ゴロゴロと引きずる車輪がアスファルトに削られている。荷物はこのキャリーケースと背中のリュックひとつぶんだけ。島での寮生活が長かった優介は私物らしい私物をほとんど持っておらず、ほぼ身ひとつで出てきたと言っても過言ではない。
四月、童実野町。大学受験の際にもこの町を訪れてはいたが、改めて見渡すと都会らしくヒトがあちこちに溢れている。賑やかと言えば聞こえはいいが、それは騒々しいことの裏返しだろうと優介はひとりごちた。軽く人酔いしながらも、手元の地図を確かめながら新居を目指していく。
「(えっと……次の角を右で……。似たような建物が多くてどれがどれだかわからないな……)」
さっきから同じところをずっとぐるぐるしているような気がする。灰色のビルはどれも同じに見え、いま自分がどの方角を向いているのかピンと来ない。この地図はどっちが上なんだ。今朝の今朝までフェリーに揺られていた体は早く休みたがっている。
「(地図で見たときは把握できてたんだけど。実際歩いてみてどうかっていうのは絶対違うよなぁ……。……あ、そういえば)」
優介はふと立ち止まり、リュックから封筒をひとつ取り出す。中に入っているのは吹雪から貰った合鍵と、その住所を書いたメモだ。合鍵は一度ポケットにしまい、住所の紙を開く。
「(確か、道路を挟んでほとんど向かい、みたいな位置だったような……)──あ、これか」
ぱ、と横を向いた瞬間、目に入ったのはマンションのエントランスだった。手元のメモと同じ建物名を冠しており、ここが吹雪の住んでいるところだと瞬時に分かった。マンションの頂点はずいぶん高いところまで上に伸びている。吹雪は八階に住んでいると言っていたが、それより上の階もまだまだありそうだ。
吹雪の家がここならば、と道路の向こう側へと視線を落とす。
「あぁ、あった! やっと見つけた! ずいぶん迷ってしまった!」
車が来ていないことを確認し、キャリーケースを引きずりながら道路を手早く横断する。三階建ての素朴なマンション。大学の入学手続きや卒業試験、独自研究のレポートなどに追われてしまい、ギリギリ滑り込みセーフでなんとか見つけられた物件だ。特にボロくも新築にも見えない、ありふれた建物に見えた。
駐輪場の横を抜け、外階段をキャリーケースと一緒に上っていく。三階建ての三階、302号室。昼間に不動産屋から貰った鍵を差し込み、そっとドアを開けた。
──今日からここが俺の家だ。
家具家電が備えられているワンルーム。一人暮らし用の洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、エアコン、小さく背の低いテーブル。椅子はなく、床に直接座るスタイルが想定されているようだ。ロフトがあり、就寝用のスペースを有効活用できる。窓にまだカーテンはなく、太陽光が燦々と部屋全体を明るくしていた。
優介はリュックを降ろし、フローリングに寝転がって大の字になる。歩き回ってうっすら汗ばんでしまった背中に、ひんやりとした床の温度が気持ちいい。そのまま息を深く吸い、ゆっくりと吐く。ロフトがあるせいか天井がやたら高く見えた。部屋は最低限の物が揃えられている。これを殺風景と言う人もいるだろうが、却って無駄がなくて広々としているのだ、と優介は思った。無駄がないというのは足りているということだ。何も持っていない自分にはこれくらいでちょうどいい。
両親はとうの昔に優介を捨て置いていった。頼れる親戚もおらず、デュエルアカデミアの入学までは施設で育った。中等部は奨学金で通い、高等部では授業料免除の特待生だった。アカデミアを卒業したらどうするのか、そう考えたことは何度もある。身寄りもなくお金もなく、自分が持っているのはせいぜいデュエルモンスターズに関する才能と、光の天使の精霊《オネスト》だけだと繰り返し噛み締めていた。
ごろり、と部屋の広さを堪能するように寝返りを打つ。自分が帰れる場所はどこにもなかった。定住期間の長さで言えばアカデミアが一番長いが、あそこはあくまで学校だ。学生としての失敗ならいくらでも許容してくれる、感謝してもしきれない誇らしい母校だが、家とは呼べない。
あえて挙げるとすれば──ダークネスに足を踏み入れたときの、クリアーワールドの空間はとても心地がよかった。将来への不安であるとか、そういった煩わしいことの一切を忘れられたのだ。青すぎる空の青さも、息ができないほどの苦しみも、幸福についてのさまざまな名前も、なにもかも。あの空間はとても澄んでいて──透明で、何もなかった。手にしていた数少ないものすべてを手放すことは、己を真なる自由へ解き放つことだと信じていた。少なくともあのときは。
