《深海さんの容態の回復を待ってから詳しい事情を聴く、と事務所側は発表しています。ところで四階から転落しても助かったのは何故なんでしょうか? 電話が……大学の……教授と繋がっています》
ベランダから落ちた先が植え込みだったこと、すぐに救急車が呼ばれたこと、応急処置が適切だったこと、などが要因として挙げられていく。
丸一年間行方不明だったタレントがマンションから転落し、重症ではあったが奇跡的に一命をとりとめたニュースは大々的に取り上げられた。中には、転落したのは事故ではなく自殺のためだったのではないかという声もあった。だが、その場に居合わせた人物がそれを強く否定した。育ちすぎた植物の蔓を処理しようとして柵に足をかけ、あやまって転落したのだ、と。
ほかに事件らしい証拠も発見されなかったことで、この一連のニュースは終息を迎える。
——考えてみれば自分は海の生き物なのだから、空を飛べるはずがないのだ。
複数ヵ所の骨折と打撲。および、貧血と栄養失調、抑うつ状態から来る異食症と夢遊病。足の骨が折れているのだから脱走は不可能だろうと、通常通りの個室へ入院となった。
奏汰はぽたりぽたりと滴る点滴液をぼうっと見上げる。体は重く、あちこちに様々な種類の痛みが走った。鈍いものと鋭いもの、そのほかに名状しがたい種類の痛みも。だが、以前と比べてはるかに生きている心地がした。
「かおる、ごめんなさい。『めいわく』かけてしまって」
「いいよ、奏汰くんは気にしないで。迷惑だとか、俺は少しも思ってないよ」
ベッドの傍らに座る薫は、奏汰の頭を〝いいこいいこ〟をするように優しく撫でた。
「そりゃあ、朔間さんから電話かかってきたときはビックリしたけどね? あの人電話かけれたんだ、ってまず驚いたし。すっごい慌ててたから朔間さんらしくないなって思ったらあの有様だよ? 朔間さんまで事故りそうになるとかやめてほしいよね〜ホント」
軽く、明るい口調で薫はほとんど意味のない愚痴を吐く。一年前、いや、高校生だったときから変わらない喋り方に、奏汰は安心した。
(ああ、かおるだ)
「いやでも、早く帰ってこれてよかったよ。飛行機のチケットもタイミングよく取れたし……」
考えてたのよりずっと元気そうでよかった。と薫ははにかんだ。奏汰はそれになぜか気恥ずかしくなり、一瞬口をつぐむ。ドジをして花瓶を割ったことを隠す子供のように、申し訳なさが表情や目線のすべてに現れていた。
「さいしょに『いちねんかん』って『せんげん』してたのに、ぼくのせいで『きこく』を『はやめる』ことになってしまって……ぼくがもっと、『しっかり』していれば」
「そうじゃないよ。俺はね、奏汰くんのせいで、じゃなくて、奏汰くんのために、戻ってきたの」
「ぼくのため?」
薫が奏汰の前髪を手で梳くたびに、表情筋のこわばりが解けて頬が緩んでいく。
「そういうこと。……それにあっちでの俺の役目もそろそろ終わりってとこだったし、けっこう退屈だったんだよね~、社交パーティーばっかりでさ。あっ、遊んでたわけじゃないよ? それに、歌のレッスンも身になったと思うし、充実してた。聞いてよ奏汰くん、コーチがさ」
「かおる、」
「うん?」
奏汰は薫に、もっと近くに来るようアイコンタクトで呼び掛けた。薫は椅子ごとベッドへ近づくが、奏汰は〝まだ距離が遠い〟ともう一度視線を投げる。やれやれ、とどこか嬉しそうに薫は一度立ち上がり、奏汰の枕のすぐ横に顎を乗せた。
「なーに?」
「ぼく、さみしかったです」
顔を薫のほうへ傾ける。全身包帯とギプスと痛みとで拘束されていても、首だけはどうにか動かせた。
こんなに近くに薫がいるのはいつぶりだろう。
「……さみしがらせちゃって、ごめん」
薫の透き通る金髪も、金髪の奥の目が伏せられているのも、その瞳が震えているのも、この近さからなら全部わかった。自分の体ぜんぶが薫でいっぱいになっていく。
