午前10時のユウレイクラゲ─04.まどろみパラレル叙述伝 - 1/2

 ひっそりと夜が明け、朝焼けの光が窓に差し込んでくる。薄紫に染め上げられた部屋。質素な家具と、床には中身が入ったままの段ボールが二箱。ハンガーにかけられた黒い制服には埃ひとつ付いていない。

 丸く膨らんだ布団はかすかに上下し、深い寝息を立てている。布団の合間から覗く、まっすぐに通った鼻梁。黒く長い前髪が被さっていて、さながら美しい死体のようだ。睫毛がぴくりと震え、両瞼が静かに開かれる。

「(……朝だ)」

 順平は横になったまま、視界に映る部屋をぼんやりと眺める。見慣れない部屋だ。

「(……朝?)」

 思考がぼんやりしてまとまらない。ここはどこだ。自分の部屋ではない。順平は昨日なにがあったか思い出そうとするが、深く霧がかかったようでなにも見えず掴み所がない。わかるのは、起きる寸前まで見ていた夢の話だけ。それ以前の記憶は不自然なまでにぷっつりと消去されていた。

「(真人さんが学校に来て、それで……)」

 ──それで、なにが起きたのだっけ?

 順平は枕の位置を調整し、体を丸めて布団から部屋の様子を観察した。壁には真新しい黒の制服が吊るされている。徐々にピントが合わせられるのと一緒に、思考にあれだけ深く立ち込めていた霧が突然晴れた。──そうだ、慌ただしく事が進んだためにちゃんと飲み込めていなかったが、悠仁の誘いで昨日高専への編入が決まったのだ。

「(……死ぬ夢なんて縁起でもないな。真人さんが僕を裏切るわけないし)」

 ──里桜高校での事件は、帳に気付いた『窓』らの到着によりなんとか最悪の事態を免れた。事件中に校内に居た生徒・教員らのほとんどは催眠毒により眠っていただけであり、後遺症も事件前後の記憶が多少曖昧になる程度で死者数は零。一名、左腕に麻痺障害が残った生徒が居たものの、事件の規模を鑑みれば最小限の被害だと言えた。

 舞台裏で暗躍する人物にコントロールされていたとはいえ、吉野順平は暴動の実行犯である。即座に身柄を確保されたが、当時現場にいた呪術高専の生徒・虎杖悠仁の証言と、任務として関わっていた一級術師・七海建人の申し出もあり、その日の夕方には高専への編入が決定した。

 実行犯の事実は揺るがないものの、計画を提案した主犯人物による洗脳、未成年という保護されるべき立場を考慮され、比較的軽度の処遇に留まっている。拘束らしい拘束もなく、部屋に鍵がかけられている様子もない。

「(生まれ変わる夢だと思えばいいんだ。……そうだ、生まれ変わって、違う人生の続きを生きる。そういうシナリオも悪くない)」

 極度の疲労と精神的負担により、寮に到着後、順平はすぐさま泥のように眠った。布団にくるまったまま姿勢を少し変える。ベッドサイドの時計はまだ朝六時半を指していて、予定の時刻にはまだ早い。秒針がちりちりと意識を刺激する。実家から持ってきた段ボールの開梱を始めてもいいのだが、こんな状態では思考を巡らすのも手足を動かすのも怠く、順平は再び布団に顔を埋めた。

「(そうだ、きっとそういうことなんだ……。だから、あれは夢で……)」

 悠仁による監視はまだ続いている。『任務中に友人になったのだから丁度いい』というのは建前で、処罰保留の厄介者同士で監視し合う環境にすすればいいというのが上層部の本音だった。悠仁自身の復帰も早められ、明後日にでも復学の手続きが完了するだろう。ばたばたと寮に戻ってきたせいで既になにかしら勘付かれているかもしれない。順平の部屋は悠仁の隣に配置された。

「(……でも、 母さんは夢じゃない)」

 ──吉野凪の遺体は高専により弔われる。今日の午前中に順平が聴取を受けている間に司法解剖が行われ、午後には葬儀が始まるらしい。制服が大急ぎで用意されたのは、葬儀で着るためだと聞かされた。

 順平は寝返りを打ち、壁に吊るされた制服を見る。この真新しい制服にはさっそく火葬場の臭いが染みつくだろう。ある意味、死臭と煙臭さを身に纏うのは呪術師のスタートとしてふさわしいのかもしれない。

 窓の向こうに満ちた朝日が、部屋全体にも広がっている。驚くほど静かな朝だ。

「(……汚い)」

 順平は己の手のひらをじっと見つめる。人を殺めたわけではない。けれども、母の遺体周りの血痕を拭き取り、氷嚢を並べ終えたときに、自分はこのあと人を殺めに行くのだと覚悟を決めた。目元を拭えば拭うほど自身が赤く汚れていく。自分に残されているのは修羅の道だけだと思った。

 ──突如、手のひらが血海の赤で染まる。

……ッ!!

