ミモザの福音-#02 さみしさの始点 - 2/2

「だって酷いと思わない!? せっかく戻って来たっていうのに特待生寮に入れてもらえないなんてさ! 融通が効かないんだよクロノス先生は!」

「あの先生は頭が固いところがあるからねぇ」

「だろう!? だから俺は言ってやったのさっ、『傭兵の侵入は許すくせに元の住人が忘れ物を取りにいくのは許されないんですか』って!」

 三人は駅前近くの居酒屋に来ていた。壁一面に手書きのメニューが並び、時代を感じるビールのポスターが色褪せたまま貼られている。案外大衆的な店に連れて来られたことに優介は驚いていたが、特別気を遣ったわけではない。吹雪は単に庶民派なだけであった。

 座敷席のテーブルには食べかけのおつまみが並び、その隙間を埋めるように空になったグラスがいくつも置かれている。日本酒に合うからと店員に薦められるままに亮が頼んだチーズ盛り合わせへ目をやると、全く手付かずのままだった。優介も食べないだろうし、と吹雪はそれを皿ごと預かる。

「……藤原、食べる?」

「いや、いい」

 一瞬目が合うがすぐに逸らされた。二人とも苦手なら頼まなきゃいいのに、とクリームチーズをクラッカーへよそいながら吹雪は考える。隣で優介はグラスを煽り、残っていたカシスオレンジを飲み干した。顔はほんのりと赤く、目線がふわふわしている。

「藤原、目が据わってるぞ。飲み過ぎだ」

 亮はそう言いながら、空になった皿やコップをガチャガチャとやや雑な手つきで机の端へ寄せた。普段の彼ならばもっと細やかな所作で片付けるだろうに、とでも言いたげに優介は少し意外そうな顔をする。亮はもうただの優等生をやめてから随分経つのだが、交流が断絶していた優介にとっては予想外だったのだろう。

「なんだよ、そう言う亮だって酔ってるだろ。全然顔色変わってないから自信はないけど」

 飲み始めてからそろそろ一時間が経とうとしているが、亮の顔色は全く変わっていない。平常時と同じ血色のまま、一定のペースで日本酒をちびりちびりと飲み続けていた。亮はつまみをほとんど食べずに酒だけ飲み続ける、お世辞にも体良いとは言えないだろう飲み方をするのだ。けれど少なからず酔いが回っているのは事実で、吹雪は亮の酔っ払い度合いの見分け方をよく知っていた。こっそりと、あえてわざとらしい仕草で、隣の優介へ耳打ちする。

「藤原、実はね。亮は酔うと機嫌が良くなって口角が上がるんだよ。ほら見てごらん亮の口元。店に入ってきたときより二度くらい上がってるだろう」

「……ほんとだ!」

 亮の顔面を凝視したのち、優介と一緒になって吹雪はけらけらと笑う。笑われている亮自身もまんざらではないようで、やりとりの懐かしさに浸っているのか更に頬が緩んだ。その一瞬を吹雪は見逃さない。

「あっほら、いまもう一度くらい上がったネ! いつもよりもニコニコしてて笑顔が素敵だよ亮☆ うーんその表情、惚れちゃいそうだ☆」

「語尾に星を飛ばすのをやめろ吹雪。……フッ、そうか。俺はそんなに機嫌が良さそうに見えるか」

「もうニッコニコだよ。きみと一緒にお酒飲むのは今までもあったけど、今日は今までで一番の素敵な笑顔だ」

 きっと優介が来ているからだろう。こうして三人で集まること自体が四年ぶりになるのだ、楽しくないわけがない。これまで空白になっていた三人の物語を、こうして少しずつ埋めていきたいなと吹雪は内心で呟く。会うのが久しぶりすぎて優介が場の空気に乗れないんじゃないか、などといった心配事は杞憂だった。少なくとも吹雪の目に優介は──アルコールに酔っていることはさておき──空白が始まる前の、ただの藤原優介のままに見えた。それに気付いた吹雪は心のどこかで安堵する。学生時代と変わらない、紫色の大きな猫目。細いアーチ眉を柔和に下げて喋る様子はどこか中性的な魅力があって、彼の繊細で華奢な横顔を眺めるのが吹雪は好きだった。優介はグラスの結露で濡れた指をおしぼりで拭き取りながら話す。