(かおる、ぼく、いいたいことが『たくさん』あって)
うまくまとまらないまま薫を見つめていると、それらはふいに、堰を切ったように目尻から溢れだした。
「さみしかった。あいたかった。ごめんなさい」
ようやく探り出せたのはあまりにも拙い言葉たちで、だがそれを聞いた薫も、今まで我慢していたことが一斉に押し寄せたように瞳を潤ませる。奏汰の点滴が繋がれていないほうの腕を、そっと柔らかく包んだ。
「俺だって謝らせてよ。さみしがるだろうなって分かってて置き去りにしたんだから。俺が、悪かったよ」
「ううん、ちがうんです。『かおる』は、わるくない。『ぼく』がわるかったんです」
薫は目元をぐずぐずにしながら、溜まっていたものを一斉に吐き出す。奏汰はそこでようやく、薫の目の下が疲労の色に染まっていることに気づいた。
「奏汰くんが大事で、いなくなってほしくなかった。去年から色々、よくないことが重なってて、俺も余裕なくって……。言い訳がましくなるけど本当なんだ。留守番頼んだのも俺のわがままだよ。俺のわがままで、家に閉じ込めてた。こんなことになるなんて、考えて、なかった……。俺が、悪いよ」
「いいんです、かおる。……ぼくは、すきで『おるすばん』してたんです」
鼻をすする音を残して二人は無言になる。薫はベッド脇のティッシュをつまみとり、身動きのとれない奏汰の代わりに顔を拭った。薫も洟をかむ。二人して感情を吐露し疲れ、ゆるやかな沈黙が訪れた。
——点滴液が垂れる雫の音がする。水平線のような静寂はおだやかで、やさしくて、ここちよくて、適度ないたみがあった。この静寂の意味を知るために生きてきたのだと、そう言っても過言ではないように思えた。
「……こんなこと改めて言うのも、変なんだけど」
薫は平静を装いながら窓のほうへ歩き、ゆっくりとカーテンを開けた。病室に光が満ち、部屋がわずかに明るくなる。奏汰は眩しさに目を細めた。
「俺ね、奏汰くんのことは好きだよ。ずっと好きだと思う。でも……開いてる穴は奏汰くんが、自分で埋めてあげてよ。俺もそうするから」
カーテンの向こうでは雪が少しちらついていて、季節が冬になっていたことを奏汰はそのとき初めて知った。そういえばベッド脇のデジタル時計が十二月になっていた気がする。行方を隠すのももうやめたことだし、そろそろ一周忌の葉書が届いているころだろう。
奏汰は窓から薫のほうへゆっくり視線を移す。薫は眉尻を下げ、絞り出すように笑いながら言った。
「大丈夫だよ。大丈夫。幸せになりたいって思ったら、みんな幸せになれるんだから」
「かおるは——」
「なに?」
「……やっぱりなんでもないです」
終わることへの覚悟は、もうとっくにできていたのかもしれない。不思議とそれらの会話はするりと鼓膜に吸収され、体内へ染み込んでいった。きっと赤血球の一部となるのだろう。
外との温度差で窓が曇る。薫は何気なくティッシュで結露を拭き取った。空はうっすらと灰色で覆われていて、お世辞にも綺麗とは呼べない天気だった。
——雪は雪で、花は花で、海は海で、風は風だ。
「……そうですね。もう、やめましょうか。ぼくは、『だいじょうぶ』です」
「……うん。俺も、大丈夫だから」
***
マンションの四階を往復し、奏汰は私物を運び出した。不要な物を処分するとかなり荷物は減り、必要最低限の物しか残らなかった。それで十分だろう。
ひとやすみ、と腰をひねり背筋を伸ばす。病状はまだ全快とは言えないが、この程度のことは自分だけでやり遂げたかった。復帰のためのリハビリだと思えばいい。ふと、植え込みに去年はなかった花が咲いているのを見つけた。
「……ほんと、あなたは『せいめいりょく』のつよい『おはな』ですね」
奏汰はその花へ笑いかける。
知らぬ間に種がこぼれて根を張り、ありふれたピンク色の花を咲かせた、スイートピーだった。
薫奏スイートピー合同誌「garden.」寄稿/スイートピーの花言葉「門出」