右手でタバコをくわえ、ポケットからライターを取り出し、点火して一呼吸目。伊藤は白く濁った煙を吐きながら、コンビニの裏手口の壁にもたれかかる。寒さで白くなる息とは違う、不透明で淀んだ白。片腕だけで生活するのにもずいぶん慣れてしまった。もう三ヶ月近くになる。
左腕が動かなくなった後も、タバコをやめる気にはならなかった。無論、監視とまではいかないものの要注意人物としてマークされている身だ、これまでのように白昼堂々の喫煙は叶わない。こうして夜中に隠れてこそこそ吸うのがお似合いだと、かつての同級生はそう馬鹿にしてくるだろうか。
伊藤はぼうっと空を見上げ、腹が立つほど完璧な満月に向かって煙を吹き掛けた。白く発光する、丸い月。視界がもやもやと煙で埋まっていく。
「あのさ」
ふ、と思考の外から声がした。どうやら自分に呼びかけているらしい、と伊藤は視線を下ろす。
「聞きたいことあんだけど」
「あ? 誰だよオマエ」
コンビニの明かりの下に何者かが立っていた。見たことのない顔だ。赤いフードを目深にかぶってはいるが、 自分と同じくらいの歳の少年だとわかる。左右の手はどちらもポケットに突っ込まれていて、だいぶ横柄な態度だ。やけに目つきが鋭く、フードの影が落ちているにも関わらず眼光はしっかりとこちらを捉えている。伊藤は眉根を寄せ、目の前の不審人物から逃げる準備をした。
「誰だっていーだろ。それよりさ、俺アンタに聞きたいことあんだよね」
少年がこちらに近づいてくる。伊藤はタバコを右手指で挟み、吸うための持ち方から武器として扱うための持ち方へ変えた。ポケットにはライターだけでなく折りたたみナイフもしまわれている。出番がないのが一番だが、いざとなれば応戦するのもやぶさかではない。
「──吉野順平。知ってるよな?」
「……は?」
予想だにしなかった単語に伊藤は硬直し、指からタバコを落としそうになる。少年はフードからこちらを静かに覗き込み、呆然とする伊藤へ畳み掛けた。
「アンタと順平がどういう関係だったのかは知らないし、詮索するつもりもねーけどよ。俺、探してんだよね。順平が残してったものとかさ。ちゃんと思い出して、知っておかなきゃいけないなって思って。強くなるには知るのが一番手っ取り早いって五条先生が言ってたし」
両手をポケットに突っ込んだまま少年は淡々と続ける。だが何を言っているのか大半が理解できず、伊藤はなんとなく目をそらした。コンビニの明かり、蛍光灯の内側には羽虫の死骸が黒く溜まっている。
「アンタからは順平の気配がすげー臭うんだよな。なあ、知ってんだろ? ──吉野順平のこと。どんな顔で、どんなふうに喋るやつだったか」
伊藤の動かない左腕が瞬間的にずきりと痛んだ。おそろしく冷静な声色。どこか狂気じみているそれは、青い炎のようにまっすぐと立ち昇り伊藤へと向けられている。ふいに、ぐらりと酸欠のような感覚に見舞われ、伊藤は少年をきつく睨み返した。
「──知るわけねえだろ! あんなやつ、いまさらなんだってんだよ……! 俺はもうあんなやつとは関係ないんだよ! オマエこそ、あいつのなんなんだよ……!」
脳裏にあの同級生の姿がよぎる。動かない左腕を作った元凶。あいつと関わったせいで自分の人生がすべて狂ったのだ。転校していったのも向こうが勝手に決めたことで、自分はもう一切関係がない。
伊藤の吠えごとを聞いた赤いフードの少年はしばらく考え、しんと沈黙が訪れる。十秒ののち、少年はそうっと掬い取るように言葉を取り出した。
「──友達に、なれそうだったやつ」
なんの色も含まれない澄んだ声。おそらく少年が述べたのは事実で、嘘はひとかけらもないのだろう。
「……は。ンだよ、意味わかんねえ……」