「亮は俺が知らないあいだに結構笑うようになったんだね。プロ時代の映像も見たんだけど、なんていうか、雰囲気が……そのころよりも丸くなった。きみだけうんと大人になったみたいだ。酔ってるとはいえそんなに笑うなんて意外だよ。ほんとに楽しそうだ」

「大人か。ひとに言われるほど大人にはなれていないがな。大人であろうとしてるだけのただの子供だよ、俺たちは。フ……でも、そうか。そうだな。楽しそうか。俺は。…………楽しいな……」

 亮はお猪口の中の日本酒をぐっと喉へ流し入れる。徳利から次を注ごうとしたが中身は空のようで、おまけのような雫しか出てこなかった。それを見た藤原が気を利かせて店員を呼ぶ。

「すいません、このへんのお皿下げちゃってください。あとカシオレもう一つください」

「ボクはハイボールもういっこ追加で。亮は?」

「俺はもういい。お前たちも飲み過ぎだぞ。申し訳ないがいまの注文はキャンセルだ。代わりに人数分の水を頼む」

 えぇ、と優介が不服そうな顔をする。彼は皿や空いたグラスを抱えて去る店員を尻目に、テーブルに残ったままの野菜サラダをつまらなさそうに頬張った。すぐに店員が戻ってきて、三人分の水が置かれる。

「水なんか別にいいのに」

「お前は今日はじめて酒を飲むんだろう。ペースを知らないやつが無茶をするんじゃない」

「固いこと言わないでよ。俺は成人してるのに真面目に高校生やってたんだよ? 今日くらい自由にさせてくれたっていいじゃないか」

「だめだ。そうやって若者は道を踏み外すんだ」

「若者も何も同い年だろうボクたち」

 二人の言い合いを眺めながら吹雪は自分のハイボールを飲む。食べるのに夢中で酒がおろそかになりがちなのは自分の悪い癖だ。酒を楽しむならとことん本気で、が最近の吹雪のモットーだった。ジョッキの中身はすっかり氷が溶けて、アルコールが薄くなってしまっている。炭酸も抜け気味で、酒の一番おいしいタイミングはとっくに終わってしまっているようだ。最後の一口をぐっと流し込み、吹雪は二人の顔を見て言う。

「そろそろお開きにするかい」

「賛成だ。これ以上藤原に酒を飲ませてはいけない」

「なんだよ二人とも! ケチ! 俺はまだ飲める! 飲め……うっ」

 抗議のためにテーブルへ身を乗り出した瞬間、優介はぐらりと体勢を崩した。吹雪は咄嗟に彼を支えようと手を伸ばす。彼の目線はぐるぐると定まらず、どうやら本人も知らないうちに限界値に達していたらしい。

「ほら藤原。飲み過ぎだってボクもそう思うよ。このあたりでやめておこうよ」

「う〜……頭ぐらぐらする……」

「ハイペースで飲むから酔うんだよ」

「よってない……」

「それを酔ってるって言うんだよネ。これから覚えていこうか」

「うぅ……」

 吹雪は優介を支え、もう片方の手で背中をさする。急に酔いが襲ってきたのだろう、彼の体は徐々に斜めになっていき、そのまま床へ寝転が寝転がった。ぐんにゃりしていて芯が入っていない猫みたいだ。亮は冷ややかな目つきで優介を見つめている。呆れた様子でため息をつくが、そこにはささやかながら慈愛めいた感情が吹き込まれていた。亮は弱々しくうめき声を挙げる優介へ一瞬微笑みを投げ、手早く店員を呼び会計用の伝票を貰う。

「ここは俺が出そう」

「えっいいよ亮が出さなくても。ボクが出す」

「いや、払わせてくれ。久々に藤原と話せて楽しかったんだ。吹雪、呼んでくれてありがとう」

 亮は自分の荷物をまとめ、スプリングコートを羽織る。物音に気付いたのか、床でダウンしていた優介がふいに顔を上げた。

「俺は…? おれもちょっとだす……」

「今回は奢られておけ。それに俺のところで縁故採用されてくれるんだろう? 旧知の仲として歓迎してやるから、いつでも待ってる。……いや、むしろ俺のほうからスカウトしたいくらいだな。とにかく一度、落ち着いたら俺の事務所へ来い」

