バケツの中で魚が泳いでいる。
薬浴と言い、健康状態を整えるため水槽に入れる前にこうして隔離させておくのだ。熱帯魚が三匹。
そういえば魚を育てるのは久しぶりで、最後に〝処分〟してからは飼育への興味がすっかり薄れてしまっていた。水族館に行くのは現在も好きだが見るの専門だし、あるいは食べるの専門だ。
それが〝処分〟に関する“覚悟”なのかもしれない、と奏汰は水槽にポンプを取り付けながら考える。
まずは水槽を一台。
昔取った杵柄とは言うものの、なにせ久しぶりなので難易度の高い生物を飼うのは自信がなかった。やっていけばそのうち思い出すだろうが、そこまで本気で取り組むほどの元気はない。
今日で薬浴も終わりだ。奏汰は水の中へそっと魚を入れた。尾ひれを振るたび、青色に発色するライトの中で鱗がきらきらと光を反射している。きれいだった。
こぽこぽと静かに呼吸するポンプ。電気を喰らう微かな唸り声。床には数本のコードが伸びている。奏汰はそれらを踏まないようにしながら窓辺へ近づき、閉めきっていたカーテンを開けた。
「……」
半日ぶりに太陽光を浴び、眩しさに目を細める。時間ははっきりとわからないが今は昼を過ぎたころだろうか。奏汰はベランダに置かれたスイートピーの鉢植えを眺める。ピンク色の花はちょうど今が見頃なのだろう。
(なんでぼくが、そだてなきゃいけないんですかね)
この花は薫の仕事場のスタッフから、薫のためにと薫へ送られたものだ。当初鉢に巻かれていたリボンやラッピング用紙は取り外され、ぞんざいにベランダの隅に置かれている。鉢植えを飛行機に持っていくのはできないし、せっかくだから奏汰くん水遣りしててよと〝ついで〟のように頼まれたのだ。
自分に頼まれたのはあくまで留守番のはずで、植物の育成などやったことがない。家具などを好きに使っていいと言われているのと引き換えだと思えばいいのだろうが、奏汰にはこのピンク色の花がどうも好きになれなかった。
(『はじめて』みたときから、なんとなく、『やなかんじ』がしましたし、あんまり『きのり』しないですね〜。『ぴんくいろ』だからでしょうか)
ペットボトルに汲んだ水を花の根本へ注ぐ。植物の知識に乏しい自分でも、同じ種類で違う色の品種もおそらくあるだろうことくらいは予想がついた。
(もし、『ほかのいろ』、たとえば『あかいろ』とかだったら……)
もしピンク色でなく、違う色だったら?
ピンク色は浮かれた色。
どこにでもある、ありふれた幸せの色。
(……もっと『きらい』になってたかもしれないですね)
気を抜いた直後、ボトルのキャップが手指をすり抜ける。あっと思った瞬間にはもう遅く、ベランダの柵の隙間から落下してしまった。
(ああ……。まあ、でも『ふた』くらい、どうでもいいですね)
柵から身を乗り出して下を覗き込む。白いキャップは階下の植え込みへ落ちたのか、この位置からではどこにあるのか皆目見当もつかない。まあ、ペットボトルのキャップだし、花に水遣りができればいいのだから別段なくしたってどうということはない。拾いに行くのも面倒だった。
ベランダ用スリッパを脱ぎ捨てて室内へ戻る。ふと、昨夜からつけっぱなしになっているテレビが目にとまった。
《——時刻は午後三時。マル得ニュースの時刻になりました……》
痩身のニュースキャスターがもっともらしい口調と服装で立っている。この男とは一度だったか二度だったか、以前テレビ局内ですれ違ったことがあった。一見真面目そうではあるが胡散臭い印象がぬぐえず、信用ならない男だなと思ったのを覚えている。
***
《——マル得ニュースの時刻となりました。本日の特集はこちら! 〝人気アイドル・羽風薫、突然の渡米宣言!?〟人気アイドルグループUNDEADの羽風薫さんが四月から渡米すると突然の宣言。果たしてその目的とは? CMのあとです》
手元の台本やカンペを読み上げているに過ぎないのだが、こんなゴシップキャスターに薫を語ってなどほしくないな、と奏汰は心の中でぼやく。仕事とはいえ、だ。
