旅は道連れ世は情け─6.共謀罪 - 1/2

「薫くん。ちょっといいかえ」

 音楽番組の収録終わり、衣装から着替えて荷物をまとめている最中に、零に呼び止められた。薫はタオルで汗を拭いながら生返事をする。晃牙とアドニスはこのあと別の番組の打ち合わせがあるからと既に局を出ているらしい。

 零について歩くと、大道具やらの荷物をしまう倉庫の前へ連れていかれた。人通りが少なく、ここなら込み入った話をするのにも構わないだろう。

「朔間さん、話ってなに?」

 薫は首にタオルを提げたまま話す。拭いても拭いても汗が収まらない。やりきった疲労感と熱気で未だに頭がぼーっとしている。ふう、と空中に向けて息を吐いた。冬だというのに妙に熱がこもっていて息苦しい。

 零は壁に背を預け、首をやや傾げて切れ長の目で薫を見据える。

「我輩に隠し事しておるじゃろう?」

「……やだなぁ。なんのこと?」

 否定した声が上擦っている。薫は少しだけ身じろぎをした。目が泳ぎそうになるが、そんなことをしてはより怪しまれるだけだとどうにか視線の位置を保とうとする。しかし焦点は意識とは真逆にぐらつき、ピントがどんどんずれてぼやけていく。耳の奥でどくどくと脈が鳴り出した。

「しらばっくれるでない。我輩に悟られないとでも思うたのか?」

「だから、なんの話──」

「深海くんのことじゃ」

「(──バレた)」

 血がめぐるのに合わせ、遠くで蝉の声がする──幻聴だ。おさまりかけた汗が再び吹き出し、口の中が乾く。視界がぐるぐるして、零の姿と表情を正確に捉えることができない。

 零は至極冷静に、淡々と見解を述べる。

「近頃、妙な噂を耳にしてな。明るい水色の髪の青年が、薫くん、おぬしの家の近くをうろついておると。夜な夜なスコップを抱えて、土で汚れた姿で徘徊しておると。我輩も最初は半信半疑だったのじゃが……近頃の薫くんはパフォーマンスの精度に欠けておる。話しかけてもぼんやり適当な相づちばかりじゃ。まるで心ここに在らずと言った様子で、どこか違う場所を見ているような……。ここ一、二ヶ月ほどは体調も万全ではないようじゃし。挙げ句、その水色の髪の青年とおぬしが行動を共にしておるという情報も入っておるのじゃよ。十中八九、深海くんなのじゃろう?」

「あ……え、えっと」

「(どうしよう。バレた。見つかった。見られてた)」

 吐き気がする。これまで騙し騙し生活していたが薫の体調不良は事実で、零に指摘されてようやく、正しい感覚がフィードバックしてきた。汗も、ライブ終わりの熱気から来るものではない。喉の乾きだってそうだ。吐きそうになり口元を咄嗟にタオルで押さえる。

「(どこまでだ? どこまで知られている? でも朔間さんのことだから、きっとなにもかもお見通しで──ここで足掻いて誤魔化そうとしたって無駄だ。追求は避けられない。それならいっそ──)」

「怒っているのじゃよ我輩は。友の帰還を黙っていたことにも、体調不良を隠していたことにも、匿っていたことにも」

「……っ、」

「薫くん?」

「朔間さ──ごめん」

 薫は零を置いてその場から逃げだした。零が後ろでなにか叫んでいたがうまく聞き取れない。薫はうねうねと迷路になっているテレビ局の廊下を走り、男子トイレを見つけて駆け込む。便器に突っ伏して吐いた。消化気管が蠕動し、胃からなけなしの胃液を汲み上げる。だらしなく開けた口から唾液が糸を引き、ぼろぼろと生理的かものかどうか判断のつかない涙が出た。

「(もうおしまいだ)」

 手は無意識にポケットのスマートフォンへ伸びていた。電話帳から迷わず魚の絵文字を探し、発信ボタンを押す。

「もしもし奏汰くん? ──逃げよう。一緒に」

 

***

 

 千秋は鼻唄を口ずさみながら、すっかり葉の落ちた並木を歩いている。機嫌が良いのか足取りは軽く、つい鼻唄のリズムに合わせてレジ袋を振り始めた。

「おっと。炭酸だからあまり振ってはいけないな」

 レジ袋には炭酸のアルコール缶が何本かとスナック菓子、おつまみのセットパックが入っている。

 しばらく前から薫の元気がないことに気づいていた千秋は、自宅へ押し掛けて励ましてやろうと画策していた。千秋も薫も酒に強いほうではないが、アルコールが助けになって本音を話してくれないかと考えたからだ。