 倒れている優介に亮は優しく声をかけ、水を差し出した。うぅ、と小さく声を発しながら優介は体を起こしてそれを受け取り、ぐったりした表情でそれを嫌そうに飲む。

「あっそうだ亮。今日はウチ来ないのかな?」

「ああ。お前のところに入り浸っていると、エドがあまりいい顔をしないんだ翔にも怒られたばかりだし」

「そっか、残念」

「吹雪、悪いがそこの酔っ払いを持って帰っておけ」

「言われなくてもそのつもりだよ」

「おれはよっぱらいじゃない……」

 じゃあな、と亮は涼やかに言い残し、亮は座る席から去った。伝票を持っていったので会計は亮に任せることにした。優介は一口ずつ水を飲んでいる。気持ち悪そうだが、吐くほど酷くはないようだ。

「ソレ飲み終わったら出ようか」

「うん……」

 吹雪はぼんやり空中を見つめながら優介の背中をさする。正面の席にはついさっきまで亮が座っていた。三人で集まれて楽しかったのは吹雪も同じだ。だが、こうして居なくなってみると取り止めのない寂寥感が霧のように心を満たしてくる。あの楽しさを永遠に続けていたかった。

「……吹雪、もういい。水は飲んだ」

「あ、落ち着いた? なら出よう」

 優介が手にしたグラスは既に空になっている。案外復活が早かったな、と吹雪は感じながら、二人分の荷物をまとめた。春用のコートを羽織り、足元のふらつきに注意しながら店を出る。

 駅前は色とりどりのネオンサインで華やかに彩られている。デュエルアカデミアの島には無い、目が眩むような電気の街。蛍光ピンク、蛍光イエロー、蛍光ブルー。カラオケ、居酒屋、ガールズバー。様々な色と言葉を素通りしながら、二人はぽつりぽつりと道を歩いた。

 繁華街を抜け、住宅街に差し掛かる。吹雪の借りたマンションは亮の事務所との近さを優先したため、駅から少し離れている。だが歩けない距離ではないし、吹雪は自分が遠出するときは車を出しているのだ。駅からの距離はそこまで問題ではない。

 夜風が少し火照った肌に心地いい。歩くうちにアルコールが抜けてきたのか、優介の顔色も次第に戻ってきていた。耳の端や頬、鼻先にはまだチークをはたいたような赤みが差している。道中、気付くと電飾看板の類は消え、街灯だけが無骨に並んでいた。明かりはこの街灯と、夜空に浮かぶ満月だけ。吹雪はおもむろにその白い正円を指差す。

「見て藤原。今日は満月だよ」

「ん? あぁ、そうだな……。綺麗だ」

 ぼんやりとした表情で優介は受け応える。酔いが残っていると言うより、きっとこれは眠気だろう。それでも、同じものを見て同じ気持ちになったことが嬉しかった。吹雪の頬は無意識に緩む。

「……そういえば俺、月がふたつに重なって見えちゃうんだよね。実はちょっとだけ乱視で」

「え、そうなの? それは知らなかったな」

「この程度なら裸眼でも問題ないし。それにいちいち言うほどのことでもない」

「まあ、そりゃあ」

 眠い目を擦りながら歩く優介の横で、吹雪は表情をしゅんと曇らせた。吹雪の視力は両目とも2.0で、見えづらかったことなど一度もない。月がブレて見えるということは、きっと月の表面の細やかな模様などは優介には見えてないのだろう。ただの白く光る円にしか見えていないのかもしれない。彼と同じ視界を共有できていないことが、さみしさとなって吹雪のこころに穴を開ける。

「そういえば眼鏡とかはしないの?」

「するよ。吹雪や亮といたころは掛けてなかったけど、案外文字が見えづらくって不便だなと最近思って。目が悪くなったのかな。アカデミアの授業はスクリーンや大画面の液晶なんかをよく使うだろ。それで気付いてさ。だから授業中は眼鏡してた」