あの空間へ戻りたい、と感じることは現在でもある。ただ、あの澄み切った安心感よりも、明確に羨ましく思うものができたのだ。遊城十代とヨハン・アンデルセンとの間に垣間見えた糸のような、欲しい、もう一度手に入れたい、再び自分のものにしたいと思うものが。
それだけが、いまの藤原優介を現世に留めている。
他のすべてを掛けても取り戻したい、やり直したいあの関係に替えれば、あれだけ嫌悪していた現世の煩わしさもなんとかやりこなせた。
だからこそ、子供じみた感情なんて忘れなければいけない。忘れて、棄てて、見えないところに切り離しておかなければならない。
窓から差し込む光が暖かい。ふんわりとした春の陽気が部屋に立ち込めている。寝転がる優介を照らし、優しく思考力を奪っていく。まだ埃ひとつない綺麗な床をぼんやり眺めながら、優介はゆっくり目を閉じた。深呼吸の穏やかなリズムは斜陽に溶け、やがて寝息へと変わっていく。
*
どこかで音楽が鳴っている。聞き覚えのある曲だ。そうだ、これは吹雪から押し付けられた着メロと同じ曲だ。『ボクからの着信はボクからだってすぐ分かるようにしてね』とわざわざ個別に設定するよう、そう言われた曲だった。曲名は知らない。有無を言わせない雰囲気で頼まれたものだから拒否することもできず、優介は律儀にその吹雪専用設定を維持していた。そんなに自分からの着信を分からせる必要があるのだろうか、と音にうなされながら寝返りを打つ。曲がずっと鳴り止まなくてうるさい。
「──あっ!? 吹雪!?」
ばちっ、と目が覚めて跳ね起きる。
「わっ、うわあ! 夜になってる!」
部屋は真っ暗になっている。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。電気も点けていなかったため、窓から見える家々や街灯のあかりが暗闇にぽつぽつと光っている。闇の中、まだぼんやりする体を動かしてリュックを手繰り寄せた。確か携帯電話はリュックのサイドポケットに入れていたはずだ。ランプが虹色に光っている。この光り方も、着メロと合わせてそう設定するよう吹雪に言われたものだ。優介は急いで電話に出る。
「もしもし、吹雪!? ごめん、俺寝てたみたいで──」
『あーやっと出た! あはは、そんなことじゃないかなと思った。いいよ、だって今日出てきたばかりなんだろう? 疲れて当然さ』
電話口の吹雪は笑って答えている。優介の寝坊など全く気にしていないようだ。それでも申し訳ない気持ちが先立ち、口調に心苦しさが滲み出る。
「でもこんな寝るつもりじゃ……もうちょっと早くそっちに行こうとは思ってたんだよ、本当に。忘れてたわけじゃなくて」
『大丈夫、そんなに気にしないでいいんだよ藤原。ところでいまからこっちに来れそうかい? 寝てたってことは夕飯もまだだよね』
きゅるる、と腹が鳴った。そういえば夕食どころか昼食も食べていない。フェリーから降りた直後はまだ船酔いしていて食欲が湧かなかったのだ。
「うん、まだだね」
『亮もいるんだけどさ、せっかくだし三人でご飯食べに行こうよ』
「えっいいのかい! 行くよ!」
吹雪の申し出に思わず声が弾んだ。三人で食事なんて何年ぶりだろう。
『よかった。それならエントランスの前まで来てよ。ボクたちも降りていくから。そこで待ってて〜』
じゃあまたあとで、と電話を切る。履歴を見るとおよそ五分おきに吹雪からの着信があり、どれだけ自分が深く眠りこけていたかを知ってぞっとした。ばちん、と強めに携帯電話を閉じる。
すぐ出るのだから電気を点ける手間が惜しく、とりあえずこれだけあればいいだろう、とリュックの中から財布を手探りでひっつかむ。途中、置きっぱなしにしていたキャリーケースに膝がぶつかり、やっぱり電気を点ければよかったと軽く後悔した。床で寝ていたせいか背中が痛い。
靴を履き、玄関を開ける。外は晴れた月夜だった。優介は少し乱視が入っているため、月の輪郭はいまいちはっきりとは見えていない。ただ形が多少ぶれていようが月の明るさ自体は変わらないのだ。春の朧雲に霞み、ぼんやりと白い光を放ち続けている。
あの場所、あの果てのない青空に浮かべて棄てた月も、ひどく白かった。
──これまでと全く違う、新しい環境へ来たのだ。自分は変わっていかなければならない。子供じみた考えを改めて、大人になっていかなければならない。優介は外階段を降り、すぐ向かいの吹雪が住むマンションへ向かった。
***