よすがらを往く─02.運命だった子供たち - 1/2

 療養所の中庭で見た斎王の姿を思い出す。
 端的に言えば──怖い、と思った。

 入院着でふらふらと中庭の花に惑う姿。長い深紫の髪はしっかり陽光を受けているのに艶はなく、手の甲や首筋には病的に痩せた骨が浮き上がる。中庭の白い石楠花が惜しげもなくその羽衣を広げる傍らで、斎王は自身の生命力の一切を喪失して立っていた。

 息をしているだけの死人、幽霊、死神。そういった形容詞が次々と脳裏に湧き上がる。

 さいおう、と呼ぼうとした名前は発声されることはなかった。開いた口は代わりに空気を食み、斎王がこちらを向こうとした次の瞬間には、その場から逃げ出してしまっていた。

 エドは二階の窓をじっと見上げる。

 一年前も療養中ではあったが、まだ覇気があった。エドが隙を見て見舞いへ行くたび、今日は比較的体がラクなんだと斎王は穏やかに笑った。医師や看護師からも、症状が少しずつ良くなってきていると聞かされていた。退院する日も近そうだと談笑した矢先のことだ。

 人伝てに聞いた話ではあるが──斎王は、自ら悪魔へ身を委ねに行ったのだという。

 「(……仕方ないだろう、ボクにだって余裕がなかった。あのとき会ったところでボクが斎王にしてあげれることなんて何もなかった)」

 中庭での悪寒をエドははっきり覚えている。

 直感的な抵抗感。青白い肌も光を宿さない瞳も。これと向き合えば自分自身が壊れてしまうんじゃないか、壊れた瞬間の決定的な音を、斎王に聞かれてしまうんじゃないか。

 怖い、と思ってしまった自分が一番恐ろしかった。

「(会えるわけがないんだ。まだ……まだ覚悟ができていない。今会ったとしても、覚悟が未熟なことをきっと悟られてしまうから、だから……)」

 やつれた斎王に恐怖している場合ではなかった、あそこで逃げ出すべきではなかった。本能的に拒絶してしまったという強い後悔が、杭となって心臓に深く食い込んでいる。

 あそこで逃げ出すことなく、支えに行けていたら何か変わったのだろうか。

 斎王をあんな心神喪失にしてしまったのは、他でもない自分なのではないか。

「(……いずれにせよ今日はだめだ。このあと仕事もあるのだし……)」

 空っ風が吹き荒れる。まるで、布で覆いきれない部分の肌をずたずたに切り裂こうとしているようだった。足元に落ち葉が吹き溜まっていく。エドはマフラーの裾を直し、さっと踵を返して歩き出した。

 

***

 

 運転席のDDは唐突に「船が欲しいな」と呟いた。

 船ですか、とエドが隣で聞き返すと、そうだ、とハンドルを片手で操作しながらぬるい返事が返される。

「ヨットやクルーザーですか?」

「いや、少しイメージが違うな。そういうのも小回りが効いていいが……もっと大きな船がいい」

 ふうん、とエドはその横顔を眺める。口の端で咥えられたタバコの火が赤い。

 DDは慣れた動作で車を走らせ、もう片方の手でタバコを持ち息を吐いた。少しだけ開けられた窓の上部から煙が逃げていく。

「どうして急に?」

「なんとなくだ。金は有り余っているし、どうせ税金で持っていかれるくらいなら買い物したほうがいいと思ってな」

「まあ、そうとも言えますが」

 話の核心に辿り着かない会話に退屈し、エドは助手席で片肘をつく。車窓からは街明かりがゆっくり後ろへ遠ざかっていく景色が見える。そういえばこの近くに新しくサンドイッチ屋ができるらしいとどこかで聞いたのを思い出し、視線を街へまさぐらせた。外装は出来ているもののまだ開業前のようで、店内は布で覆われているのか何も見えなかった。

「デカいのがいいな、大型のフェリーとか。エドはどう思う?」

「どうと聞かれても。うーん、そうですね、例えば……たくさんの人を招待して船上パーティーをするとか?」

「ああ、そういうのもいいな。船上パーティー。ドレスコードを設けてダンスパーティーを開いて、楽団を呼んで演奏させる特別豪華なやつだ。特注のシャンデリアも吊るそう。いかにもセレブっぽくていい」

「っぽく、って。そういう言い回しは品に欠けますよ」

「冗談。冗談だよ」

 ははは、とDDはハンドルを回しながら笑う。

「『タイタニック』って映画があるだろ。何年か前にあれを見て感激したのさ。貧民街出身の男がたまたま豪華客席へのチケットを手にして、上流階級の暮らしを垣間見る。あんな世界があるなんて俺は想像もしなかった」

 道路をゆったり大きく曲がって、赤信号で停車。歩道には今日の試合を見た観客なのだろう、プロデュエリストのグッズを複数身につけた通行人が目に止まった。名前が刺繍された簡単なストラップがいくつも鞄に下がっており、その中にはエドのものもDDのものもあった。

「俺の昔からの憧れだよ。それだけさ」

 歩道にあなたのファンがいますよ、と教えようとしたが、DDの口ぶりになんとなくの抵抗感を覚えてエドは口を噤んだ。デビューしたての頃のエドであれば迷いなくそう指さしていただろうが、さすがに十四になったのだ。昔と今の自分は違う。

 エドは肘をついたまま視線だけをDDへ移す。