《マル得ニュースの時刻となりました。タレント事務所に所属する深海奏汰さんの足取りは依然つかめないままで——》
《——次の特集です。昨日渡米した羽風薫さん。日本での、一年間の芸能活動休止を惜しむファン達が空港に押しかけました。その様子をVTRでどうぞ》
《……ジオでお馴染みの羽風薫さん。人気絶頂の今、なぜ渡米するのでしょうか?》
《マネージャーは「学生時代から放浪癖がある人だとはうかがってました。似たようなことは以前もありましたし、今回もすぐ戻ってくると思い——」》
《訃報です。……州を中心に多数の支社を持つ……カンパニーの代表取締役が亡くなりました》
《事務所の発表によると、先月から深海さんと連絡がとれなくなっていると——》
《会場は深い悲しみに——》
《——は身内だけで行い、後日、関係者やファンのためのお別れ会が開かれます》
《速報です。先月から事故で入院していた、俳優の……さんが——》
《意識不明の重体で——》
《警察関係者によると、先に飛び出したのはバイクだが、事故当時の路面は——》
《——として活躍していた……さん。今回の事故を受け、ネット上のファン達は——》
《バイクは大破するほどの強い衝撃を——》
《所属事務所は、「容態が明確になるまでコメントは控えさせてほしい」とコメントし——》
《先程のニュースでお伝えした、……区での自動車とバイクの衝突事故で病院に搬送された男性は、俳優の……さんだということで——》
《事故の影響で現在、……は通行止めに——》
《ただいま入ったニュースです。東京……区の交差点で自動車とバイクの衝突事故が起き、バイクの運転手の男性が病院に搬送されました。自動車の乗客二名は軽傷——》
《それでは明日の天気予報です。東京では深夜から明け方にかけて降雪が予想されます。路面の凍結には十分注意を——》
***
結局。
ここは海ではなかった。
この半年間ひとりで住み続けた家は、当然のように自分ひとりだけだった。天井は固く無機質で、海中から見上げた柔らかな水面とはほど遠い。そのままぼうっと目を開けていたが、ほかに何者の気配もしないので奏汰はほかの気配を期待して体を横に向けた。
(『してん』が、ひくい……)
視界にはベッドの脚や、無造作に床を這うコードが映っている。そういえば背中も固い。どうやらベッドに寝転がる前に力尽きて、カーペットの上で行き倒れたようだ。
体を起こすと筋肉や間接のほとんどがガチガチに固まっていて、ついさっきまで本当に死んでたみたいだなと思った。腰をゆっくりひねる。
どれくらい寝たのだろう、そもそもいつから寝ていたんだろう。その疑問に応えるように、胃袋がキュウと鳴った。何かを食べたいとかいう欲求はすっかり感じなくなったが、食べなさすぎのせいか血の巡りが悪くなっている気がする。
「——あ、」
ほかに何者の気配もしない?
そんなはずはない、だってこのコードは、七台ぶんもの水槽に繋がっている。水槽は水と魚を入れておくもので、この家には自分のほかに何十匹もの魚が一緒に住んでいるはずだ。
いや、そもそも、〝最後に餌を遣った〟のは、いつだ?
