──殻を脱ぎ捨てた先にあるのはまた別の殻だ。蝉の雄は、音を出すために体の内部をほとんど空洞にする。そこで発声気管を細かく震わせて音を出し、自分の居場所を全身全霊で叫ぶ。ここにいるんだ、ここに生きているんだと訴えるために、蝉の雄は体が空洞になっている。自らの生という、明瞭な目的を抱えるために用意された空洞。
「順平。嘘、ついてただろ」
悠仁は水槽の前のソファーベンチに座っている。背を丸めて項垂れ、自分の膝下と床をじっと見つめていた。言いたいことは山ほどあるのに、そのどれも言葉に成らず体内にわだかまっていく。そんなもので満たしたくないのに、もやもやした感情は天井知らずに増えていった。己の内側がここまで広い空洞になっていただなんて知りたくなかった。ずっと鈍いままで過ごせたらどんなによかったか。
「……うん。途中からね。最初は嘘じゃなかった。けど……結果的に僕は嘘つきだ。騙すようなことをして、ごめん」
順平は壁を埋め尽くすクラゲの水槽を背に、この世にたったひとりで立ち尽くしていた。青い照明に輪郭が透けている。すぐ目の前にいるのにとても遠くにいるように感じて、悠仁は順平を直視できず更に下を向く。
「──なんであんなの見せたんだよ!! なんで……、なんで、俺に」
感情がばらばらにちぎれそうになる。どうにか繋げて吐き出すも、稚拙で幼い言葉しか出てこない。喉の奥がぎゅっと詰まる。気管が狭まって息がうまくできない。ろくに役に立たない単語ばかりが脳を駆け巡り、不甲斐なさに悠仁は涙声で叫ぶ。
「──俺に、どうしろって言うんだよ、順平!」
悲痛な残響。空気の震えが治まると、ただでさえ静かだった館内がより一層静かに感じられた。この場に、息をするものは虎杖悠仁ただひとりしかいない。幽世に半分溶けた世界では、呼吸気管や内臓などかりそめでしかないのだ。
眼球から頬、頬から顎へと涙が滑り落ちる。勝手に流れていくそれを、悠仁はどうすることもできない。
「……悠仁」
「やり直せるならやり直すに決まってるだろ!! やり直して──そのときは、こうならないように、もっと早く会いに行くんだ。そしたら──こんなことにはならなかった。こんなこと、知らずに済んだ。知らないままで済んだんだよ!!」
悠仁はおもむろに立ち上がり順平の両肩を掴んだ。まるで霞を固めたようで、触っている手応えがない。順平の長い前髪が空気をくすぐる。首を這う血管の筋は、青い照明によって一層青く強調されていた。
「知らなかったらテレビの向こうのニュースみたいに聞き流せたのに──俺は、知ってるんだ。順平がなにが好きで、どんなふうに笑うのかって! 聞き流して割りきるなんて、今更──」
発憤したのも束の間、喋りながら徐々に力が抜けていき悠仁はずるずると順平にすがりつく。喉と鼻と目の奥に神経が集中してしまい、立っているだけで精一杯だ。床にぼたぼたと水滴が落ちる。順平は悠仁の嘆願を受け入れも拒絶もせず、かすかに震える頭部をじっと見下ろしていた。
「…………俺は、順平を呪いたくないんだよ……!!」
悠仁は胃袋の一番下にこびりついた言葉をようやく吐き出す。幾層にも重ねられたもしもの重圧に、立てた誓いを破ってしまいそうだった。あってもおかしくない未来だった。長い長い、夢の話だった。
──もう二度ときみが。
──理不尽に曝され、傷つくことがありませんように。
──当たり前の幸せを、ありったけ享受できますように。
「……でも、悠仁は」
順平は悠仁の両手をまとめて、胸元で祈るように握る。そこに温度はなく、順平の体温は感じられない。──まるで、この世に自分ひとりしかいないみたいだった。悠仁はぐずぐずの顔を上げ、順平の様子をそっと伺う。
「悠仁は、僕を正しく見てくれたよ」
やっと重い荷物を下ろせたような、安堵の表情。順平は絵画の人物のような微笑みを湛えていて、もうじき向こう側へ行くことを暗に表していた。生きているものには絶対に成すことができない、透明で柔らかい、水のような笑顔。
