なめらかな闇が訪れる。数秒の間を置いて、正面のスクリーンにどこかの教室が映し出された。カメラの視点は低く、おそらくは机に固定されている。椅子には誰も座っていない。画面奥がカーテンが揺れている。その更に奥、外へ続く窓からヒグラシの鳴き声がした。鳴き声は遠く微かで、今にも途切れそうだ。
がらり、とそれを上書きするかのように教室のドアが開けられた。夏服の男子生徒がひとり。顔面や、半袖のシャツから伸びる腕にうっすらと青痣が浮いている。男子生徒は乱暴に椅子を引き、不遜な態度で着席した。もともと細い目を更に細め、横柄な口調で喋りだす。
「《──いまから話すのは俺の一人言だ。懺悔でなければ告白でもない》」
「《支離滅裂に聞こえるならそれで構わない》」
「《もとより俺は本音を話す気なんてこれっぽちもないんだ》」
男子生徒は斜め横を向く。ひとつぶんの息を吸い、体軸と首の角度はそのままに、視線を一瞬だけカメラへ移した。目のまわりも漏れなく腫れていて、眼輪筋が痛むのか眉根が寄せられる。男子生徒はカメラに視線を合わせることなく口を開いた。
「《……殺そうと思えば誰だって殺せるだろ。やらないだけでさ。だからやった》」
「《他にやつにやられる前に》」
「《取られたくないから取りに行った》」
「《俺のものにしたかったんだ》」
「《──俺のものにしたかった》」
しばしの沈黙。画面奥のカーテンの揺れが止まり、代わりにいつのまにか掻き消えていたヒグラシが再び聞こえ始める。男子生徒は怠そうに窓側へ首を傾けた。首筋にも浮いた青痣が痛々しい。ヒグラシの声が大きくなる。男子生徒はおもむろに右手を挙げ、首と頭部の継ぎ目を掻いた。
「《いや。そんな話があるわけねえな。本当は違う。本当はもっとシンプルだ》
」
「《気に食わなかった。見てると苛々した。
「《『見てないふり』も下手だ。
「《あの目が嫌いだった》」
「《──あの目が》」
それまでほとんど感情のなかった表情が突然曇る。砂利を噛んでいるような、それを無理やりにでも嚥下しろと言われているような、不快極まりない顔。ふ、と強張りが解け、男子生徒は口角だけを引き上げて笑った。
「《いや、違う。本当はそんな話じゃない。そんな話があるわけない》」
己の発言を鼻で笑い、窓の向こうを眺めながら訥々と続ける。ヒグラシの声が大きくなる。
「《生意気だった。態度が鼻についた。見てるとムカついた。のうのうと笑ってるのが許せなかった》」
うまい生き方も知らないくせに。
理不尽からの逃げ方も知らないくせに。
──だから。
「《──……包帯を巻くような真似が俺にできると思うか》」
「《今更無理だろ。マッチポンプにしたってもう少しうまくやる》」
「《──あいつが、髪を切らなかったのがいけないんだ》」
「《髪を切れって言ったんだ、俺は》」
カメラは言い澱んだ男子生徒を映し続ける。横を向いているせいで、この固定カメラからでは表情の全貌は分からない。
ヒグラシの声が大きくなる。陽が傾き始めた。斜陽が差し込み、鋭利な橙色が男子生徒に刺さる。沈黙は数十秒続き、男子生徒はようやくカメラと視線を合わせた。
「《……もう十分だろ。他にどんな動機がある? どんな動機なら納得する?》」
「《言っただろ、懺悔でなければ告白でもないって》」
「《憶測だよ。
「《アイツを殺したのは、俺だ》」
カメラ越しに男子生徒の両目がしっかりと、こちら側──スクリーンのこちら側を捉えた。白目の毛細血管が切れて、一部が赤く染まっている。青痣を作ったのと同じタイミングで怪我をしたのだろう。中身のない表面的な笑みが目元に作られ、男子生徒は右手を広げて訴えた。
「《これで満足か?》」
「《好き勝手なこと言わせやがって》」
「《やっぱりオマエ、バカだよ》」
「《だって、オマエにはこういうふうに見えてんだろ》」
「《……『見なかったふり』ができないんなら、せめて正しく見ろよ》」
「《──俺のことも》」
なあ、と男子生徒はスクリーンのこちら側へ向かって煽る。かさついた一人芝居は続き、男子生徒は沈黙の合間にぽつりぽつりと似たような意味合いの台詞を吐き続けた。
「ふん、くだらんな。馬鹿馬鹿しい」
座席には誰ひとり座っていない。フィルムだけが淡々と回されていて、滑稽なのはこの状況だけだと宿儺は鼻で嗤う。
「これを見たところでなににも成らんだろうに」
防音扉の蝶番がぎいぎいと啼いた。出入り口は癒着したと真人は言っていたが、それを仕掛けた張本人はになってしまった。
「
──なけなしの呪力を用い強制的な干渉に挑んだ結果、真人はかたちを保っていられず自己崩壊を起こした。座席の下で呪力の玉粒を撒き散らして、むごたらしく息絶えている。ひとつのイメージが力尽きただけに過ぎないのだから、死、という表現はこの場合ふさわしくないのだろう。
「先刻、蛻の殻だと言ったな。オマエの見解によると主体は俺であり、小僧はオマケでしかないと」
宿儺は防音扉を開け、振り返らないままに告げる。
「見当違いもいいところだ。書物から得た知識がその程度ではたかが知れる」
扉の隙間から青色が差した。深い海の青色を模した照明。壁一面の巨大な水槽を浮遊する、クラゲの群れ。──午前十時の水族館だ。広がりに広がった生得領域の中心にある、吉野順平の基底となる場所。宿儺は映画館も水族館も知らないが、そのどちらも、美しさの幻影を顕す場所だというのは理解できた。
つくりものの物語に、つくりものの海。だがそれら贋作のほうが、ときに現実を遥かに凌駕する美しさを持つ。
宿儺は扉を通り抜けて先へ進む。襟巻きを後ろへなびかせ、薄い唇をほとんど動かさずに呟いた。
「──空蝉から生まれ出でるものは、空洞の蝉に決まっている」
重い扉は静かに静かに、ゆっくり時間をかけて閉じた。
上映はまだ続いている。スクリーンから発せられるメッセージを受けとる者はひとりもいない。
「《──ははっ、冗談に決まってるだろ。バカじゃねーの》」
ただそこに、懺悔でも告白でもない、勝手な憶測と妄想があるだけだ。
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