海が呼んでいる - 1/3

 どうせサボるならビーチコーミングに行こう、と提案すると、なんだいそれ、と優介はこちらへ目を合わさないままに返事をした。

「漂着物の観察のことさ。砂浜を歩きながらそこに落ちてるものを色々見てみるんだよ」

「つまりただの散歩ってことか?」

「そんなかんじ。ぼーっとするのもいいけれど、なにか名前があったほうがいいかなと思って」

 ふうん、と受け応える声はぬるい。先ほどから彼のページをめくる手が止まっていることに吹雪は気付いている。読書を続けるつもりで本を開いているのだろうが、まったく読み進められていないのは明白だった。横向きに寝転ぶ彼のそばへ吹雪は座る。宙にぶら下がっていた本の栞紐をつまみ、彼の額や眉間をくすぐるようにして本の中へ差し入れた。

「あっ。なにするんだよ」

「集中できてないのに本読む意味なんてないよ。ここでぐだぐだするくらいなら授業出たほうがマシじゃないかなあ」

「うるさいな、ほっといてくれよ。僕はいま機嫌が悪いんだ」

「じゃあ尚更外へ出ようよ。今日は天気もいいし。寒いけど日差しが暖かいから、きっと気持ちいいよ。気分転換になる」

「……」

 優介はむすっとした表情のまましぶしぶ本を閉じた。出かける気になったのかい、と吹雪が喜んだのも束の間、彼は足元に溜まっていた掛け布団を引き寄せその中へ潜り込んでしまう。

「ちょっと、藤原!」

「ヤだ! 天上院、どうしてきみはそこまで僕に構うのさ! 僕の機嫌が悪いことはきみには関係ないだろう。なんでそこまでして外に連れ出したいんだよ、きみだけでも授業に出たらいいだろ!」

 丸まった布団から喚き声がする。強情なやつだな、と呆れた気持ちがわずかばかり芽生え、吹雪は彼の柔らかい殻を強めに揺すった。

「関係あるよ、大アリだ。藤原、きみが不機嫌だとボクはあまりいい気分にならないんだよ。何事も上機嫌なほうがいいに決まってる!」

 掛け布団ごと彼をもみくちゃに捏ね回す。うう、とかすかに呻き声がして、布団の隙間から頭部だけが突き出てきた。優介は至極迷惑そうな顔で吹雪を見上げる。

「天上院、きみはお節介を焼くのが好きだな……」

「お節介? 違うよ。ボクはきみに笑ってほしいだけ。友達だもの、当然だろう」

「それをお節介って呼ぶんじゃないのか。……はあ。どうせ僕がウンって頷くまで付き纏う気でいるんだろ。暑苦しい……」

 そうだね、そのつもりさ、と吹雪はニコニコと笑った。優介は布団から頭部だけを出したまま、深くわざとらしい溜息を吐く。じっ、と紫の目を上へ向けて少し思案し、面倒そうに答えた。

「いいよ、行ってやるよ。ビーチコー……なんだっけ。要はただの散歩なんだろう」

「ビーチコーミング。色々見ながらの砂浜の散歩さ。よかった、ようやく応えてくれたね。嬉しいよ!」

 弾けるようなウインクを飛ばすと、優介は眩しそうに眉間に深い皺を寄せ、苦々しく笑った。

「それに、ボクも授業サボりたいなって思ってたんだ。だから藤原は全然気にしなくていい」

「……天上院って、意外と不良少年なところがあるよな」

「そんな、失礼だな。せめて自由奔放と呼んでほしいよ」

 彼はのそのそと不服そうに布団から這い出てくる。寝転んでいたせいで緑の髪は少し乱れていて、くるくるの毛先があっちこっち好きな方向を向いていた。それが妙に子供っぽくて可愛らしく思え、吹雪は両手で包むようにしてその髪を直した。

「お節介。勝手に触るなよ」

「だってボサボサじゃあみっともないんだもの。ほらできた」

 最後に前髪をそっと真ん中で分けると、長い睫毛に囲われた紫の瞳と視線がぶつかった。透明度の高いアメジスト色の瞳。吹雪はその目を見るのが好きだった。まじまじと見つめるたび、胸は不可思議な愛おしさで満たされていく。

「……本当にお節介なやつ」

 二人は部屋を出て、中等部寮のすぐ目の前にある砂浜へ向かった。

 砂利を踏み締めるごとに少しずつ波の音が近くなってくる。眼前に広がる二月下旬の海は、青と呼ぶにはいささか灰みを帯び過ぎている。潮の匂いを運ぶ風は冷たいが、降り注ぐ日差しが心地よい温度をもたらしていた。

「海ってさ、」

「うん?」

「声がするよね、ときどき」

「? なんの話?」

 彼が何を言っているのか皆目見当が付かず、吹雪はきょとんとした表情を返した。優介は遥か先の水平を覗き込むように見つめている。

「……そっか。これもそうなんだな」

「藤原?」

 優介はこちらを無感情に一瞥し、前をさっと通り過ぎる。正面の海へ向かっていく焦茶色の制服を、吹雪は慌てて追った。

「藤原! ねえ、声がするってなんの話なんだい!」

「気にしないでいいよ、天上院にはきっと聞こえることのない声だから。僕の気のせいかもしれないし」

 振り返った優介はどこか諦観した顔つきをしていて、そのまま海へ吸い込まれてしまいそうだった。彼にしか聞こえないという海からの声に、引っ張られているようだった。吹雪は思わず小走りになり、その片腕を捕まえる。

