珍しくよく晴れた月夜だった。
この家は思い出ばかりで溢れている。右を見ても左を見ても、喉元を堰き止められているような痛みで感覚は支配されている。
エドは一冊の色褪せた手帳を手にしたまま、ぐるりとリビングを見渡した。そろそろ日付も変わるころで──そうだ、今日でサマータイムが終わるのだった。窓の向こうにある時計塔はまだ動いてはいるものの、あと数分もすれば針は十二時を指してその動きを止めるだろう。
髪を掻き上げた拍子に、薄く柔らかいパジャマの袖からキラリと腕時計が覗いた。
「(久々にロンドンへ帰ってきてみればこれか。時差ボケには気をつけないとな)」
現在エドは日本をメインに活動している。事務所が日本にあることや、国内でのタレント活動が増えてきていることが主な理由だ。だがワールドリーグには海外出張も多い。エドはそういった機会を利用して、DDと暮らしたこの家を第二の拠点としていた。
しかしながら、今回ばかりはそれが理由ではない。
「……」
つくづく、一人でいるには広すぎるほどの家だ。
DDは広い家が好きだった。チャンピオンとして名を上げていくうちに賞金も増え、暮らしは日に日に裕福になった。その恩恵は養子であるエドにも過不足なく与えられ、それを何の疑問にも思わなかった。そうやって建てられたのがこの家だ。
「(感傷的になるなと言うほうが無理な話だ)」
十年。
それが彼と過ごした時間。拾い育ててもらったと同時に、嘘を吐かれていた時間でもある。
「(まったく、息が詰まる……)」
エドは誰もいないリビングで顔を沈ませ、ぱちん、と照明を消す。そろそろ眠らなければ、と自室へ繋がる階段を昇っていく。
東京とは違い、深夜のロンドンはとても静かだ。時折パブ帰りの酔っ払いが通るものの騒音はその程度で、この街の夜は正しく眠るためにある。
今日は月が明るい。照明を消していても、窓から差し込む月明かりで十分に夜目が利いた。
自室のベッドへ腰掛け、手に持ったままだった古いノートを開く。ぱら、ぱら、と今日の昼間にそうしたように、適当にページをめくっていく。
父のアイデアノートが新たに見つかったことと、DDの形見が海から回収された知らせが届いたのは、ほとんど同時だった。
実父のものも養父のものも、エドはそのどちらをも引き受けなければならない。幸か不幸かスケジュールも空いており、断る選択肢はほとんどないに等しかった。事実と直面する気構えもできないまま押し流されるように渡英し、くだんの物をそれぞれ受け取り、こうして一人で夜を過ごしている。
「(ああ、懐かしい。父さんの筆跡だ。父さんの絵だ……)」
手帳はインダストリアル・イリュージョン社の倉庫から見つかったという。《
「(はは、ダイヤモンドガイは最初はこんな姿だったのか。目がギラギラしていて今と全然違うな……)」
エドはベッドへ寝転がる。ノートのあちこちに父の痕跡がある。イラストやカード名の候補だけでなく、端々には仕事のスランプを嘆く声や、日常生活の買い物メモと思しき走り書きまであった。父の息遣いがそのまま聞こえてくるようで、エドのまなじりは自然とぬくもりに満ちていく。
「! ……これは」
ページをめくる手が止まる。中央に描かれた青年のキャラクターに視線は吸い込まれていった。
色鉛筆でわざわざ白銀色に着彩された髪に、一際印象的なウルトラマリンの瞳。そのすぐ頭上に書かれた単語を読もうとした、そのとき。
窓の向こうをなにか黒い影が過ぎった。エドはベッドから訝しげに身を起こす。地上316フィートの時計搭の先端、満月を横断するように、その何者かが巨大な両翼を広げている。
「あれは……」
反射的に窓を開けていた。十月の終わりの、少し肌寒い澄んだ風が手の甲を撫でる。あんな場所に人が立つわけがない、間違いに決まっていると目を凝らそうとした刹那。カーテンがぶわりと風を含んでエドの視界を隠した。
「……十代」
ページがばらばらにめくられていく最中、自分の声が震えていたことにハッとする。
──あれが遊城十代だと、どうしてそう思ったんだ?
なぜその名前が出てきたのか分からなかった。さすがに翼は見間違いだったようで次の瞬きの後には消えていたが、その奥の人影は未だ真っ黒い人影のままだ。
だというのに。
「十代っ!!」
確信があった。あれは遊城十代だ。オシリスレッドの赤いな制服を着たっきりで旅に出た、自分と同じHERO使いの、運命を渡り歩く愚者。
「十代! お前っ、遊城十代だろう! どうしてこんなところに居るんだ、今すぐ降りてこいっ、ボクと話をしろ!!」
窓から身を乗り出して吠える。こんなところから叫んだって届くわけないだろうに、と頭のどこか冷静な部分が告げている。