 耳元で脈が強く鳴り始める。順平は反射的に手を握り込み、反対の手でそれを抑えた。気のせいだ。幻覚に決まっている。でももし、幻覚じゃないとしたら? 一秒でも早く洗い流したくて、順平はふらふらと備え付けのバスルームへ移動する。手の赤色も耳鳴りも気のせいだ。血の臭いが鼻腔に満ちていることも。

 

***

 

 石鹸を手のひらだけでなく手首にも、両腕にも擦りつける。皮膚の細胞の奥の奥にまで染み込んだ汚れが落ちるように。蛇口を捻って水を出す。鉄の臭いが広がる。赤が落ちない。落ちない。落ちない。また石鹸を手に取る。手のひらの皺、関節のくぼみ、爪の隙間にもくまなく石鹸を広げていく。指を一本一本丁寧に揉み込み、半ば祈るように両手を擦り合わせた。祈るように。祈る? なにを──?

 流しっぱなしの水が鼓膜を通って脳をす。ぜんぶ流れてしまえばいい。水のうねりは清潔そのもので、この両手とは大違いだ。執拗に泡立てた手を冷たい水に晒す。けれど流れていくのは表面の泡ばかりで、染み付いた赤は一向に水に流れていかなかった。爪を立てて皮膚を削る。ばちゃばちゃと水しぶきが飛び散り、不格好に服が濡れていく。水が痛い。腕に爪の痕が何本も伸びる。冷水に晒しっぱなしのせいで、体内の血液がじんじんと警告を発し始めた。それでもまだ赤が落ちていかない。もっと水を多く出さなければと蛇口を緩めるつもりが、焦りで手が滑り誤ってシャワーレバーを傾けてしまった。

「──っ、」

 冷水が頭にかかる。シャワーの水が頭部から肩、上半身、背中と水が伝っていき、足元のタイルにじわじわと広がっていく。全身が冷えたせいか息苦しさが増し、なにを吐き出すわけでもないのに咳が飛び出た。生理反応で涙が滲む。

「(……なにをやってるんだろう、僕は)」

 徐々に水温が上がり、バスルームに湯気が立ち昇り始めた。顔をあげて正面の鏡を見る。半泣きの顔の自分が映っていた。みっともなくて、情けなくて極まりない。髪の先端から雫がぼたぼたと垂れ落ちている。

 突然馬鹿らしくなり、どこからともなく笑いが込み上げた。こんなにずぶ濡れになってしまっては今更なにを言っても手遅れだ。頭を冷やすとはこういうことか。濡れて水を滴らせる前髪が視界の邪魔で、まとめて片耳にひっかける。

「……ああ、」

 鏡に映る傷。額に残された無数の根性焼きの痕だ。伸びかけていた髪で傷を隠し、それ以来自分でもなるべく見ないようにしてきた。他の誰にも、母にすら見せたことがなかった。取り繕って、なんでもないふりをした。押し付けられた烙印なんて誰にも見せられるわけがない。

「(でも虎杖くんは……)」

 ──傷を見てもなにも言わなかった。

「(僕を許してくれるだろうか)」

 シャワーが静かに降り注いでいる。頭に昇っていた血がさあっと引いていき、壁に背中を預けてシャワーに打たれるのを受け入れた。虎杖悠仁は許してくれるだろうか。人を殺めると決意した自分を。

 あのとき引き留めてもらえなければ、確実に道を間違えていた。そうでなくとも、道を間違えるには十分すぎる材料を隠し持ち続けていたのだ。自分が殺意を携えて行動したことは事実であり、否定のしようがない。

「おーい順平、起きてるー?」

「……あ、」

 廊下の方から悠仁の声がした。こんなみじめな顔で出ていけるわけがないと、順平はその場で硬直する。時間になったら起こしに来ると、昨日の別れ際に言っていた。寝起きなのか、悠仁の声色は少しぼんやりしている。ドアに鍵はかけられていなかったから、すぐ部屋に入ってくるだろう。

「あれ、もしかして風呂場?」

「ま、待って虎杖く──」

 がらり、とバスルームのドアが開けられた。

「あ」

 眼を擦っていた悠仁と目が合い、寝ぼけていた顔がぱちっとスイッチが入ったように覚醒する。簡素なタンクトップにハーフパンツといった寝巻き姿の悠仁に対し、こちらは全身ずぶ濡れだ。シャワーの音が沈黙を繋ぐ。

「えっ、あ、えっと、虎杖くん、これは──」

 妙な恥ずかしさが込み上げてきて順平はパニックを起こす。後ろ手で蛇口を閉めたが、水音が消えたことで静寂が訪れ余計に混乱が増した。充満していた湯気は外へ逃げていく。悠仁は黙ってドア脇の棚に手を伸ばし、そこからバスタオルを一枚差し出した。

「……タオル、要る?」

「……うん」

 ずぶ濡れの服から滴る雫が、タイル張りの床にぽたぽたと落ちた。悠仁の冷静な申し出に、絡まりかけていた思考が一瞬で透き通る。順平はタオルを受け取って顔を拭くが、額が丸出しなことを思い出して動きが固まる。一度見られたとはいえ、改めてじっくりと眺められるのにはまだ抵抗があった。順平はタオルで顔を覆ったまま、上ずった声で弁明する。