「(羽風も意外と強情だからなあ……。友達としてここは相談に乗ってやりたい。俺が知りたいだけだろうと問い詰められたらどうしようもないがなあ……)」

 薫の自宅へ行ったことは何度かあった。が、最後に遊びに行ったのはおよそ一年ほど前で、道の風景がそのときとは微妙に異なっている。あったはずの店が閉まり別の店が開いたり、なかったはずの看板が立てられたり。千秋はうっかり迷いそうになりながらも、記憶と方向感覚を便りに薫の自宅を目指す。

「(それにしてもなんであんなに羽風は落ち込んでいるんだ……? 皆目見当もつかない。無理に聞き出すのもどうかと思うが、一、二ヶ月もずっとあの調子じゃあなあ……。さすがに心配になる)」

 近頃の薫の様子を思いだし、千秋は肩を落とす。どことなく覇気がなくて、カメラが回っている最中だけは以前と変わらぬ振る舞いをしていたが、収録が終わった途端スイッチが切れたようにぼんやりと中を見ていた。ふらふらと足取りもおぼつかなく、よそ見をしていてスタッフとぶつかる場面も何度も見た。

「(話してくれなきゃ分からない。もし取り返しがつかなくなってしまったら? 話を聞いていればどうにかなったのかもしれないのに。元に戻らなくなってしまったら……? それが、怖い)」

 脳裏に明るい水色の髪がちらつく。

 十八のときは約束をした。

 十九のときは、約束をしなかった。

 踏み込んで傷つけてしまうのが怖くて、未来の話をしなかった。

 ──もう取り返しがつかない。もう、元には戻らない。

「……重ねてもしょうがないな。余計なことを考えるのはやめよう。たしか、このあたりを右だったか?」

 千秋はうろ覚えで角を曲がる。

 そのとき一瞬だけ、明るい水色の影が視界に現れ、並木の奥へ消えた。

「……奏汰?」

 見間違うはずがない。忘れるなんてありえない。だが、こんなところにいるはずがない。いましがた奏汰のことを思い出していたから幻覚が見えたのだろう。しかし幻覚でなかったとしたら──本物だったとしたら。

「奏汰!」

 千秋は水色の影を追う。炭酸の入ったレジ袋が揺れることなんて気にしている場合ではない。

 並木を走り抜け、影をひたすらに追った。気づけばちょうど、薫の住むマンションの前まで来ていた。影はこちらには気付いていないようだ。その手にはスコップが握られている。つるんとした丸い髪型に、記憶よりは少し痩せているがあの体格──間違いない。

「待ってくれ、奏汰!!」

 声を張り上げて影を呼び止める。くるりと振り返ったその顔は紛れもなく、千秋の十九の誕生日以来忽然と姿を消していた、深海奏汰だった。

「──ちあ、き」

 奏汰は驚いて目を見開く。眼球が瞬時に乾き、ひび割れる直前ですべてが止まった。見つかった。見られた。千秋にだけはバレてはいけなかったのに。奏汰は握ったスコップの柄を思わず握りしめ、咄嗟に体の影へ隠す。

 千秋はそんなことなど眼中にないようで、走った乱れた呼吸を整える間も惜しんで声を絞り出した。

「奏汰、会いたかった、ずっと、探してた──」

 千秋は再会した喜びで顔をくしゃくしゃにして、震える足で奏汰へと近づく。奏汰の心臓がばくばくと鳴った。こんな、こんな中途半端な状態では千秋に会わす顔がない。まだ生まれ直せていない。

「だめ、です、ちあき、こないで」

 そのとき、奏汰のスマートフォンが鳴った。画面を見れば、発信者の欄には名前の末尾で泳ぐ魚の絵文字。すがる思いで奏汰はそれを耳に当てる。

『もしもし奏汰くん? ──逃げよう。一緒に』

 

***

 

「離して朔間さん──俺は──俺は」

 零はスマートフォンを取り上げ、抵抗する薫をどうにか取り押さえている。騒ぎを聞き付けたスタッフたちも集まってきて、辺りは騒然としていた。逃走した薫を追いかけ、トイレで嘔吐している場面に遭遇したのだ。薫の顔色は真っ青で、誰の目にも体調が最悪なのは明白だ。瞳は焦点が合っておらず、瞳孔も開きっぱなしだ。