洗濯洗剤や食卓調味料といったいかにも専業主婦向けのコマーシャルが流れ、番組に戻る。
《夜闇ラジオでお馴染みの羽風薫さん。人気絶頂の今、なぜ渡米するのでしょうか? 羽風さんの所属事務所が発表したファックスによると……》
羽風薫の渡米目的は〝歌唱力の向上と修行のため〟だ。
芸能生活、とくにアイドルを生業とする者にとってその選択はさほど不思議なものではない。学を深め、より良いパフォーマンスを発揮するための留学。薫もそういった目的で渡米するのだ。なにもおかしくないが——実際のところはそうではない。
《「——自分を鍛えるための渡米です。ファンの皆様、スタッフの皆様にはご心配をお掛けしますが、一年後に必ず戻ってくると約束します……」》
「ほんとにこんなこと言ったんですか、かおる?」
「言ったよー。俺、アイドルだしさ」
薫は急な雨から洗濯物を取り込み、後ろ手でベランダを閉めた。朝からずっと曇っていたうえでの雨だ、二人ぶんの服はまだ水分を含み湿っている。天気予報をしっかり確かめればよかったのだろうが、二人ともなにも考えずに干してしまったのだ。
「別に嘘はついてないよ? ファンもスタッフも大事だしさ……。向こうにいる間は朔間さんの知り合いにレッスンお願いするし」
湿った服をハンガーごと壁に掛けていく。それほど量があるわけでもないし、部屋干しの臭いもおそらく大丈夫だろう。
「な〜んか『うそくさい』ですね〜。かっこつけすぎじゃないです?」
「えっ、別にいいでしょテレビ用のコメントなんだし。ファンの子たちのイメージも大事にしていかないと」
「『おんなのこ』あそびは、やめたんじゃなかったんですか?」
「それとこれとは別だって」
奏汰はソファーに座ったまま外の様子を伺う。先ほどは小雨程度だったが今は本降りになり始めていた。
《続いてはこちらの特集です。なにか事件に巻き込まれたのでしょうか、忽然と姿を消した消息不明の——》
とくに見ているわけでもないテレビを消した。強くなりだした雨の音が聞こえる。
「それに、本当のことは、さ……」
テレビ向きじゃないし。と薫は付け加えた。かろうじて乾いていたタオルを洗濯バサミから外し、奏汰へ渡した。奏汰は無言でそれを受け取り畳み始める。
「それもそうですねぇ……」
本当のところは〝歌唱力の向上と修行〟のためではない。公にするにはヘビーすぎる、羽風家の事情によるものだ。当然テレビ向きではない——ある意味ではテレビ向きなのだろうが、そういったゴシップ記事に転じそうな火種はこれもまた羽風家の者が報道部に圧力をかけて揉み消していた。
アメリカに羽風の分家が住んでいる。血縁としては遠縁になり、薫はその存在は知っているが顔も知らなければ会ったこともなかった。その分家がアメリカ政財界に進出するため、広告塔になりうる本家の人材を欲しがったのだ。
三兄弟のうち兄は家業を継ぎ、姉は他家へ嫁いでいる。取引には独り身で芸能界をフラフラしている薫が選ばれた。薫の身柄と引き換えに何が分家から本家へ差し出されたのかは知らない。ただ、この取引に応じれば芸能活動を続けることを全面的にバックアップし、級友やユニットメンバーにも便宜を図ると本家は薫に提示した。さらには多少の無茶なお願いもできる限り協力する、と。
今の薫の天秤を揺らすには十分に魅力ある案件だった。たった一年アメリカへ行き、お偉いさんたちにいい顔をして振る舞っていればいい。
これらの真相を知るのは本家に関わる者を除けば、薫と同ユニットである朔間零と、奏汰だけだ。
薫はピンチハンガーを折り畳み、脱衣所の棚へしまいに行った。奏汰は薫から投げ渡された、タオルや靴下を畳んでいく。
ぎりぎり乾いたと呼べる程度に本当に乾いているかどうか、念入りに布の中心部を触る。湿りが残っているものは横へはじいておき、あとでどこか適当なとこに引っ掛けて部屋干しすればいい。
薫が脱衣所から戻ってきた。
「奏汰くんさ」
「なんでしょう?」
「……平気なの?」
「なにがですか?」
薫は髪を弄りながら困ったふうに話す。