自分が一番最近に何を食べたのか思い出せない。少なくとも夏ごろまでは、ネットショッピングで食料品や生活消耗品を注文していた記憶がある。リビングのコルクボードに貼った、薫から届いた絵葉書の消印は九月だった。
べっとりとした嫌な汗が噴き出す。
動悸が止まらない。きっと、ずっと床で寝ていたことと食べなさすぎが重なって血の巡りが悪くなっているのだろう。そうに違いない。
頭がくらくらした。ただの起立性低血圧だ。眩暈ではない。きっと酸素が足りないんだ。
(——あれ? 『いき』って、どうやって『だす』んでしたっけ)
ごぽごぽ。
息が苦しい。ぐらぐらする体を必死に支えながら壁づたいに歩き、一番近い水槽を覗き込む。
「……おさかなさんが、いない」
中には水草が漂ってるだけだった。
魚の姿は一匹も見当たらず、死骸さえ浮いていない。屍肉が腐って分解された様子もない。
「なんで——これじゃあ、『さいしょ』からなにもいなかったみたいで……とつぜん『きえる』なんて、そんなこと、あるわけが——」
ポンプだけが、生き物の真似事をするように息を吐いている。
奏汰はふらつきながらもコードを頼りに、設置した七台すべての水槽をチェックした。どれもこれも最初にチェックしたのと同じ状況で、魚の死骸どころか餌の袋すらどこにも見つからなかった。
「そんな——、なん、で……」
ごぽごぽ。
ごぽごぽ。
目の前がチカチカした。
死ぬ。今度こそ。そう確信した。
***
「……くん、しっかり……」
誰かに頬をぺちぺち叩かれている。
「……くん」
「——かおるっ!?」
反射的に跳ね起き、奏汰は無我夢中で傍らの人物にすがりつく。自分にまだこんな体力が残っていたことに驚いたし、まだ自分が死んでいなかったことが意外だった。自分にはまだ動かせる肉体があり、魂と同期もされている。どこからか、おそらく脊椎のあたりから、ドクドクと血流がみなぎってきた。
「かおる、あいたかった。あいたかった! かおる、かおる!」
胴体から上肢へ、腕から手へ、手から中指の爪の先まで、血液がたちどころに行き渡っていく。とても久しぶりに、生きた心地がした。
シャツごと掻き抱き、布の上から皮膚のかたちを確かめる。皮膚、筋肉、骨——。
(かおるじゃ、ない)
この人は薫ではないと気付いて突き飛ばす。必死になるあまり人違いをしていた。薫に会いたいさみしさが見せた幻覚だろう、奏汰は今しがた引き剥がした人影を消そうと目を強く擦った。
「これこれ、我輩をこんなに強く突き飛ばさんでおくれ」
「……あ。『れい』でしたか」
期待していた人物でなかったことに落胆する。朔間零と奏汰はかつての旧友であり、薫が組むユニットのリーダーでもある。いわば共通の友人だ。
「けっこう痛かったぞい」
「すみません、『ひとちがい』でした」
「警戒心は生き物の基本じゃもの、気にしなくてよいぞ。にしても薫くんも悪い男じゃ、こんなにさみしがらせるなんてのう」
「それは……ええっと、」
(かおるは、わるくないです)
そう言おうとした直後に喉がつまる。
零は薄手のコートを脱ぎ、床に散らばったハンガーからひとつを拾い上げて無造作に壁へ掛けた。
「れいが、なんでここにいるんですか」
「薫くんに頼まれたのじゃよ。『絵葉書を送って以来連絡が取れないから、様子を見に行ってほしい』とな」
そういえば返事を書いていなかった。絵葉書が欲しいと言い出したのは自分なのに、無気力さにかまけてほったらかしてしまっていた。連絡はスマホにも来ていたのかもしれないが、例によって最近スマホを眺めた記憶がない。
「ずいぶん心配しておったぞい。 深海くんのことは業界でもしばしば噂を聞く……。アメリカにいる薫くんの耳には届かないじゃろうが、それがかえって不安を煽っておる」
奏汰は申し訳なさそうに肩を落とす。
「ぼく、かおるを『ふあん』にさせてたんですね」
「それは否定できんなぁ。電話が掛かってきたとき、ずいぶんと狼狽した様子じゃったし」
「……なさけないです」
「まあ、こうして生きているのが確認されただけでも僥倖じゃて。ところで深海くんはしばらく見ぬうちに痩せたのう。やつれたと言うべきか」
骨と皮だけになっておるではないか、と零が奏汰の手首を握る。低体温のはずの零の手が温かく感じ、そこでようやっと自分に体温が在ったことを思い出した。奏汰は手指を通して零の脈が伝わってくるのを感じ、零もまた手指を通して奏汰の脈を測っていた。
「れいの『て』って、あったかかったんですね」
「お主の体温が低すぎるのじゃよ。我輩より低くては死人と同然じゃ」
零は振り返り、部屋の隅に置いた自分の荷物を指した。鞄のほかにコンビニのレジ袋もいくつか詰まれている。
「ところで久しぶりに会うたんじゃ、お茶にしようかのう。準備は我輩がするから、深海くんは休んだままでいいぞい」
***
零は気付いていた。
(この家はおかしい)
薫から万が一のときにと預かっていた合鍵でドアを開けたときから、家中に淀んだ空気が蔓延していた。こんなに淀みきった空気では住人の安否すらろくに判断できない。淀んでいる時点で無事とは言えないだろうが。
靴を脱ぎスリッパを探していると、床に這うコードの何本かに躓いた。それは、魚のいない、水だけで構成された水槽に繋がっている。
(水槽……深海くんの仕業かの?)