「悠仁は僕を正しく覚えていてくれる。……それで十分なんだ。正しく覚えていてほしかった。だから、残り滓を掻き集めて寄せ集めて……演出した。僕の初監督作品だ」
順平は水槽を見仰ぐ。天井のほうから降るように、あるいは水底から湧き上がるように宙を浮遊するクラゲたち。幼い頃に母さんと見た水族館を頑張って思い出したんだ、と順平は呟いた。つくりものの海はどこまでも深く優しい青色をしていて、その青に悠仁の涙腺は鎮められていく。
「途中からこんがらがっちゃったけど。真人さんが余計なシナリオを立ててくれたからね。まあ、それに乗っかった僕も僕だ。自分にとって都合がいいことってみんな好きだから。……でもちょっとやりすぎだったかな。……お臍、痛くない?」
「……痛くない。……たぶん」
「そっか。ならよかった。ほかにヘンなことされてないよね? 大丈夫だよね?」
順平は悠仁の両手をぎゅっと握り込む。言われて気付いたが、臍から呪力を流されたにしては違和感や痛みの類はまったく感じなかった。夢を見ている最中の、ふわふわとまどろむような感覚もいまは綺麗さっぱり消滅している。真人が流したと言っていたのもごく少量らしかったし、体内で分解されたのかもしれない。
悠仁は鼻を啜り、肩で目元を拭った。水中をひっそりと漂うクラゲに目を遣る。単純な生き物なだけあり、動きはとてもシンプルだ。水を吸って、吐く。沈みかけると思い出したように泳いで上を目指す。
もやもやしていた感情を吐露したせいもあるのか、悠仁の意識は水平さを少しずつ取り戻していった。
「……あ、そういえば宿儺がいねえんだけど」
「宿儺?」
「あれ、喋ってなかったっけ」
「うん、初耳。なにそれ?」
「えっと、俺と同じ顔だけどゴツい刺青入ってて、着物の」
「あー、あのひとかな。呼んだつもりなかったんだけどなあ……。悠仁とセットっぽくて仕方なくてさ……土足であちこち勝手に歩き回られてちょっとイヤだった」
「アイツ暇人だからなあ……ほんとは俺ン中にいるはずなんだけど。いまなにしてるか分かる?」
順平はあたりをぐるりと見渡す。
「……
「げ。見てんのかよ」
つられて悠仁も館内を見渡すが、とくに目立つものを見つけられず首は一周してもとの位置に戻ってくる。順平と悠仁とでは呪力感知の精度に差があるのかもしれない。
ふと、順平に両手を包まれたままであることを思い出し、悠仁の頬は爆発したように紅潮した。見られているらしいという情報があるだけでこんなに恥ずかしさが増すなんて。悠仁はじわじわと手を解こうとするが、その卑怯な逃げ腰に勘付いたのか、順平はよりがっしりと手を包み直す。
「………………見られてんならやめない?」
「やだね。僕にはいましかないんだから」
「…………………………あとでシメるからな宿儺」
「ほどほどにね」
アイツにかける温情なんかねえよ、と悠仁は赤い顔を横へ傾けた。
──順平の言葉尻には、もうじき訪れる時間切れのニュアンスが含まれている。表面張力ぎりぎりまで満たされたと感じた幸せは夢幻だった。錯覚だと知ったいま、この空洞の輪郭を露にするのはなんだろう。悠仁は順平の両手を受け入れ、そこにあって然るべき脈動を想像する。
「……あー。俺、バカだなあ。わかったと思ったんだ。わかった気になってた。上澄みだけ掬いとって、中身まで全部見ようとしなかった」
緩んできた鼻を再び啜る。悠仁は一度ぎゅっと目をつぶり、すぐさま力強く瞼を開いた。真っ白に輝くクラゲたちを目に焼きつけ、こみ上げそうになる嗚咽をどうにか奥歯で食い止める。代わりに深く息を吐き、悠仁は明るく前を向いた
「──たぶんさ、俺もちょっと好きだったんだよね。順平のこと」
悠仁は一歩近付き、包まれたままの両手を自分の胸元へ引き寄せた。生きているものの温度が聞こえるだろうか。とっくに夏は終わっていて、自分はもうじきこの夢から覚める。目覚めた先は夢の続きではない。
悠仁はいつかの夢のなかでそうしたように、順平の肩へ顔を埋めて囁いた。
「俺は大丈夫。大丈夫だから」
