんだぜ。創ちんの言う通り、絶好の洗濯日和なんだぜ」
ぴん、とシワを伸ばしていく。布地を整えていく最中、ふと、シーツ越しに光のシルエットが透けているのに気づいた。洗われて真っ白の布地の向こうで、シワが寄らないように光もまた布地を整えているのだ。朝から比べると太陽もずいぶん高く昇り、日差しも強くなってきた。白い色が風に揺れ、光を跳ね返す。
「(……眩しいなあ)」
俺だけが、影に取り残されている。
斑は向こう側に透ける輪郭を無意識に目で追っていた。透けているとはいえ風にたなびくそれは至極不明瞭で、人間であるということが最低限判断できるに留まっている。それでも、斑は光の輪郭をはっきりと捉えていた。
「(駄目だなあ。憧れが深層に残っている。俺が向こう側に行きたいだなんて、おこがましいにもほどがあるのに)」
干したシーツが境界になり、世界を真っ二つに隔絶しているようだった。真っ白い布がはたはたと風にたなびいている。斑はぼんやりと立ちすくみ、境界の向こうの眩しさを眺めることしかできなかった。
「……光さん。さっき聞きそびれたんだが、その……。光さんは、平気なのかな。走りたいって言ってくれるのは嬉しい。けど……無理して俺に付き合わなくてもいい、のに」
なんで。
ぽつりぽつりと、ひとりごとのように言葉が漏れ出ていく。この合宿が始まる前からそうだ。陸上部の活動光と一貫で一緒に走ることは何度もあった。それ自体が嫌だと思ったことなど一度もない。むしろ嬉しかった。だからこそ、同情や憐れみが含まれた行為なのではないかと、邪推せずにはいられなかった。
「走るのは個人競技だ。ひとりでもできる。別に、俺じゃなくてもいいだろう……走るだけなら、誰でもいい」
言うべきではないと頭ではわかっている。これは愚痴だ。八つ当たりだ。斑は正面のシーツの影から目を逸らし、拳をぐっと握り込んだ。伸びかけの爪が肉に突き刺さる。懸念を振り払うように頭を左右に振り、どうにかして口角を持ち上げて明るい声色を作った。
「──すまない! 愚痴っぽくなってしまったなあ。いまのは俺のひとりごとだと思って聞き流してく──」
「なんでそう思うの?」
シーツに透けていた光の影が消え、布がたわむ。声は斑の足元のほうから聞こえていた。垂れ下がったシーツを持ち上げ、潜るようにして光がこちらへ顔を覗かせていた。
「オレ、ちっとも三毛ちゃん先輩の言ってることがわかんないんだぜ。誰でもいいなんて思ったこともないし、無理して付き合ってるとかもちっとも考えたことない。ただ、オレが三毛ちゃん先輩と一緒に走りたいからじゃ、だめなの?」
こちら側を見る光は眩しく、無垢で、きらきらしていた。丸い瞳に邪な感情など一切なく、奥の奥までどこまで進んでも透明だった。斑は下から見上げてきた光に拍子抜けし、同時にそのリアクションに見惚れていた。動きが止まり、シーツだけが風にゆらめく。
「あのね。そりゃあ、最初はどっちが早く走れるかって競争のつもりだったんだぜ。でも三毛ちゃん先輩わざと負けようとするから、それがオレはむかむかしてたんだぜ。でも最近は、競争とかなしで一緒に走ってくれるようになったから。パッて横見たときに、同じくらいのスピードで走ってるひとがいるの。それってけっこう、嬉しいんだぜ」
にいっと光は歯を見せて笑った。大きな丸い目が細められ、そこに嘘偽りも一点の曇りもなく純粋な喜びが存在するだけだ。斑は光に気づかれないようにわずかに身じろぎし、握っていた拳をゆっくりと開いた。
「それにね、オレがこういうこと聞きたくないっていうのもあるんだけど、三毛ちゃん先輩にそういうこと、言ってほしくないから」
「…………そうかあ。いいなあ。眩しいなあ」
空が青い。吐いた息は透明になり大気へ溶けていく。この青も、シーツの白も、斑には眩しすぎて身を妬かれてしまいそうだった。でもだからこそ、身を焼かれた先になにが核として残るのか、見てみたくなった。斑は膝をかがめ、シーツの下からこちら側を見上げる光と目を合わせる。
「俺も、そっちへ行って、いいかな」
笑顔で光が頷く。風が二人の懐に舞い込んで、たわんでいた布が大きく膨らんだ。
「うん。そんでね、いっこお願いがあるんだけど」
「お願い?」
光は斑の耳元に手を寄せ、気恥ずかしそうに声をひそめて訪ねた。
「今度ね、一緒に走って帰ろう?」
合宿が終わったらね。と光は付け足す。そのとき確かに世界はきらきらしていて、斑は己の内側が柔らかいもので満たされていくのを感じていた。それを手放すことなど、きっともうできない。
2018.11.24発行/光斑コピー本「走って帰ろう」web再録
01.猫を追う / 02.ひかりのむこう かげのがわ