実在性を疑うほどに透明な感情を目の当たりにし、伊藤は右手のタバコを咥え直して深く煙を吐く。問答につきあっていたせいでタバコは随分短くなっていた。友達になれそうだった、というのなら、友達ではなかったのだろう。ではなぜ自分はいまさらあの同級生について問われているのか。伊藤は至極鬱陶しそうに少年を睨み、吐き捨てるように少年に言った。
「もう帰れよ。俺はあんなやつのことなんて知らねえし、仮に知ってたとしても喋る気はない。だいたい誰だよオマエ。初対面のヤツには名乗れっつーの」
それもそうだな、とフードの下の顔がピンと来たように開き直る。
「あー、悪ぃ。変なこと聞いて悪かった。そもそも俺の都合だもん。もういいわ、話す気もないみてーだし」
やめとけってナナミンにも言われたしなあ、と少年は首筋を掻く。その動作の最中に一瞬、手の甲になにか生き物の目と口ようなものが見えた気がしたが、見間違いに決まっていると伊藤は頭を振った。
「……突然話しかけてきたくせに、やけにあっさりしてんな」
「まあね。俺、切り替え早いってよく言われる」
少年は伊藤に背を向け、そのまま闇夜へと姿を消した。たった数分間の会話なのに、なぜこんなに全身が怠いのか。伊藤は短くなってもう吸えなくなったタバコを地面に落とし、腹いせにぎりぎりと踏み潰す。
***
五条悟が封印されて三ヶ月が経った。『最強』の絶対的な柱を失っても、世界は順調に朝と夜を繰り返している。『最強』は世界を必要としていたが、世界は『最強』を必要としているわけではない。それもそのはず、五条悟という存在を知らずにのうのうと生きる猿どものほうが大多数(マジョリティー)なのだから。
「きみに聞きたいことがあるんだよね」
真人は目の前の男に指を一本突きつけた。散々のたうち周り喚き散らしていた動きがぴたりと止まる。その調子で息も一緒に止まったら面白いだろうに。でもまだ死なれては困るからなあ、と呟くのは内心に留めておく。
「虎杖悠仁を殺したいんだよね。『最強』不在のいま、あとは宿儺をこちら側にひきこむだけ。そうすれば俺たちの勝ちなんだけど、案外思う通りにいかなくてね。向こうだって対策してくるだろうし。いまごろレベルアップに必死だろうね」
喋りながら真人の表情はころころと変わり、鈍色の髪も楽しそうに揺れる。 傍目には成人男性のように見えるのに、語気や醸し出される雰囲気は幼子そのもののようだ。
「きみに聞きたいのは他でもない。虎杖悠仁とどこで接触したんだい? 宿儺の残穢もはっきり染み付いているし……なにより、順平の痕跡をこんなにくっきり残してるなんて」
真人は男の左腕に指先を当て、つう、と輪郭をなぞり上げる。ぞくぞくと悪寒が走るのか、男の表情が醜く歪むのを見て真人は満足げに口角と目尻を吊り上げて笑った。男は拘束をぬけだそうともがくが、真人は変形させた腕をより強く押し当てて動きを封じる。
「あ、そっちの腕やっぱ動かないんだ? へえ。そういえば順平がなにか言ってたような気がするなあ、なんだっけ? うーん、えっと、イトウ、だったかな。もしかしてアンタがそのイトウだったりする? ねえ。だとしたら僥倖だ」
呻き続ける男の顔をじっと覗き込む。感情が恐怖で満たされているほど、魂は読み取りやすい。嘘がないからだ。左右で色の違う瞳でじっくり見定め、真人はふっと表情筋を緩めた。
「……ビンゴだね。ふうん、なら十二分に知ってるってことだ。虎杖悠仁だけでなく、吉野順平についても」
男の呻きが一層強くなる。 やかましさに真人は心底嫌悪感を示し、手指を変形させた肉を男の口でねじ込んだ。
「虎杖悠仁をより確実に殺すために必要なんだ。吉野順平の情報が」
おもちゃ箱から目当てのぬいぐるみを手探るように、真人は男の魂へ無遠慮に侵入する。
「まず、どんな顔で、どんなふうに喋ってたかな。順平は」