「あ、」
「……あ」
白い煙を吐く口もとに、タバコを持った指先。しまった、とお互いに思ったのか、場の空気が凍りつく。校舎裏になど誰も来ないとたかを括っていたのだろう、伊藤はジッと順平を見つめ返した。
「なにしに来た?」
「椅子を借りにだよ。体育館のが、足りないって言われて」
「……ふーん。チクんなよ」
伊藤は淡々とした声色と視線で、順平に釘を指す。
順平が校舎裏に立ち入ったのはたまたまだった。そこには使わない椅子や机が野ざらしにされていて、必要に応じてその都度自由に持ち出していいことになっている。とはいえそんな土埃まみれの椅子など誰も借りたがらないため、校舎裏はもともとが
「……別にチクんないよ」
「嘘つけ。するだろオマエ」
「しないってば。伊藤くんがどうなろうと興味ないしさ」
順平はずかずかと奥へ進み、椅子を何脚か重ねて抱える。
──伊藤翔太はクラスメイトだ。ここ三代で成り上がった家の生まれだと、風の噂で聞いた。顔立ちもまあまあ悪くなく、社交的で愛想も良いほうだ。少なくとも表面上はそうだろう。順平はなんとなくではあるが、この現場を目撃する以前からずっと、伊藤のその表面的な振るまいが妙に引っ掛かっていた。
椅子を抱えた状態で伊藤に振り返る。
「それとも、僕にチクってほしいわけ」
伊藤は校舎の壁に背を預けて座り込んだまま、白い煙をまっすぐに吐いた。細い目が無言で順平を捉える。
「(ああ、またなにか僕は余計なことを口走ったんだろうか)」
伊藤はタバコを持った左手で口元を覆い隠し、ぼそりと呟いた。
「……
教室にいるときの伊藤のイメージとはかけ離れた声色だった。それには一切の虚飾がなく、おそらくはこっちのほうが本性なのだろう。が、あまりに意外なその反応に虚を突かれ、三秒の間を置いて順平はほとんど反射で答えていた。
「は? なにそれ、気持ち悪」
「──ははっ、
「……あ、そう」
伊藤はなにが面白いのかけらけらと笑う。ふいに見えた本性はすぐさま身を潜め、教室でよく見慣れたそれに瞬時に切り替えられていた。
──くだらない奴だ。なんて底が浅いんだろう。前々から嘘臭い奴だとは思っていたが、臭さどころか本当に全身嘘まみれだとはさすがに思わなかった。愛想笑いを返す気も起こらず、順平はその場から立ち去ろうと背を向ける。
「──そうだ。伊藤くん、タバコやめなよ」
もうそんな季節になるのか、ジワジワと蝉が鳴き始めた。さっさと退散するつもりだったのに、なぜそんなことを口走ったのかはわからない。嫌味を言ったつもりかもしれないし、普段会話しないクラスメイトとはじめて一対一になって、雑談でも交わしたくなったのかもしれなかった。順平の台詞に伊藤はぴくりと眉を動かし、怪訝そうに聞き返す。
「なに、俺の心配してくれてんの?」
「そんなわけないだろ。ていうか、もっとキツく脅されるかと思った」
「あ? なんだって」
伊藤は立ち上がり順平へ近寄る。まずったな、と順平は内心で舌打ちし、少し長丁場になりそうだと見込んで一旦椅子を下ろす。向き直ると、伊藤は順平のすぐ目の前まで接近していた。
「吉野はさぁ……俺が、脅しとかやりそうな奴に見えんの?」
じゃり、と上履きが砂を踏む。伊藤は目を細めて冷淡に問いかける。身長差のせいで伊藤からの視線にはわずかに角度がついていて、狐のような顔だ、と順平は見下ろされながらも上の空で考える。
「俺が、そういうのに見えるかって聞いてんだよ、吉野」
「……見えるけど」
正面から詰め寄られ、順平は思ったことをそのまま口にした。
「……吉野って、バカだろ」
「伊藤くんよりは成績良いよ」
「違ぇよ。……はー、もういいわ。俺はオマエの『見なかった』ことにしてやるからよ。……オマエも、俺のこと『見なかった』ことにしてくれよ。なあ」
伊藤は右手で額を押さえ、どこか苦しそうに言葉を紡ぎ出した。しかめっ面から一転、へらり、と気の抜けた顔で順平に笑いかける。その表情がなぜか情けなくみっともないものに思え、順平は今度は少し考えてから口を開いた。
「……見られて困るくらいなら吸わなきゃいいのに。そもそもこんなところでコソコソやってるのが悪いんじゃんか。いいよ、『見なかった』ことにしてあげる。なにも『見なかった』から、僕はなにも言わない。見てないんだから言うこともないしね。ただ、灰とか吸い殻は自分でなんとかしなよ」
一度置いた椅子を再度持ち上げ、じゃあね、と順平は伊藤に告げる。
「わかったよ。……吉野、オマエ、髪切れよな」
伊藤は順平の後ろ姿に向かってぼやく。が、順平にはもう聞こえてないらしく、振り向くだとか返事だとかの反応は一切無かった。伊藤はしばらく自分の左手のタバコを見つめ、地面に落として足でその火を踏み消した。
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