繰り返し唱えるのは記憶するためだ。夢の内容など、強く意識していなければ起きてすぐさま忘れてしまう。そうなるのは御免だ。忘れぬよう、覚え続けていられるように、悠仁は吉野順平について今日知り得たことのすべてを、深く刻み込んでいく。
「……虎杖くん。最後に、もうひとつだけ、聞いていいかな」
水中を漂っていたクラゲの動きが不自然に止まる。柔らかで不定形なはずの肉がきゅっと硬く縮こまり、皮膜が破れて
順平は胸元の手をほどき、悠仁の肩へ控えめに手を回した。その一番先端、中指の爪がじわりと空気に溶ける。崩れだしたそれは
「幸せだったのかな、僕は」
中指から薬指、人差し指へと崩壊が始まり、あっという間に侵食は第一関節にも及んでいく。溶けていく断面はスポンジのようにすかすかで、長くは持たないだろう構造をしているのは明白だった。
悠仁は順平の肩から顔を上げ、額と額を付き合わせる。あまりの光景に言葉を見失いそうになるが、それでもなにか言わなければと必死で思いを掻き集めた。
「……それは俺が決めることじゃないよ。順平が自分で決めなきゃ」
「…………うん。そうだね」
「どうだった?」
「まあまあだった、かな」
「……俺と会えてよかった?」
「よかったよ。悪くなかったし、嫌じゃなかった。……よかったんだと思う」
もっと喋りたかったけどね。と順平は寂しそうに笑った。泡の量が増え、白い幾筋もの柱となって上を目指して消えていく。第二関節が溶け、やがて、悠仁の肩に置かれていた手のひらの感触も消えた。泡の柱が悠仁の耳たぶをかすめる。それは少しだけ冷たくて、絞り出した声を震わせるには十分すぎた。
「俺も思うよ。ちょっとだけじゃなくて、もっと好きになりたかったって。……会えてよかった。忘れない。ずっと覚えておく。何があっても俺だけは、絶対順平のこと忘れない。覚えたままで、生きていくよ」
順平の手首が、腕が、崩れていく。悠仁はまだ残っている胴体と頭部を優しく慎重に抱き留めた。ぐじゃり、と触れた箇所がすぐさま泡に変換される。細かった泡の柱は徐々に太く変わり、生きもののように蠢きながら体積を増やしていった。
「──虎杖くん」
「なに?」
「──頑張ってね」
「……おう」
水槽にはクラゲたちはもう一匹も残っていない。かすかに白く濁った水があるだけだ。分厚いガラスも軟化し、水圧に耐えきれなくなったのかなめらかに膨らみ始めた。喉の奥がきつく絞まる。鼻の奥が痛い。抱えているものがどんどん軽くなる。もう時間がない。もっと話したいことはたくさんあったのに、あれこれ考えあぐねても残ったのは至極単純なものだった。
「じゃあ、俺、もう行かなきゃ」
「……うん」
「……なあ、やっぱりさ、一緒に帰れねえの?」
順平は寂しげな微笑みを崩さぬまま、首をゆっくり横に振る。たったそれだけの動作にも泡がゆらめき立ち、その輪郭を曖昧にしていく。順平の目の端から染みでた滴が、泡の群れに混じってゆっくり上へと落ちていった。
「順路はあっち。寄り道せずに、まっすぐ行けば帰れるから」
肘から下が欠けた腕が悠仁の横奥を指す。黒い壁と青い水槽に挟まれるようにひっそりと、その道は存在していた。クラゲの印象が強く、道があることにまったく気付いていなかったが、水族館なのだから順路があって当然だ。
ぼろり、と順平の上腕が肩から落ちて泡になる。順平は果てていく自分の体を見て、眉を下げて困ったように笑った。
「僕は虎杖くんのこと、たぶんじゃなくて、ほんとにちょっと好きだったんだよ。……両思いだね、なんちゃって。……ほら、行って虎杖くん。僕のこと覚えててね。絶対だよ、悠仁」
悠仁はぐっと息を飲み込み、もうほとんど重さのなくなったソレからそっと手を離した。指先や手のひらに泡が付着するが、即座に剥がれて空気中に溶けて見えなくなる。その手のひらを内へ内へと握り、きつく踵を返して教えられた順路へ歩きだした。
「──じゃあね」