「いま誰に電話していたんだ!? 正直に言え!」

 トイレの床に組み敷かれている薫が暴れる。脱出を防ぐため取り押さえる手に力が入り、零の言動もつられて荒くなった。薫は身をよじり、零を見上げて歯を食い縛る。

「関係、ないでしょ、朔間さんには──!! 誰だっていいじゃないか!!」

「正気か!? どこを見てんだよ、目を覚ませ!!」

「ちがう……そんなわけない、俺はずっと正気で──」

 台詞の途中で薫が咳き込んだ。喉の奥に引っ掛かったものを掻き出すような咳。そのまま胃液を吐き、口もとが汚される。もう限界だった。狼狽え、脅えた目が零を見る。

「朔間さん、おれ、は──」

「──もういい……。おい、通るぞ」

 零は薫を抱き起こし、肩を抱いてそうっと立たせた。ぐったりと青い顔をする薫を見て、野次馬で集まっていたスタッフたちが後ずさる。今見たことを他言するな、と零は忠告し、薫を医務室へと引き摺り歩いた。

 空いたベッドへ薫を寝かせ、容態が落ち着くのを待つ。追い詰めてしまった。体調が悪かったのはそれ以前から分かりきっていたが、零の話が決定打になったのは間違いない。傍らのパイプ椅子に座り零はうなだれる。──また、間違えた。

「薫くん、すまなかった……」

 弱々しく漏らした零の声に、薫がゆっくり瞼を開ける。しばらくぼうっと天井を眺め、秒針の音を聴いていた。

「……俺のほうこそ、隠してて悪かったよ。言うべきだって分かってた……。でも言えなかった。言ったら……」

 青冷め、血の気のない表情で薫は告白する。医務室には二人以外誰も居らず、棚には消毒液や包帯が雑然と並べられている。薫は横たわったままそれらをぼんやりと眺め、久方ぶりに現実に帰ってきたと実感した。

「……なんでもない」

 体を傾けて壁のほうを向いた。まだ嘔吐感が残っていて、胃がむかむかする。このままでは脱水症状が起きるかもしれない。海の生き物が脱水で死ぬなんてとんだ笑い話だ。零が濡らしたタオルを持ってくる。

「薫くん。ほら、水」

「……ああ、ありがと」

 零は水の入ったコップを薫の背中へ差し出す。呼ばれて振り返り、薫はコップを受けとるため体を起こした。一口飲む。冷たく、なにも味がしない。当たり前だ、ただの水なのだから。

 内側にこもっていた熱がすうっと引いていく。零は続けて、濡れたタオルを薫へ差し出した。汚れた口もとを拭き、タオルを持ったまま肘から先がぱたりと倒れる。

「…………朔間さん。さっき電話してたの、奏汰くんだよ」

 長く息を吐いた。薫が体内から二酸化炭素を出しきるのを待ち、やっぱり、と零はパイプ椅子に座り直した。薫はコップを両手で抱え、淡々と話しだす。

「いきなり切ったからあとで謝らないと。ええと……俺ね。奏汰くんを、匿ってたんだ。死体を埋めてほしい、なんて言うからさ。マジだと思っちゃって。だから言えなかった。言ったら捕まると思ったから」

「待ってくれ。『死体』じゃと?」

 パイプ椅子ががたりと軋む。零は前のめりになり、いぶかしげに眉根を寄せた。あ、そこまでは知らなかったんだ、と薫は肩の力が抜ける。てっきり、全部なにもかも知られてると思った、とコップに反射する自分の像を見る。

「うん、そう。『死体』。年末ぐらいからは俺も一緒に埋めるようになってた」

「まさか薫くん──」

「ああ、違うよ。『死体』っていうのは隠語なんだ。物騒でしょ? 笑っちゃうよね。ほんとは誰も死んでないのに」

 薫は前髪を掻き分け、表情筋をわずかに動かし、自虐的に笑った。

「思い出のことなんだよ。『死体』って。蝉の脱け殻みたいな、曖昧でかたちがあるんだかないんだかよくわかんないものを、『ここにあった』って忘れないために埋めるんだってさ。意味わかんないでしょ? ……意味わかんないだよ、ほんと。でもね……本気だったんだよ、俺たちは。意味わかんなくても、『ここにあった』って、『それまでたしかに生きてた』って思いたくて。奏汰くんが奏汰くんとして生きてたのは、嘘でもなんでもないんだって、思ってほしくて。……本気でそう考えてたんだよ」

 
***