零は学生時代を思い出す。海洋生物部に顔を出すことはほとんどなかったが、多種多様な水棲生物が飼育されていたと記憶している。水槽ももっと大型でゆとりがあり、こんなに所狭しとコードが這い回る場所ではなかった。
(まずいのう。だいぶきておるようじゃ……)
薫からの打診を受けるよりも先に、自身の判断で動いてこうなることを食い止めるべきだった。自分は薫と奏汰のどちらの事情も把握していたのだから、どうにかできたはずなのに。
(つらいのは薫くんも同じじゃろうに)
零は食器棚からコップを適当に二つ取り出す。もともと薫の家だっただけある、食器類は趣味のいいものばかりで、銘の入った品もいくつか混じっていた。そんな中に唐突に、魚偏の漢字が敷き詰められた湯飲みが並んでいたりする。これは十中八九奏汰のものだろう。
——違和感。
整然と揃えられた食器は、整然と揃いすぎている。そのくせ食器と棚との接地面には隅には埃が積もっていることから、これらが使われていないのは明白だ。一見整理整頓され片付いている室内も、そう見えるだけで目を凝らせばあちこちに埃や髪の毛が溜まっていた。
得たいの知れない疑念を持ちながらも、零は買ってきたソフトドリンクを注ごうとガラスコップを水で軽く洗う。シンクから魚のような生臭さがぬるりと鼻をかすめた。だが台所が臭うのは、そこまで妙な話ではない。
「おうい深海くんや、クッキーと飲み物を買っておるから——」
そのとき、奥の部屋からガタン! と何かが倒れる音がした。貧血気味だった奏汰が倒れたのだろうか。
「深海く——」
零が廊下に出ると、先ほど奏汰が倒れていた部屋から隣の寝室へ続く廊下に、点々と水溜まりができていた。休んでていい、と零が言ったのでベッドへ移動する最中に水槽に体をぶつけた、といったところか。
横に設置された水槽は倒れていないが、中の水はわずかに左右に波打っている。よく見ると床だけでなく壁にも水が散った跡があり、それらは水槽を起点として形成されていた。まるで誰かが水槽に手を突っ込んで中を掻き回し、勢いよく引き抜いたような汚れかただ。
嫌な予感がする。予感どころではなく確信に近い。
「おうい、深海くんや」
呼び掛ける声がいつになく震えていた。自分がここで不安になってどうする、救える友は救わねばならない。コードを踏まないようにしながら零は水滴を辿る。
歩きながら家のあちこちに設置された水槽を注意深く観察する。全部で十台。そのすべてに魚の気配はない。
青白い顔、薄い脈拍、死人のように低い体温。自分を薫だと間違えたときの力強さとそれらは甚だしく不釣り合いだ。あの瞬間、奏汰の瞳は虚ろだけを湛えていて、そこには誰も映っていなかった。
(我輩としても間違えるのは二度とごめんなのじゃが……果たして間に合うかどうか)
寝室のドアを開ける。
床の水滴は、右腕をびしょびしょに濡らした奏汰へと続いていた。
「……なにを、して」
淀んだ空気に加え、先ほどは気づかなかった生臭さが部屋をみっちりと満たしていた。
「なにって……わかりません」
奏汰の目が虚ろを捉えている。
「ねえ、れい。『おさかなさん』がいないんです。なんびきも、なんじゅっぴきもいたはずなのに、きえてしまった。どうしてなんでしょう。わかりますか? ねえ、『れい』」
***
「おぬし……正気か?」
奏汰は服ごと腕が濡れていることに全く動じていない。思い返してみれば奏汰は学生時代、着衣のまま〝水浴び〟に興じていたのだからこの程度気にとめることではない。だが、一筋の光も差さない暗闇をその身に背負い、なにも反射しない視線を零へ投げ掛ける姿はどう見たって正気ではなかった。
「れいには、ぼくが『しょうき』にみえるんですか?」
「だからこそ狂気かと訊いておるのじゃ」
奏汰は左手で右袖の水を絞る。足元にぼたぼたと水滴が落ちた。
「『そうです』とこたえるとおもいますか?」
そうかもしれないですけど。と奏汰は文字通り取って付けたように付け加えた。なにもおかしいことはないと言わんばかりに、あくびを手で隠すように当たり前にそう言う。
「——我輩は情報を攪乱させることに従事しておったのだぞ。それが薫くんの頼みだったからじゃ。事情は何もかも把握しておる。薫くんは実家にまで掛け合い、徹底的におぬしを隠蔽した。ここに住まわせたのも留守番などが目的ではない。どこか他の場所へ行ってしまうのではないかと、今度こそ完全に行方不明になってしまうのではないかと恐れた結果じゃ。それを、おぬしは」