「天上院、なに?」

「…………いや、なんでも、ない……」

ふ、と優介が笑う。

「いいんだ、こういうの。僕は慣れてるから。僕には聞こえるけど僕意外には聞こえない声がある、それだけなんだ」

「でも……」

「本当になんでもないんだ。……ほら、一緒に砂浜を歩くって、きみが言い出したんだろ」

「あ、ああ……」

 優介は吹雪に掴まれた腕を優しく振り解き、目の前の海へ向き直った。ざざぁん、ざざぁん、と白波が繰り返し打ち寄せている。彼の緑色の髪がゆるい海風に靡く。視線は砂浜に落とされ、普段通りの声色で彼は話し出した。

「こうして見てみると、砂浜って思ってるより色々落ちてるね。……天上院?」

 白い砂浜には点々と、流木やガラス瓶といった漂着物が転がっている。なにかの骨や海藻の切れ端、謎のプラスチックごみなんかも所々に落ちていて、お世辞にも綺麗な浜とは呼べなかった。

「うん、そうだね、波が色々運んできちゃうからね……」

 先ほど優介が口走っていたことが気になるものの、あまり深掘りされたくはないのだろう。吹雪は慎重に彼の様子を伺いながら一緒に砂浜を歩いた。海を横目に、波打ち際へ二人分の靴跡を残していく。

「これなんの木だろう。ここが根っこの部分かな。見たことない木だ。すごい変なかたちしてる」

 ずいぶんと大きな流木の前で二人は立ち止まった。いびつな形状をしていて、二人してしげしげとそれを観察する。一通り見終わると、次はあの木、次はあれ、と優介は次々に観察対象を指差していく。漂着物の観察、という提案が彼にとってどう転ぶかは分からなかったが、存外楽しんでもらえているようだ。

「あ、この貝殻なんか結構キレイかも。かたちがちゃんと残ってる」

「いいねそれ。ピンク色がかわいい。桜貝かな」

 浜にしゃがみこみ、二人は貝殻探しに夢中になった。細長い巻き貝や縞模様の入っているもの、星のかたちのヒトデの骨など、普段曖昧に見過ごしているだけにそれらが随分と美しいものに思えた。優介は指先で優しく砂を払い、吹雪の手のひらを小さな宝箱のように彩っていく。

「天上院、」

「なに?」

「これは、思っていたよりも、楽しい」

「そう。それはよかった」

 優介は真っ白の貝殻を拾い上げてゆるく微笑む。その笑みに嬉しい気持ちが込み上げてきて、冬の乾いた日差しの中で吹雪は静かに笑い返した。不思議と、水辺にいるというのに寒さをちっとも感じない。穏やかな時間だった。

 片手はすぐ貝殻でいっぱいになり、ぶつかりあってちゃらちゃらと軽く硬質な音を立てる。なにか入れ物を持ってくればよかったね、とお互いにそう呟いた。

 吹雪は立ち上がり、手のひらに集まったそれらをズボンのポケットへ押し込む。

「貝殻はこのへんでもういいや。……あ、見て、藤原。あっち側、ちょっとすごいよ」

「すごいってなにが?」

「シーグラス。たくさん落ちてる」

 優介も立ち上がって吹雪の指した方を向いた。青や緑の光が、波打ち際すれすれに点線を引くように鮮やかに反射している。貝殻ではありえない鮮やかな発色。不思議そうな表情を浮かべて優介を連れて浜を歩いた。

「シーグラスって何」

「元は割れた瓶の破片だったりとか、ただのガラスなんだけど。波に揉まれて角が取れて丸くなったものをそう呼ぶんだ」

「へえ……」

 足元に広がる、無数の青や緑に赤茶色、乳白色。きらきらと色を放つかけらたちが砂浜に投げ出されている。優介はその場にしゃがみこんで膝を抱え、そのうちのひとつを手に取った。

 彼の指先で、海と空を閉じ込めたような青いシーグラスが光に透ける。

「僕はこれ初めて見たよ。綺麗だね。光にかざしたときの柔らかい色がいい」

 海面を経由する太陽光が、そう語る彼の横顔を金色に縁取る。

 美しい光景だった。

 じっと見惚れていると、優介はそれを見抜いたように口を開く。

「どうしたの天上院」

「え、ううん。なんでもないよ。綺麗だなって、それだけさ」

「ふうん。まあ別にいいけど。……天上院は海が好きなんだね」

「そう? そうかな」

 彼は上瞼を伏せて、手のひらに転がしたシーグラスを見つめている。角が取れて丸くなったそれは、もともとがガラスの破片であることを微塵にも感じさせない。本来あったはずの鋭利さはどこにもなく、すっかり摩耗されて優しくくすんでいるだけだ。