「……その、色々あるけど……俺がさ……」
しばらくためらっていたが、薫は「やっぱなんでもないよ」と言った。
雨粒がガラスを叩く音がする。
この季節に風はともかく、こんな強い雨は珍しい。
***
四台目の水槽にはネオンテトラが五匹。青い体色に朱色の尾部を持つ色鮮やかな熱帯魚だ。水草は葉に光合成した酸素の粒を蓄え、微かに揺れている。
四つぶんのポンプが呼吸し、電気の唸り声も以前よりはっきり聞こえるようになってきた。
薫の家は静かだ。隣人の話し声も聞こえなければ、外の喧騒もこちらには届かない。防音性能がそれほど高いわけではないはずだがなぜだろう。ドアに鍵をかけ、カーテンをぴったりと閉じさえすれば、外界との接触は一切なくなる。
唯一、ベランダの〝あれ〟を除けば。
適当なコップに水を汲み、カーテンを開けた。眩しい。奏汰は一日ぶりに太陽光を見た。
(やっぱり『おそと』はあついですね〜……。はだが、やけちゃいます。いまは『なつ』なんでしょうか)
ペンキをぶちまけたみたいな青空が暑苦しい。たかが花ごときの水やりだ、さっさと終わせてしまおう。
花の時期はもう終わってしまっていた。こんな適当に育てていても種は残るのか、エンドウみたいなサヤをあちこちにぶら下げている。ベランダの柵には蔓が何本も伸ばされ、植物ごときに侵食されているようで不愉快だ。最初のうちは蔓ごと引きちぎっていたが、翌日には元通りになるのでもう諦めていた。支柱を作ってやるか、鉢植えをベランダから退かすかの二択。
そのどちらも面倒なので、ベランダに置こうと最初に言い出した薫のせいだと奏汰は考えている。
(まったく、『めんどう』です……。この『くき』とか、『はっぱ』とか、どうみても『おくりもの』にするほどの『おはな』じゃないでしょう。こんなの、『そこらへん』にはえてる『ざっそう』じゃないですか)
水遣りを終えて部屋に戻った。
(……あれ?)
どことなく、違和感がある。海をイメージしたインテリアは薫と奏汰に共通する嗜好、だったはずだ。
砂浜のような明るいベージュ色の床、明るく透明感のある水色から徐々に深い青へグラデーションしていくカーペット、スカイブルーの地色に白い水玉がぽつぽつと浮かぶカーテン。数体の魚介類のぬいぐるみたち。
(……ここ、こんな『へや』、でしたっけ)
薫と居たころとなんら変わりはない。汚していないし、掃除もしている。この三ヶ月間、薫と居たころの環境を保ち、維持してきた。おそらくこれからもこの状態を維持し続けるだろう。
「…………」
さみしい。
さみしい?
***
電子音が鳴った。
そういえばこんな通知音に設定したな、と奏汰は夢うつつから目を覚ます。ベッドの上を這いずり、充電器に繋いだままのスマートフォンを手繰り寄せた。
メッセージアプリからの通知だったようで、画面には『やっほー』と気の抜けるような文字列が表示されている。送信者の名前を見なくても、今の奏汰にこんなメッセージを送ってくる人物など一人しか心当たりがない。薫だ。
『奏汰く~ん』
『お~い』
『もしかして寝てた?』
『通知で起こしちゃったかな。そうでなくても、気づいたら返事してほしいな』
なんて返そうかと思案しているうちに次々とメッセージが送信される。未だ覚醒しきらない頭をどうにか回転させて薫への返事を考えていた最中、ごめんねと謝る猫のスタンプが貼り付けられた。中途半端にリアルなタッチの、いわゆる劇画調とでもいうのだろうか。「ごめんね」の文字も毛筆で、その勢いと圧力に思わず吹き出す。
『さんかげつもほっといて、なにいってるんですか』
『(ごめんねと謝る犬のスタンプ)』
『(ぷんぷんと怒るフグのスタンプ)』
『忙しかったんだよ~』
『いいわけにならないです』
指先に血液が巡っていくのがわかる。奏汰はベッドの端からイカのぬいぐるみを取って抱きしめた。綿の詰まったそれは柔らかくて、至極おだやかな気持ちになる。
『じゃあどうしたら許してくれる?』
『そうですねぇ……』
