「あさがお」
「ん?」
「あさがお。うまくそだたなかったんです。むかし」
アイスを齧るのをやめ、奏汰はぼんやりと遠くを見る。防波堤に腰掛ければ、視界に広がるのは海ばかりだ。余計なものは何一つない。潮風に牛乳アイスの甘い匂いが混じる。薫は髪を耳にかけ、奏汰の昔話に付き合う。
「朝顔、育ててたの?」
「はい。しょうがくいちねんせいの、『りか』の。もってかえっても、どうしてだか『め』がでなくて。そのまま『なつ』がおわっちゃいました」
棒にひっかかっていたアイスがぽとりと奏汰の手に落ちた。おっと、と慌てて指を舐め、棒の残りをしゃぶる。
「……駄菓子屋の朝顔、綺麗だったね」
「ええ、すっごく『きれい』でしたね」
先にアイスを食べ終えていた薫は手の中で棒を弄ぶ。口の中はひんやりしているが日光に煮込まれた体は内部に熱を持っていて、だがしかし不思議と嫌ではなかった。
奏汰はビーチサンダルを海へ落としてしまわないよう、足の親指をくいくいと引っ掛ける。ハーフパンツから覗く足首は意外にしっかりした骨格で、よく見ればサンダルも大きめのサイズだ。薫はしばしば、奏汰が男性であることを忘れそうになる。というよりは、ふとした拍子に男性性を見せられて思い出すのだ。
薫は防波堤のコンクリートから立ち上がり、海を見ながら大きく伸びをする。シャツが持ち上がって、海風に撫でられる腹が少しくすぐったい。
「明日も朝顔見に来る? 朝顔見てアイス買って海見てさぁ。種も買ってみよっか? スーパーとか案外売ってるんだよ。あ、でもさっきの駄菓子屋のとこからもう種拾えるかも。そういえば八月二十九日なんだもんね。忘れそうになるけどさ」
「……『たね』、どうするんですか?」
「植えるの。芽が出るかもしれないでしょ〜? それに植えなきゃ芽は出ないよ」
これ捨てるとこないね、と薫はアイスの棒を軽く振った。先ほどの駄菓子屋ならゴミ箱があるかもしれない。ついでに種を貰えないか聞いてみるのもいいだろう。薫は奏汰も立ち上がるように促す。
「…………帰ろっか。明日こそ夏が終わるかもしれないし」
「……まだおわらないでほしいですけどね〜」
空に赤色が差し、薄暗い青と混ざり始める。ほのかに色づいた入道雲は、大きさのせいもあってか遠近感を狂わせずいぶん近くにあるように思えた。事実、このあと夕立が来ることを二人は知っている。昨日も見た空。昨日と同じ今日。繰り返される八月二十九日──終わらない夏。
「ほぉら、早くしないと濡れるよ〜。土砂降りに遭うのは懲り懲りだもん。どうせ巻き戻されるから風邪はひかないけど」
「ぼくは『どしゃぶり』きらいじゃないですよ〜」
「え〜、雨粒が大きくて痛かったんだよね〜。痣になりそうなくらい。今回はあれを浴びるのは嫌だなあ」
二人は防波堤に沿って来た道を戻りながら、このあとの天候について雑談する。テレくビの天気予報にも把握しきれない、急な土砂降りの雨と雷。何度も八月二十九日を繰り返したが、この雷雨だけは変わることがなかった。だからその時が来るまでに、という暗黙の了解で、二人は同じ一日の違うルートを辿ってみている。今日できることは全部やろうと決めたのだ。
***
駄菓子屋のゴミ箱にアイスの棒を捨て、薫は朝顔の種を貰っていいか尋ねる。許可を得て緑のカーテンから種を摘み取れば、ぱりぱりと乾いた殻が指の中で弾けた。黒く小さな三日月状の種。ここには赤い花も青い花も両方咲いているから、どちらが咲くかは咲いてみなければわからない。
「楽しみだね」
「……そうですね〜」
奏汰はそれらをポケットにしまう。今日植えたって芽が出るわけがない。同じ八月二十九日をずっと繰り返すのだから。それは薫も重々承知のはずだ。
「今度こそ、育つといいね。朝顔」
「……『なつ』、なかなかおわらないですね〜……」
奏汰はポケットに手を入れたまま、種もろとも握りしめた。明日も八月二十九日だ。やだただ同じ今日だけが、水平線のように果てしなく広がっている。