地上のすべては真っ白な氷雪に覆われ、白銀の光をただ静かに照り返す。優介が指先でつまんだそれは、明るく澄んだ紫色をしていた。
「まだこれを持っていたのか」
まどろみを固めたような淡い色合いの、五センチほどのシーグラス。昔、中等部一年のころに吹雪へ渡したものだった。優介はその記憶を反芻し、口角を片側だけ持ち上げる。
「よくもまあこんなものを。……愚かだとは思わないか。なあ、吹雪」
優介はゆっくりと振り返る。
冷たい水晶で組み上げられた王座に、優介とよく似た漆黒のコートの人物──天上院吹雪が座っていた。両腕は肘置きにゆるく伸ばされ、目線はぼうっと地面の雪へ向けられている。眠りへ落ちる直前のような、意識も魂も融解しかけた表情。優介は返事を少し待ち、つまらなさそうに王座を見下ろした。
「愚かだよお前は。仮面に頼って力を手にしたことも、その椅子に座っていることも。……こんなものを後生大事に抱えていることも」
吹雪を眼前に据えたまま、指先のシーグラスを見つめる。
珍しそうだったから、という理由だけで適当に手渡した紫色。この瞳とよく似ていると彼が言った紫色。
それは拾った当時よりも、どこかひとまわり小さくなっているような気がした。彼が繰り返し手のひらへ握りしめでもしていたのか、何度も触られるうちに角がさらに削れていったのかもしれない。
「……」
吹雪はぼんやりと下へ視線を落とすだけで、ぉちらの言動になにも感心を示さない。
此れは天上院吹雪の魂だ。本物の肉体は現世にあり、ここに顕現しているのは魂でしかない。
実のところ、優介自身も彼がここへ来ることは予想していなかった。まさか手渡した仮面をあんなふうに使うだなんて、考えもしていなかった。ただ自分が生き残りたいためだけに、ダークネスの力を頼るだなんて。
苦々しく舌打ちをする。失望だった。天上院吹雪はもっと賢く、生き様もそれを収める器もすべてが完璧な男だと、そう思っていたのに。
──もし彼が仮面を被った理由が、藤原優介を追いかけるためであったなら、どれだけ救われただろう。
けれども、事実はそうではない。そうでないというのに、どういうわけか彼の魂はいま目の前の王座に鎮座している。
彼の琥珀色の頭へ向けて言い放つ。
「こんなものを大切にしてなにになるって言うんだ。こんなもの、忘れられていく記憶と同じだ。波に流されるうちに摩耗して、角が取れて丸くなって、色がくすんで、もともとのかたちも分からなくなって──」
淡々とした怒気を含んだ声色に、吹雪の頭部がぴくりと反応する。のっそりと首をもたげ、焦点の合わない瞳が無言で優介を捉えた。瞳孔は一瞬で縮こまり、ひゅっ、と彼が息を呑む音が聞こえた。覚醒しきれない意識の中で、彼は苦しそうに唇を震わせる。
「きみ、は、……だれ、だ」
「……思い出せないなら、いい」
優介は上下の唇をきつく結び合わせた。吹雪は徐々に意識を取り戻していくが、瞳はまだ暗いままだ。なにが起きているのか状況を飲み込めないようで、自身の手を何度も握っては開いたり、あたり一面の銀世界に驚いたりしている。その様子が妙に苛立って、優介はおもむろに吹雪の顎を掴み、無理やり顔をこちらへ見上げさせた。
「本当に忘れてしまったのか。愚かなやつ。お前は覚えているはずだっていうのに」
吹雪は怪訝そうな表情を浮かべる。なにか言いたげに口が半開きになるが、どうせなにも思い出せないのだろう、そこから紡がれるはずの言葉はどれだけ待っても出てこなかった。諦めと共に優介は息を深く吐き出し、持っていた紫のシーグラスを彼の片手へ押し付ける。
「返してあげるよ、これ。俺はこんなふうにはなりたくない。風化して綺麗な核だけが残るようなものなんて、不完全極まりないだろう。俺は完全が、完璧な永遠が欲しいんだ。なにも欠けることのない永遠が」
「…………きみは、もしかして」
返却されたシーグラスを見て、吹雪の濁った瞳がわずかに揺れた。明るく澄んだ紫色が彼の瞳の表面に映り込む。はっ、と目が見開かれたのも束の間、痛みにでも襲われたのか片手で頭部を押さえた。彼の顔面が苦痛に歪む。醜く歪むそれを見て改めて、ああ、俺の知る天上院吹雪は本当に美しかったのだ、と優介は心の底からそう思った。
「吹雪。俺は永遠が欲しかったんだ。なにも失いたくないし、なにも失われてほしくなかった。きみだってそうだろう。きみだって、本心では俺との永遠を望んでいる」
「永遠……」
吹雪の両頬へそっと手を伸ばした。手のひらで包み込んだその魂は、絶対的正しさに近い美しさを放っている。優介は甘い声色で、その整いすぎた
「愚かだな吹雪。俺がせっかく記憶を奪ってやったというのに。こんなところへ来なければ、永遠に美しい魂のままでいれたというのに。忘れたままで、幸せに生きていけたというのに。自ら闇の力を求めただなんて、愚かとしか言いようがないよ。……それとも、本当はそうじゃなかった、とでも言うのか? なあ、吹雪」
否定できるなら否定してみろよ、と優介は強い口調で問いかける。
「……」
吹雪は黙ったままだ。沈黙は肯定しているのとなんら変わりはない。反論材料をなにひとつ持っていないに違いないのだろう、と優介は虚しさに満足した様子で笑った。
愚かな天上院吹雪。愚かになってくれた天上院吹雪。愚かで愛しい天上院吹雪。
王座に座る吹雪をふわりと抱きしめる。黒いコートの上にさらに黒が重なり、寄り縋るように布が擦れ合った。アームカバーに覆われていない剥き出しの指が、吹雪の頭部を優しく包む。
「ここで俺と永遠に過ごそう。なにも失わなくていいこの場所で、一緒に、二人だけの世界で過ごそう」
腕の中に納めた彼の肢体には温度がなかった。生きているものの肉体の気配がどこにも見当たらなくて、その静寂が心地よくて堪らなかった。優介の中に、有毒な感情がふつふつと湧き上がってくる。
「だって、天上院は、ずっと僕のことを好きでいてくれるんだろう。……それなら。ここならなにも失われない。ずっと俺のことを好きでいてくれるんだろう、吹雪、なあ」
吹雪、吹雪、と繰り返し名前を呼ぶ。ずっとそう呼びたかった。ここなら、二人しかいない世界であれば、なにも気にしなくていいのだ。優介の全身は、穢れきった嬉しさで満たされていく。彼の名前も美しい肉体もなにもかも、自分だけのものにしたかった。
「吹雪。好きだよ。俺もずっとずっと、きみのことが好きだ。永遠に、きみのことが好きだ」
彼の耳元へ、魔法をかけるように甘く囁く。
これでもう、溶けることのない永遠の銀世界から、出ることはできない。
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