悠仁は振り返らずに歩く。大きな泡が吐き出される音が背後から聞こえたが、これはきっと見ないのが正解だと唇を噛んで一心不乱に歩いた。歩くたび、青く染まっていた世界は少しずつ後ろへ追いやられていく。照明の範囲から外れた途端に真っ暗闇が現れ、もう二度とあの青へは戻れないのだと悟った。壁に手をついて言われた通りにまっすぐ歩く。迷いようのない一本道。
「────順平……」
足早になるのは床に落ちる涙を誤魔化すためだ。悠仁は嗚咽を必死に噛み殺し、左右の腕で交互に顔を拭う。歯を食い縛っていなければ立ち止まってしまいそうだった。
さみしくてさみしくてたまらない。空洞は前から在ったはずなのに、こんな言い様のない感情を得たのは初めてだった。涙が止まらなくて、抱えていたものが全部目の穴から流れ出ていく。体内にはもうなにも残っていない。代わりに孤独がみっしりと内部を埋め尽くし、自分の輪郭がよりくっきりとシャープに感じ取れた。
「順平…………」
「いつまでもメソメソ泣くな」
前方から声を掛けられて悠仁は立ち止まる。悠仁はほとんど脊髄反射で、脳裏に浮かんだ人物を呼んだ。
「……じいちゃん?」
「違う」
即座に否定され、顔を拭っていた腕を外す。袖は濡れ切っていてもうぐしゃぐしゃだ。ぼやけた視界が捉えたのは、祖父とは似ても似つかぬ人物──暗闇に白い着物のシルエットを浮かび上がらせる、自分と瓜二つの男だった。淡く期待した自分が愚かに感じられ、悠仁は溜め息に憤りを混ぜる。
「なんだ、オマエかよ」
「俺では不満か? そう落胆するな」
宿儺は黒い壁に背を預け、横顔で不敵に笑う。
意識をかすめたのは真人と宿儺による最低最悪の嘲笑だった。事態の顛末が一斉に思い起こされ、常識から外れた醜悪さに吐き気すら覚える。そもそも宿儺が勝手に自分の素体を借りているのにも嫌気がさしていた。悠仁が普段動かさない部分の表情筋を使って邪悪に笑うためだ。顔の造作はまったく同じであるにも関わらず、醸し出す印象は根本から真逆を向いている。
悠仁は宿儺は前を素通りしようとするが、すかさず引き止められた。
「待て。そう不貞腐れるな」
「……いまあんまり喋りたくないんデスケド」
「オマエの都合は聞いていない。が、幽世に引っ張られるのは御免だからな」
袂から腕を出し、宿儺は悠仁の後ろを指した。つられて振り返ると、いましがた歩いてきた道が完全な漆黒に覆われてしまっていた。継ぎ目もなくぴっちりと、壁で遮られているかのように混じり気のない純粋な闇が鎮座している。
「早く出ないと引っ張られるぞ」
「……テメエが引き留めたんだろうが」
「黙って歩け。残穢の領域が閉じれば終わりだ」
闇がすぐ足元にまで迫ってきている。余裕ぶる宿儺の態度に悠仁は嫌悪感を覚えるが、正論故に反発もできない。悠仁は宿儺を追い越し、早足で出口を目指した。後ろから宿儺がついて来ている。コイツとまた同居か、と思うとほとほと嫌気が差した。が、この悪魂をいずれ確実に道連れにできるならそれも悪くない。
「わざわざ
「全然。どこ行ってたんだよ」
「なに、少々散歩をな。つまらん領域だったが、抱擁の最中に顔を出さなかっただけありがたいと思え」
「………………見てんなよ馬鹿」
歩き方は無意識に大股になっていき、悠仁の苛立ちをありのままに反映する。やはりどこからか見ていたらしい。あれだけ嘲り笑っておいてよくそんな真似ができるものだ、と悠仁は脇目もふらず進む。やがて、暗闇の奥、突き当たりに四角く切り取られた明かりが見えた。──磨りガラスの扉だ。
「小僧。答えは出たか?」
宿儺がどこか愉快そうに訪ねる。いちいち勘に障る言い回ししかできないのかと思いつつも、悠仁は躊躇なくノブに手をかけた。鍵はかかっていない。奥へ押すと蝶番がひっそりと鳴り、隙間から淡く光が差し込んだ。
「──うん。俺は、」
悠仁はドアを潜り抜け、光のなかへと踏み出す。息苦しいほどに世界が真っ白だ。片手を胸に添えて、誰かに言い聞かせるように柔らかく優しく呟いた。
「俺は、幸せだよ。いまも、いままでも、これからも、ずっと」