午前十時のユウレイクラゲ(初稿版)

 記憶がある。

 十年ほど前、まだ小学校にも上がる前のこと。母に連れられて見た水槽はどれも大きく、広く、青く澄んでいた。館内全体が薄暗く照明を落とした造りになっているのもあり、まるで自分たちが海底を歩いているような心地だった。母と手を繋いで順路を辿る。四角く切り取られた海と、膨大な数と種類の魚たち。その日の季節は夏だったように思う。冷房がよく効いていて、繋いだ手から見上げた母を松明のように感じていた。

 館内のエリアの隅に、それはぽつりと置かれていた。クラゲの水槽。いまでこそクラゲといえばどこの水族館でも意匠を凝らして飾られるものになったが、昔はそうではなかった。魚類ではないし、アザラシやペンギンのように可愛らしい生物でもない。要するに、どう展示するか迷走していたのだ。ゆえに、ひとまず箱に入れるだけ入れて、キャプションを付けるだけ付けた、と。そういった、いかにも突貫工事の水槽だった。置かれたエリアも隅の隅だったし、さほどやる気もなかったのだろう。

「一匹しかいないのねえ」

 当時の幼い体躯でも十分持てそうな、小さな水槽。一匹のクラゲが、水の流れに沿ってふわふわと浮いていた。母はその水槽を見て、「少し寂しそうね」と言った。

「さみしそう?」

「そうねえ。一匹しかいないし、……こんな隅っこじゃ、見てもらえないじゃない。順平はまだ見たことないけどね、海のクラゲってけっこう綺麗なのよ。思わず触りたくなるくらい。……触っちゃ駄目なんだけどね」

「……ふうん」

 母が言ったことにいまいちイメージが湧かず、つい生返事をしてしまう。が、水槽をよく見れば、なるほど確かに『触りたくなるくらい綺麗』かもしれなかった。

「こんな僻地じゃなくってさ、クラゲって綺麗なんですよーってみんなに見てもらえるような、そういうふうにしたらいいのにねえ」

 遠い目をしながら母はそう言い、優しく手を引いて次の順路へと向かった。

 いま思えばそれは。

 母が僕へ見せた、小さなエゴだったのだろう。

 

***

 

「珍しいよな、順平が映画じゃなくて水族館って」

 午前十時。開場したばかりの水族館はまだ人がまばらで、薄暗い館内はほとんど人の気配がしない。悠仁はチケットの半券をポケットへ捻じ込みながら、順平の後へついていく。

 見てほしいものがある、と順平が言ったためだ。提案された時間帯は朝早かったが、人混みの中で見るもんじゃないよ、と順平が強く推したせいだ。普段順平と出かけるときは映画館がほとんどなのだが、わざわざ水族館を提示してくるのにはそれなりの訳があるのだろう。

「悠仁、悠仁。こっちだよ」

 暗がりで順平は悠仁を呼ぶ。背後に並ぶ水槽たちを背負って、白っぽいシャツもどこか青く染まっていた。髪の毛先も照明に透けている。順路はこっち、と呼ぶ声色は穏やかで、悠仁は何も言えないままに暗い通路を歩く。

 順平は早足で、いくつもの水槽を通り過ぎていく。こいつら見なくていいのかよ、と悠仁は話しかけようとするが、順平が無言のままでいることにどうにも実感が湧かず、きっとあえてそうしている理由があるのだろう、と発言を飲み込んだ。

 イワシの群れも。小さなサメも。ウミヘビも。珊瑚も。ペンギンも。

 通り過ぎていく最中、他の客とはひちりもすれ違わなかった。偶然なのか、館内スタッフさえ一人も見なかった。チケットは券売機になっており無人だったが、そういえばいつもぎってもらったのか記憶がない。悠仁は無意識にポケットの表面を撫でる。かさり、と紙と布が擦れる感触がして、小さく息を吐いた。

「着いたよ悠仁」

 順平が水槽の前で立ち止まった。悠仁ははたと顔を上げる。

「……順平」

「悠仁に、見てほしくて。頑張って思い出したんだよ」

「クラゲだ」

 天井から床までを貫く、壁いっぱいに広がった巨大な水槽。無数のクラゲは白っぽく透明なせいで、青色の照明が冴え冴えと透けていた。浮いては沈み、沈んでは浮かぶ。そこに生き物としての自由意志は存在しない。ただ水の流れに押し流されるままに浮遊している。