「フーン……。それってさァ、本当に授業中だけ?」

「あー、そうだな……。映画のスクリーンなんかはどうなのかってこと? 行くときは眼鏡するかもしれないな」

「じゃあ今度誘うね」

「はは、なんだよそれ。俺が眼鏡掛けたとこ見たいだけだろ。そんなのいつでも見せてあげるよ? 吹雪が満足するまで好きなだけさ」

「それとこれとは話が違うんだよ。見せびらかされるのと、自然体なときにチラ見するのとは違う。きみが眼鏡をかけて映画館のスクリーンを見つめてる、その横顔をボクが盗み見る、そういうのがイイんじゃないか。だから、どっちにしろ映画は誘うよ」

「あはは……。またスゴイことを言うな吹雪は。もう、きみの好きにしたらいいよ」

 優介は指先で頬を掻き、困ったように笑った。

 二人は人気のない住宅街を歩く。路側帯は狭く、もうほとんど車道にはみ出てしまっている。「この時間帯なら車もあまり通らないだろうね」と優介は、上機嫌に笑いながら車道の真ん中へ躍り出た。スプリングコートの裾が円を描いて広がる。くるり、と体を翻し、彼は白銀色の月光を背負いながら吹雪に笑いかけた。

「ねえ吹雪、……いまの話、デートの申し込みみたいだね」

「え?」

「だって、俺が映画見てるのを横で眺めていたいだなんて。どう考えてもデートのシチュエーションだろ」

「う……」

 口を滑らせてしまった悔しさに吹雪は閉口した。思ったことをそのまま言ったのはいつも通りで、他の人々と接するのと同じように振る舞っているつもりなのだがどうも優介が相手だと違うらしい。掛けられたことのない返し技だ。

 酒がだいぶ抜けたとはいえまだほろ酔いが続いているのか、優介は口調も足取りもどこか浮ついている。踊るように車道でステップを踏み、オリーブ色の長髪がふわふわと宙を舞う。彼は聞き覚えのある曲のサビ部分だけを繰り返し口遊んでいた。白い月光を浴びる彼の姿は美しく、いまなら腕を伸ばして捕まえて、手のひらに閉じ込めることさえできてしまいそうだ。この手で捕まえて、もうどこにも行かないように。

 吹雪は心なしか自分の顔が熱くなったような気がして、十中八九アルコールが今更回ってきたに違いないのだとかぶりを振る。優介の頭上に天使のような光輪が見えたのも、神秘的な月明かりとアルコールによる幻覚のはずだ。

「きみが映画を見てる横顔を見たいっていうのは本当だけど……デートの申し込みでは……ないよ! 断じて違う!」

「ほんとに? 嘘くさいなあ。言い回しが完全にデートのお誘いだったもの。そんなヘマするかなあ、恋の魔術師、愛の伝道師を自称する“あの天上院吹雪”が?」

「もう、見たい映画があれば一緒に行きたいねって、それだけの話じゃないか! 親友を遊びに誘ってるだけで、ほんとにデートの誘いじゃあないんだよ、けっして!」

 にやにやと優介が顔を覗き込んでくる。さては酔うと調子に乗って気が大きくなるタイプか。やましいことは何もないはずなのに、根拠不明の恥ずかしさが尋常ではないのはどうしてだろう。

 優介はわざと吹雪の進路を邪魔するように立ち塞がってくる。彼もまだ酔いが続いているんだろう。だからこれらのやりとりはすべてアルコールのせいで、本心から来るものではない。吹雪はたまらない気持ちになり、彼の探るような目線を振り払って自宅の方向へと走り出した。

「あっ、こら吹雪! 逃げるんじゃない!」

「うるさいよもう! ボクのことはほっといてくれ!」

「わかった、わかったから! そういうことにしてあげるからさ! 走らないでよ、俺まだ道覚えてないんだよ!」

夜の住宅街を走り抜ける。自宅はもうすぐそこだ。これからこんな日々がずっと続いていけばいい。優介にからかわれるのも、本当のところはそんなに嫌とは感じていなかった。

 
 
 


「ミモザの福音」
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1〜3章は全文サンプル公開中。それぞれ独立した話としても読めます。
#01 漂泊者たちの寄る辺 / #02 さみしさの始点 / #03 再訪のジュブナイル