「ご、ごめんね、なんか変なことやっててさ──おかしいよね、服着たまま風呂とかさ」

 タオルを押し付ける手に無意識で力が入った。皮膚が引っ張られて傷痕がわずかにひきつり、淡い痛みが走る。

「ほんとはもうちょっと前に起きてたんだけど、なんか──、こわくて、」

「順平」

 体に柔らかいものが触れる。一拍置いて、それが乾いたバスタオルであり、悠仁がそれ丸ごと自分を抱き締めたのだと理解した。悠仁は順平の肩甲骨を捕らえ、すがるように肩口へ顔を埋めた。

「──こわくて当たり前だよな。昨日の今日だもん。変なこと考えちゃうのもおかしくないよ。落ち着くのはゆっくりしてからでいいからさ」

 悠仁の言葉は実直で、虚飾も嘘もなく本心そのものだと直感した。発せられた単語や口調が幼いのは実際に悠仁がまだ子供で、幼いからだ。なのにこんなにもシンプルに信じることができるのは、順平自身もまた、幼い子供だからだろう。

「……大丈夫。大丈夫だから」

 囁かれたいはどこまでも優しく、攻撃的なものは一切含まれていなかった。タオル越しに抱き締められて、二人ぶんの体温を感じてふわりと緊張が緩む。──生きているものの温度だ。しなやかで無駄のない、完成された肢体。けれどその奥、中心にある骨格はまだ成長途中で、悠仁が順平とそう変わらない少年であることを証明していた。

「……あの、虎杖くん」

「なに?」

「…………これ、だいぶ恥ずかしい」

 しばしの沈黙。シャワーヘッドから雫が一粒落ちて、溜まった水にぽたりと音を立てた。
 がっちり抱き留められているせいで順平は身動きができず、恥ずかしいとはっきり言葉に出したことで羞恥心は時間と共に膨れ上がっていく。順平から悠仁の表情は伺えないが、首筋から肩にかけて触れている部分がじわじわと熱を帯びていくのが分かった。頸動脈がどくどく鳴っている。顔に当てていたタオルを下へずらし、こわごわと首を悠仁のほうへ傾けた。

「(耳、赤……)」

 見てはいけないものを見てしまった気がして、順平はまたタオルで顔を覆い直した。虎杖くん、とおそるおそる呼び掛ける。びく、と心臓が揺れたのが分かった。もう一度小さく呼び掛けると、両肩を強く掴まれ、密着していた体を勢いよく引き剥がされた。顔に当てていたタオルが落ちる。

「──耳元! いまの、この距離、耳元で呼ぶやつっ、その」

「……恥ずかしい?」

「…………めっちゃくちゃ恥ずかしい……!!

 悠仁は真っ赤な顔で訴える。恥ずかしさから両目をぎゅっと閉じ、俯いて紅潮している様子を隠していた。順平は呆気にとられて、悠仁から与えられたバスタオルをずり落ちないように持つ。

「……僕はもっと恥ずかしかったよ」

「ゴメン! それは全然考えてなかった」

「そりゃ、落ち着きはしたけどさぁ……。虎杖くん、自爆してるじゃん……」

「だから全然なにも考えてなかったんだってば! ほんっとうにゴメン順平、嫌だったんならもうしません!」

 俯いたまま悠仁は平謝りを続ける。顔どころか首筋まで赤くなっていて、その反応を見ているこっちまで恥ずかしくなってくる。顔のタオルが外れたことで、耳元にかけてまとめていた前髪がはらりと零れて頬をくすぐった。気付けば自分の顔も酷い熱を帯びていて、こんなの手の施しようがない。順平は手の甲で口もとを隠し、おずおずと申し出た。

「……別に、嫌じゃないし」

「…………嫌じゃないの?」

「何回も言わせないでよ! いまの聞いてた?」

「恥ずかしかったのに?」

「だから何回も言わせないでってば! もういい!?」

「あっ待って順平!」

 順平はバスタオルを纏い、悠仁を置いてバスルームを出る。ひた、と固い床に爪先が触れた途端くしゃみが出た。

「そのままだと風邪引くから! ちゃんと体拭きなよ」

「………………そうだね」

「なんでちょっと不満そうなの? あと髪も!」

「……………………くしゅっ」

「ほらまた! もう俺やっていい?」

「え? ちょっと、なに!」

 悠仁は順平にバスタオルを被せ直し、がしがしと髪を拭く。されるがままに首から上を揉みくちゃにされ、順平はあうあうと間の抜けた声を漏らした。水分がある程度タオルへ移り、悠仁は最後に順平の頭にぽんと手を置いた。やっと終わりか、と順平はタオルと乱れた髪の隙間から悠仁を見る。

「俺のとことだいたい同じ造りっぽいし、設備だけは充実してんだよな〜。あるならこのへんにあるはず」

 悠仁は無遠慮に棚を探り始める。昨日来たばかりで順平は把握しきれていないが、その日からすぐにでも住めるよう生活備品は一式揃えられていた。がちゃがちゃと物を漁り、あった、と悠仁は晴れやかな表情で順平に振り向く。

「ドライヤー! 順平、着替えてそこ座って!」

 

  ***