「雪とか桜とかさ、上から降ってくるものって綺麗に思えるよね。星、も、そうかな。だから、僕が自由に演出できるならこういうものを作ってみたくって」

 水槽を見上げる悠仁の隣で、順平もまた同じように水槽を見上げながら語りかけた。どうかな、とゆっくり悠仁へ目線が合わせられる。照明で青く透けた髪、青白い肌。黒い瞳だけが以前となにも変わっていない。

「……順平ってさ。もしかして映画監督とかになりたかった?」

「……誰にも言ったこと、ないんだけどね。いつか撮ってみたいなって思ってたよ」

 せめて一本くらいね。と順平ははにかんで、水槽のガラスに手を当てた。一瞬、分厚いガラスと皮膚との境い目がぐじゃりと溶ける。が、それも気のせいだったのか、まばたきの直後には元の輪郭に戻っていた。

「頑張って思い出したんだ。僕が綺麗だなあって思ったものを。……だって後味悪いだろ。あんなブツ切りのエンディングなんてさ」

 長い前髪のせいで、いま順平が表情をしているのか悠仁は見ることができない。手持ち無沙汰で、なんとなく自分も同じようにガラスへと手を当てた。ひんやりと硬い感触。

「──ッ!?」

 ずぶ、と手がガラスを貫通し、水槽へ飲み込まれていく。突然の異常事態に悠仁は混乱するが、触れた先の水が熱くも冷たくもない穏やかで心地よい温度だったせいで意識はすうっと澄み渡っていく。

「せめてエンドロールくらいはどうにか後味を付けたくて。おまけだよ。蛇足かもしれない。ほら、エンドロールを見ない人って絶対居るしさ。……でも、悠仁には、見てほしかった、から」

 通路と水槽を隔てていたガラスが完全に溶けた。水もクラゲも一気にこちらへ流れ込んで来て、悠仁は押し流されまいと踏ん張るがすぐに足を取られてしまう。雪崩のような勢いにも関わらず順平はその場に立ったままで、そこでやっと、これが夢であることに気付いた。

「順平──これ、もしかしておまえの」

「ああ、もう限界みたいだ。悠仁、ありがとう、ごめん。何にも言わなくていいよ。何も答えなくていい。せめて綺麗だったなって感想で終わりたいんだ」
 悠仁は激流に流されていく。暗がりに立ち尽くしたままの順平がどんどん遠ざかる。なのに声だけははっきり聞こえていて、なんて都合のいい夢だろうと奥歯を噛んだ。

「悠仁。……僕も悠仁のこと、絶対呪わないからね」

「順──」

 口に水が入り込む。水流に飲まれて視界が沈む。上下左右がわからなくなる。順平の姿は、もう見えない。

 

***

 

 記憶がある。

 死んだ人は心の中で生き続ける、なんて嘘っぱちだと思う。死んだらそこでおしまいなのだ。おしまいで、おわりで、続きはない。

「生きるってなんだろうなあ」

「俺に聞くかよ」

「だって俺よりも伏黒のほうがずっと頭いいしさ」

「知るか。そんなん一言で答えれる話じゃない」

 ──あれは。

 吉野順平の残穢が作り出した不完全な生得領域だった、と悠仁は五条から教えられた。呪術師として半覚醒した彼なら、呪力を無意識にコントロールしててもおかしくはないと。ただ、紛い物とはいえど残穢だけで生得領域を生み出せるのは才能だ、とも語っていた。

「なに陰気な話してんのよ。ほら、乗り換えもうすぐ来るわよ。田舎の電車は本数少ないんだから」

「あーあー知ってるよそれくらい」

 野薔薇に急かされ、悠仁と恵はベンチから立ち上がった。ホームに電車が参ります、とアナウンスがかかる。こうして三人で行動するのは数ヶ月ぶりだったが、意外にもすんなり以前の空気感を取り戻すことができた。

「……釘崎はさあ、生きるってなんだと思う」

 悠仁は電車のドア位置を示した印の前に立つ。野薔薇は少し考え、毅然と前を向いた。

「そんなの決まってるじゃない」

 数秒後、轟音と共に列車がホームへと滑り込んだ。窓、窓、窓。それはゆっくりと速度を落とし、三人の前でドアが開いた。

「覚えておくことよ」

 

 ──虎杖悠仁には、吉野順平の、記憶だけが残っている。

 
 
 


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