「海が好きでなきゃ、足元にこんなのが落ちてるなんて気付かないもの」

「うーん、海は好きだけど、藤原が言うほどでもないと思うんだけどな」

「ううん、そんなことないよ。……僕はアカデミアに来るまでは海なんて来たことがなかったから。こうして授業サボって海辺を歩くなんて、はじめてだし。……さっきは拗ねててごめん」

 優介の緑の髪が潮風に揺れる。彼は指先のシーグラスから視線を外し、首を海へと向けた。よく晴れた彩度の低い冬の海だ。太陽がまだ高くにあるおかげで寒くはなく、海面もスパンコールをまぶしたように乱反射していた。

「連れてきてくれて嬉しい。本音を言えば放ってほしかったけど。……理由なんてないんだ、なんとなく、ひとりになりたくってさ」

 優介は眉を八の字に下げて、困ったように吹雪へ笑いかけた。

 

「でもそんなこと、天上院には本当に関係ないんだろうね」

 

 風と波の音が柔らかく彼を包む。

 春はすぐそこまで来ていて、どうかこれが冬の終わりであってほしいと、そう願わずにはいられなかった。

「……」

 吹雪はどう返していいのか分からず、自身の唇をそっと噤む。最適な言葉が見つからない。自分はいまどんな顔をしているのだろう。彼のこのひりひりした微笑みを、どう受け取っていいか判断できない。

 膝を抱えてしゃがんでいる優介は、砂浜のシーグラスを選別するようにいじっている。

 沈黙を波音が埋め続けてしばらくして、いくつか持って帰ろうかな、と彼は小さく溢した。

「天上院も持って帰る?」

「うん……そうだね……ボクも欲しいな。そうだ、せっかくなら藤原が選んでよ」

「? なんで? どうして僕が選ぶのさ」

「……確かに。なんでだろう。明後日がボクの誕生日だから、かな……」

 えっ、と優介は大きな目を見開いて驚く。

「なんでいま言うんだ! 誕生日だなんて初耳だよ!」

「だって聞かれなかったし、言うタイミングもなかったからさ」

「天上院へのプレゼントがこんな石ころでいいわけないだろ。もっと早くに言ってくれれば色々考えたのに!」

 優介がそこまでぷりぷり怒るのが面白くて、ごめんごめん、と吹雪は軽やかに誤った。当日になれば大々的なアピールをするつもりだったのだが、どうやらそれが裏目に出たらしい。誕生日を教えなくて申し訳ないと思う反面、嬉しくもあった。

「ほら、ボクの名前、吹雪って言うだろう? 冬の終わりの雪の日に生まれたからなんだって」

「ああ、そういうこと! なんで気付かなかったんだ。今度からそういうことはもっと早くに言ってよね!」

 あはは、と吹雪は笑って誤魔化す。これまでの誕生日は毎年家族でお祝いしていたことに加え、小学校の六年間もほとんど同じ顔ぶれで過ごしていたのだ。二月下旬が天上院吹雪の誕生日であることは周知の事実であり、改めて自己紹介の必要性があることをさっぱり失念してしまっていた。

「天上院ってさ、前々から思っていたけど、本当にマイペースだよね。いつもいつも好き放題に振る舞ってさ……ああ、これが自由奔放ってやつか。言えてるよ。実に的確な表現だ……」

 優介はぶつくさと吹雪への不満を垂れ流しながら、砂浜に散らばったシーグラスをかちゃかちゃと漁る。

「はい、選んだよ。これでいいかな」

 吹雪の手のひらに、深い紫色がころんと収められた。

「わ! 綺麗な色!」

「青とか緑とかばっかりだったけど、その色のはいま渡したそれだけしか見当たらなかったから。結構レアなのかもね。天上院にあげるよ」

 吹雪は丸く削れたそれを指先で持ち、光に透かした。青っぽいピンクとも呼べるような、明るく澄んだ紫色のシーグラス。キャンディーやゼリービーンズのような風合いがあり、まるでうたた寝やまどろみを固めたような色だ。吹雪はその色彩に、心の底から幸せな気持ちでいっぱいになった。

「嬉しいなあ。嬉しい。……これ、大切にするよ」

「そんな、たかが石ころだろう。大袈裟だな」

「ううん、そんなことないさ。この紫色が藤原の瞳みたいで綺麗だし、なによりきみが見つけて選んでくれたんだし」

「だって天上院が選べって言うからさ。……ちゃんとした誕生日プレゼントはまた別に用意するからね」

 ふいに、校舎の方向からチャイムが鳴った。授業が終わったらしい。次の授業には出れそうかい、と吹雪が問うと、そうだなあ、出てやってもいいな、と優介は答えた。自室のベッドで丸まっていたときのような、陰鬱で後ろ向きなオーラは払拭されきっている。それどころか普段よりも雰囲気が晴れ晴れとしていて、彼の表情が明るくなっていることが吹雪は嬉しかった。

 海からの潮風に後押しされるように、二人は砂浜を後にする。

 

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