悠仁はきつく己の拳を握り絞める。爪が肉に食い込んで、いまにも血が流れそうだ。力の込められた関節部分が赤々と染まり、怒りの色を濃厚に反映していた。
「黙って見てろって言うのか、こんなのを」
下唇を噛む。悠仁は順平が嬲られている現場を、最初から最後まですべて見ていた。
──河川敷、まだ髪が伸びる前の順平へ触れようとした直後。世界がぎゅるぎゅると旋回し、悠仁は気付くとどこかの学校の校舎裏に立っていた。知らない場所だ。悠仁が先日まで通っていた仙台の学校でも、高専の敷地内でもない。土埃を被った机と椅子が乱雑に置かれていて、足元にはタバコの吸い殻や灰がいくつも転がっている。ここで誰かが隠れて喫煙しているのだろうことは容易に予想がついた。それらをまじまじと観察していた矢先、校舎の影から男子生徒四人に順平が引きずられてきて──。
「口出しするのは自由だが、いくら吼えたところであれには届かん」
頭上から宿儺の声が降ってくる。宿儺は悠仁を模したヒトガタとなって現れていて、机と椅子の山の頂上に腰を下ろし、この場を見下ろしていた。
「……出てくんなよ。上から偉そうなこと言いやがって。干渉できないんじゃなかったのかよ」
「呼ばれたから出たまでだ。なに、肉体の有無はここのとは無関係なようだったのでな。それに、干渉できないのではなく、干渉しないだけだ。俺の温情だぞ、喜べ小僧」
「へえ、そりゃご苦労なことで」
──一方的な
「……なあ、順平」
「…………」
ひゅー、ひゅー、と水溜りからか細い呼吸音が鳴っている。酷い暴力に曝され、体力も精神力も根こそぎ奪われたのだろう。靴で蹴られた跡が全身のあちこちに浮き出ていて、痛々しくて見ているこっちまで息が苦しかった。悠仁はおそるおそる名前を呼ぶ。
「順平」
「……」
返事はない。鳴き出した蝉に掻き消されて聞こえないのではなく、そもそも聞こえるはずがないのだ。そうだとわかっていても、声をかけずにはいられなかった。
「……順平、俺は」
──俺は。
言葉の続きが出てこない。なんと言えば届くのだろう。喉よりもずっと奥、胃袋のずっと底のほうで、伝えるべき感情たちがごろごろとした塊になってくすぶっていた。取り出そうにも途中でつっかえて、バラバラにほどけて、口のなかで霧散してしまう。
「……、ぅ……」
悠仁が口を半開きにしたまま硬直していると、順平がわずかに身じろぎをした。痛みが少し落ち着いたのか、瞼の切れ目がこわごわと持ち上がる。が、その両目は焦点が合っておらず、悠仁はもちろん他のなにものも映していない、空っぽの瞳だった。
「──
ぞく、と悪寒が悠仁の背筋を貫く。温度のない殺意で構成された、吐息混じりの低い声。順平の体が左右に振れて仰向けになり、痰を掻き出すように咳を吐いた。顔面は酷い有り様で、濡らされた前髪が貼り付き、隙間から赤い腫れが見え隠れしていた。
「ころしてやる。くそ、あいつら、ころして……ころして、やる。なんで、なんで……くそ、くそ……」
呪詛をひとつ吐き出すごとに順平の目から涙がぼろぼろと溢れ出ていく。両手が顔面を覆い隠し、悠仁からは順平の表情を知ることはできなくなった。堪らず悠仁は椅子から降り、傍らで膝をつく。
「なんで……なんで、くそ、ころしてやる……!!」
「──順平!」
ぐしゃぐしゃに泣き崩れる順平に向かって手を伸ばす。少しでも痛みや苦しみを緩和させてやりたかった。ところがどこへ触れるのが最適解か分からず、悠仁の手は空中でぴたりと止まる。
──触れていいのだろうか。
──触れるとしたら、どのようにすればいいのだろうか。
──そもそも、触れてもすり抜けるのに、なぜ触れたいと思うのか。
「……宿儺」
「なんだ」
悠仁は順平から目を離さずに、背後の椅子の山に居るだろう宿儺へ呼びかける。
「ここは、順平の、記憶の中なんだろ。俺と会うずっと前の……俺が、知らない、」
悠仁は吉野順平についてほとんど何も知らない。これまでどんなエピソードを生きてきたのか、知らない。けれど──順平がなにを大事にしていて、なにが好きで、どんなふうに笑うのか悠仁はありありと覚えていた。
『悠仁にはちゃんと見せるよ』
『だって、たぶん僕、虎杖くんのことちょっと好きだったから』
存在しなかった仮想の台詞がリフレインする。見せたかったものとはこれなのか。悠仁はどうしようもない虚しさに、目元を詰まらせる。
「順平の……傷痕、なのか」
「知らん。自分で確かめろ」
「……ソレばっかだよなオマエ」
「再三返すが、俺は興味が持てないものに時間を裂くほど酔狂ではない。答えを出すべきは俺ではないしな」
宿儺は退屈そうに大欠伸をする。悠仁はそれに苛立ちを感じたが、そんなの些細なことだ、いまはそれよりも優先すべきことがある、と自身の手指すみずみへ呪力を巡らせていく。
「魂に直接触れる気か」
「……そうだ。本人に聞いて、確かめる」
悠仁の手のひらが内側から発光し始める。宿儺はその様子を上から眺め、満足そうに微笑んだ。
「丁重に扱えよ」
「わかってる」
熱源を纏った手のひらが、そうっと順平の手首に触れる。
「(呪力でなら、触れる)」
触られている感触に気付いたのか、順平の手の震えがぴたりと止んだ。すすり泣く声も徐々に弱まり、緊張が解けて筋肉が緩む。泣き濡れた顔を覆っていた両手がずれ、脅えで満たされたが露わになった。
「………………──ゆうじ……?」
目が合った。
刹那。
──どろり。
地面が溶ける。校舎の壁が融解する。机と椅子の山がぐずぐずに崩れて液状化する。魂に触れたことで生得領域に揺らぎが生じているのだ。触れた箇所がじわりと熱を帯びた。人肌だ。生きている温度だ。
順平は驚きと安堵の入り混じった視線で悠仁に問いかける。
「……ゆうじ、なん、で」
「なんでって、そりゃ」
どろどろに溶けていく世界のなかで、たった二人だけが輪郭を保っている。足場ごと沈む体。飲み込まれる肢体。細く絞り出された順平の問いに、どう答えるかなどとっくに決まっていた。
「だって、俺も、順平のことが──」
「まだだよ悠仁」
その声は正面に横たわる順平からではなく、悠仁のすぐ後ろから聞こえた。
「悠仁、もっと、ちゃんと見て。僕のこと、もっとよく考えて」
いつのまにか宿儺は気配を消している。液状化した地面に体が沈み切る寸前、振り返った悠仁が見たのは、丈の合わない黒い服を着てこちらを冷たく鋭く見下ろす、吉野順平だった。