nowhere

「エレベーター? ヤです。あれ、『ふわっ』ってなるじゃないですか。ただでさえ、こんなにふわふわしてるのにもっとふわふわしたものに乗るなんて、司がどこか飛んでちゃってもいいんですかぁ。せなせんぱぁい」

「ああ、もうっ……。この、クソガキっ」

 アルコールをしこたま摂取し、顔だけでなく耳や指先まで真っ赤に火照った司の手を引く。自由に飲みに行けるのが最後とは言え、まさかあんなに飲むとは思わなかった。

(メニューの上から順番に飲んでいくなんて。なんでもっと早くに気付かなかったのかなぁ)

 泉は微かに酒臭い溜息をつく。後ろで千鳥足になってる後輩はもっと酒臭い息を振りまきながら、日本語か英語か判別のつかない音を口走っている。一歩進むごとに首があっちこっちにガクガクと揺れていて、理性がしっかりしてるとは言い難い。ただ、その様子を見かねた泉が無理やり握らせた手を、時折握り返してくるので最低限の意識はあるということか。あるいは、手に触れたものを反射的に握り返す赤子のレベルにまで遡ってしまっているのか。

「おさけ、おいしいですねぇ」

「さすがに飲み過ぎ。それと食べ過ぎ。店員にも気付かれたし……もう最悪!」

「さいあくなんて、言わないでください。つかさがいますよ〜」

「はいはい。酔っ払いは何言っても説得力ないから」

「ずーっと、いっしょですよ。せなせんぱい」

「……こんなの、地獄に落ちるよねぇ」

 ぼそり、と泉は呟く。エレベーターが嫌だと司がのたまうので、代わりの階段を探していた。居酒屋が何軒も集まっているビルではたいていワンフロアが丸ごとその店舗に割り当てられていて、エレベーターを使わずに移動するのは難しい。泉と司は九階建のビルの七階でお酒を飲み、飲んだお酒の量を店員に冷笑されながら(そのほとんどは司が頼んだものだ)さきほど会計を済ませて出てきたところだ。

「階段、見当たらないねぇ」

「ああ、ひじょうかいだん! みどりのひとのほうに、行きましょう」

「緑の人? ああ、あれね」

 司の提案に則り、泉は表示に従い非常口のほうへ向かった。入り組んだ通路を進みながら、それと思わしき行き止まりにたどり着く。薄暗く、寿命の近い蛍光灯がチカチカと絶命と復活を繰り返している。足元には無数の虫の死骸。埃っぽく、こんなときでもなければ絶対に来ることはないだろう。

「ん、しょっ」

 非常時に使われる出口、ということは普段は使われていないということだ。泉は体全体を使って重い扉を押し開ける。

 ──ギイイイイイ。錆びた蝶番が、こちらの鼓膜を破る気概で不愉快な音を鳴らした。

「かいだん、ですね」
「エレベーター、嫌なんでしょ。それにエレベーターじゃ来れなかったと思うし」

 先は暗く、こちらも瀕死の蛍光灯がところどころに設置してあるだけだ。司は泉の腕を、ぎゅう、と握り直しおそるおそる階段を進んでいく。目の端でチカチカする蛍光灯は羽蟻や蛾の死骸をひっそり照らしていた。コンクリート打ちっ放しの壁が、ここを通るあらゆる生命体を吸い上げているかのようだ。

「せなせんぱい。あやまらなければいけないことが、あります」

「なぁに」

 階段の途中で司が立ち止まった。

「……ごめんなさい。怒ってるでしょう?」

「今更何言うの。ここまで来たら、もう引き返せないでしょ」

 酔っ払いらしく顔色は赤いままだが、目からはぼろぼろと涙が落ちていた。出口はもうすぐそこだ。再びの重い扉を開けようとする泉を、コートの袖を引っ張って司は引き止める。

「で、でも。私のせいで、あなたを道連れにしてしまう」

「……道連れなんて、そんなの。かさくん、俺とずっと一緒にいてくれるんでしょ?」

「そ、それは、そう……ですが」

「じゃあ怖気付かないで。……俺は、怒ってないから」

「……ほんとに、怒ってませんか?」

「しつこいなぁ。怒ってないってば」

 いつも通りの問答に気が緩んだのか、司は打って変わって朗らかに、嬉しそうな足取りで扉の前に立つ。

「あぁ、……安心、しました。行きましょう」

「……うん」

 二人で息を合わせて扉を開ける。
 ──どう。と勢い良く風が吹き抜けていった。

「ホントに鍵かかってないんだ……」

「なんて不用心なビルでしょう。屋上に鍵がかかってないなんて」

 強風は獣のような唸り声をあげながら、二人の髪や服の裾をばさばさに揺らしていく。司はその風に向かって、踊るように屋上へ飛び出した。

「あははははっ、瀬名先輩! 見てください、薄汚い人間たちの営みが一望できますよ! あの光もこの光も、なにも私たちを照らさない! 私たちを、誰も、見ていない……!」

 司は吹っ切れたようすで、つま先を軸にしてくるくると回る。泉は無言でそれを眺め、視線を上へと移した。月も星も出ていない。曇りの夜だ。はぁ、と白い息を吐き、踊る司の元へ駆け寄る。

「かさくん楽しそうだねぇ」

「ええ、とっても! 誰の目も届かない場所に行くというのは、こんなにも開放的なのですね!」

「まだ酔ってるでしょ」

「ええ! いけませんか?」

「ううん、かさくんが楽しそうだから、それでいいよ」

「瀬名先輩は、楽しくありませんか?」

「……そろそろ行こうか」

 高揚感に満ちた笑顔を浮かべる司とは対照的に、泉はあくまで冷静さを保ちながら会話をしていた。気をぬくと決意が揺らいでしまいそうだった。泉は屋上と下界とを仕切る柵にもたれ掛かり、「おいで」とジェスチャーをする。胸元めがけて飛び込んできた司を、やさしく抱きとめて、口付けを交わした。

「好きです。好きです。瀬名先輩」

「俺も好きだよ」

「ずっと一緒にいてくれますか」

「心配しなくてもずっと一緒だよ」

「司と一緒に死んでくれますか」

「かさくんと一緒に死んであげるよ」

「道連れになってくれますか」

「道連れになってあげるよ。……かさくん、ワガママすぎ」

「ワガママなの、嫌いじゃないでしょう?」

「……こんなの、地獄に落ちるよねぇ」

 下界では薄汚い人間どもが灯した光があちこちを明るく照らしている。それらのどの光も、泉と司を照らしてはいなかった。月も星も隠れ、ただ獣ような唸りを上げる風だけが、二人の存在を感知していた。柵を乗り越えた二人は、互いの五本の指がばらばらにならないよう確かに絡めあう。白い息が二つ、同じリズムで浮かび、消えていく。そして幾度目かの白い息が消えたあと、屋上から二人の気配は跡形も無くなった。
 
 
 


いずつか心中ワンドロ(ワンライ)お題「飛び込み」