「だからなんだっていうんですか!」
奏汰が怒鳴る。やつれた体躯から叫ばれたとは思えないほど荒く強い口調に、零は気圧されそうになる。が、すぐに思考を立て直し、冷静さを取り戻す。
「薫くんは、人間じゃ」
「れい、それをあなたが、『ぼく』にいうんですか? あなたも〝ばけもの〟だったくせに」
零はその単語に反射的にひるんだ。誰よりもばけものと呼ばれるのを嫌悪していた奏汰が、駆け引きとは言えその単語を持ち出すなんて。いつもの穏やかな佇まいは面影もなく、瞳孔を見開いて激昂している。
「かおるには『れい』がいる、れいにも『だいじなひと』がいっぱいいるんでしょう。でもぼくにはもう、『かおる』しかいないんです! もう、『かおる』しかいない!」
——瞬間、脳裏に一年前の事件がよぎる。事故現場、ニュース映像、マスコミ、大破したバイク。
——雪の日だった。
「それは……やはり、千秋くんのことが」
「うるさい!!」
恫喝が家中に響く。ビリビリとしびれる鼓膜に、言ってはいけないことを言ってしまったと零は悟った。奏汰はぼさぼさの髪を振り乱して続ける。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!! 『れい』にぼくのきもちはわからない! いまはかおるだけが、『かおる』だけがぼくをわかってくれる! ぼくが『かおる』にたよりたいからたよってるんです、『れい』には『かんけい』ない!!」
喚きながら奏汰は零へ近づき胸ぐらを掴んだ。が、貧血気味の体ではうまく踏ん張れず、零にあっけなく振りほどかれてしまう。
「いッ……、れいには……れいは……」
「落ち着け深海くん。頭に血が昇っておるようじゃ。……少し部屋の空気を入れ換えよう」
奏汰は床に転がされた。受け身をうまく取れなかったのか痛そうに眉に皺を寄せ、胎児のようにうずくまる。零はそれを一瞥し、ベランダを塞ぐカーテンに手をかけた。
「奏汰くんや、窓を開けても構わないかえ」
「……たぶん、あけないほうがいいですよ……」
奏汰の弱々しい返事を待たずして零は鍵を開けた。途中で引っかかり、がたがたと何回か揺らしても開く様子がないので零は力任せに戸を引く。
ぶちっ、ぶちっ、となにかが次々に千切れていく感覚。
「これは……」
ベランダは鬱蒼と荒れ、ひどい有様だった。
扉に引っかかっていたのは植物だった。十一月下旬の季節にはそぐわないはずの青々とした緑色が、おびただしいまでにベランダを占領している。好き放題に葉や巻きひげ状の茎を伸ばし、天井までもを侵食しいまや上の階へ到達しそうだ。茂る葉の隙間から本来収まっていただろう鉢植えが見える。この植物の生命力を抱えきれなかったようで、根が鉢の下からはみ出していた。
丸形でテラコッタの、どこにでもある植木鉢。零はふと、これに見覚えがあることに気付く。
「これは、薫くんが貰った〝門出のお祝い〟の……」
「そう、です……かおるがもらったものです。ぼくがあずかって、『みずやり』してました」
「なぜこんなになるまで放っておいた!? これを薫くんが見たらどう思うか、」
「『かんけい』ないですよ」
奏汰は打ち付けた半身をさすりながら、零を押し退けてベランダへ入る。蔓をぶちぶちと引きちぎり、迷惑そうに言った。
「だって、『ざっそう』じゃないですか、こんなの。『おはな』もぱっとしなかったし、よくにた『はな』が『あきち』や『みちばた』でさいているのを、みたことがあります。それにこれ、『せいめいりょく』がすごくつよいんです。いくらちぎっても、どんどんのびてしまって、『つぎのひ』には『もとどおり』。ぼくは『みず』をやらなくなったけど、これは『かれなかった』」
植物の破片が奏汰の周囲に舞う。
「だから、『ざっそう』なんです。『すいーとぴー』は『ざっそう』。だから、『だいじ』にするいみが、わかりません」
横顔には生気がなかった。喋ることももう疲れたと言わんばかりに頬へ涙が流れている。
(もしや我輩は——俺は——また間違えたのか?)
「れい、ぼくはわからないんです。もう、なにも」
***