ぽんぽんと次々に現れるテキストを眺めながら少し考える。
——綺麗に整えられたテキストフォントよりも、もっと自然な、薫のナマの声が聞きたい。
『でんわしてください』
『え、俺はいいけど、』
『そっちは今夜中じゃないの?』
スマホの通知を見るとちょうど日付が変わる瞬間だった。家にとじ込もってばかりで日光を浴びていないせいか、このところ体内時計がまるっきり機能していない。日本とアメリカの時差はたしか十三時間だったか十五時間だったか……とにかく半日以上のズレがあるはずだ。
だが、そんなことは問題ではない。
『かけますね?』
返事を待たずに電話を掛ける。しばらくの呼び出し音がして、聞き慣れた声色で『や、やっほ~……』と聞こえた。
「こんばんは、かおる〜」
『こんばんは~奏汰くん。つっても、こっちは今昼過ぎだけどね』
「かおる、あの、えっと……」
電話口の向こうはどことなく騒がしく、人混みと喧騒を想起させた。ザワザワとうるさく、電話越しの自分の声なんて聞こえにくくて仕方ないんじゃないだろうかと疑う。
『ごめんね、ほったらかしちゃってさ……』
薫が申し訳なさそうな顔で言っている。声色にはわずかに疲労感が滲んでいて、忙しくて連絡できなかったのは言い訳でもなんでもない事実なのだろう。
「あの……、ぼく、」
さみしかった。
***
さみしかったです。
——とは、言えなかった。というか、言い損ねた。電話をかけたいと申し出たときもかけた瞬間も、薫のナマの声を聞く直前までそう言おうと思っていたのに、声帯と唇は脳を裏切った。
「ぼく——ぼくは、だいじょうぶです」
『え、でも……』
「へいきです。だいじょうぶ。しんぱいしないで、かおる」
『……奏汰くん、嘘つかないでよ。俺は、奏汰くんが、だ——』
「だいじょうぶですってば! 『おるすばん』くらい、ひとりでできます。だから、かおるはじぶんのことに、『しゅうちゅう』してください」
その気持ちは嘘ではなかった。薫には薫なりの事情があって、実家絡みのゴタゴタに不本意ながら巻き込まれているのも十分理解していた。歌唱力のレッスンのためと公言しているのも、事実、薫が自身のパフォーマンスにいまいち伸び悩んでいたことも、理解しているつもりだった。
「それより、かおるは『げんき』にやってますか? 『じゅんちょう』にやれてますか? ぼくのはなしよりも、かおるのはなしがききたいです」
(だから『しんぱい』しないで、かおる)
——先日の電話での会話を思い出しながら、バケツの中の古い水を捨てる。水槽は七台目の設置が終わった。
奏汰の足元にはうじゃうじゃと触手のように無数のコード類が伸びている。この部屋にも奥の部屋にも、各コンセントを経由しながら床や壁を血管のように這い回り、まるでこの家が巨大な生き物の体内に変容してしまったようだ。ポンプはごぽごぽと空気を吐いていて、それは呼吸のように思えた。薫の家で、薫でも自分でもない何者かが息づいている。
びっちり閉じられたカーテンの下側の隙間から光が漏れる。今、外は何時くらいなんだろう。日光が漏れているから夜ではないのは確かだが、朝なのか昼なのか夕方なのか、皆目見当がつかない。
——昔、十年くらい前もこんなかんじだった気がする。
(『うみのそこ』は、いきが、しやすい)
光が遠ざかる。思えば地上は息苦しいことばかりだった。自分はえら呼吸の生き物だったのに、いつからか中途半端に肺呼吸のやり方を覚えて、海の底の心地よさを忘れてしまっていた。
(『ちじょう』はまぶしくて……。ぼくには……。かおるなら、きっとわかってくれる。『かおる』なら)
光は遠ざかり完全に姿を消した。沈んでいく感覚だけが質量を持ち、その重さでさらに沈んでいく。
沈みきる間際、ベランダの花のことがよぎった。最後に水をあげたのはいつだったか。三日前か、一週間前か、十日前か……。しかしあんな生命力の強い花のことだ、多少放っておいても平気に違いない。
(『ざっそう』じゃないですか、あんなの)
そして、海の底へ辿り着いた。
***