走って帰ろう─02.ひかりのむこう かげのがわ - 1/2

 ごうん、ごうん、と洗濯機が唸っている。校内に設けられた、生徒用のランドリールームに斑と光は来ていた。何台もの洗濯機がずらりと並び、そのどれもが稼働しているせいでなかなか騒音レベルが高い。脱水が終わるまであと数分だ。そっけないパイプ椅子が軋んだ音を立てるが、洗濯機の音が即座にそれを飲み込む。

「洗濯、まだかかりそうだなあ」

「もう待てないんだぜ〜……。ねえっ、終わるまで走りに行ってもいい!?」

「それはどうだろうなあ。すぐ呼び戻すことになりそうだ。ここで待っとくのがいいんじゃないかなあ」

 ううん、と光は肩を落としてパイプの上で膝をかかえていじける。不満そうに口を尖らせ、オレンジ色のシャツの裾を伸ばして両膝の中へ納めた。服が伸びるからやめなさい、と斑は注意し、光はしぶしぶ裾を元に戻す。

「こんなに待つなんて思ってなかったんだぜ。あとで一緒に走るって三毛ちゃん先輩言ったのに」

「ははは……まあ、そうだなあ。でも終わるまでもうちょっとだから」

 一時間ほど前のこと。

 

***

 

「今日は最高のお洗濯日和ですね……♪」

 カーテンを開けて創はそう呟く。理想的なまでにカラッと晴れた青空だった。朝焼けの色がわずかに残る空はすっきりと澄み渡り、秋らしい寒さがあたりを満たしている。

「ん〜……創ちん、おはよう」

「あ、おはようございます光くん」

 窓から差し込む朝日に、光は眩しそうに目を擦る。

「お洗濯したいの? ん〜、確かにいい天気なんだぜ」

「あ、もしかしていまの聞いてました? ひとりごとのつもりだったんですけどね」

 光ははにかむ創の隣にした立ち、空を見上げる。走ったらすごく気持ち良さそうだ、と大きく背伸びをした。

「そうだ。創ちん、布団とかもぜ〜んぶ干すのはどう? 今日の洗濯当番はオレだし!」

「えっ、いいんですか? そんな、悪いですよ。光くん一人に押し付けちゃうみたいで」

「別に気にしないんだぜ? 当番は当番だし。それに今日お布団干したらすっごくふかふかになりそーなんだぜ!」

「う〜ん……でも、この量を光くんひとりでいっぺんに干すのはちょっと大変なんじゃないですか?」

 創は振り返り、何組もの布団でみっしりと埋め尽くされた道場を見渡した。何人かは既に目を覚まして各自朝の身だしなみや朝練に向かっているが、大半がまだ夢の中だ。干すのは全員が起きてからでいいだろうが、確かにこの量は大変そうだと光は首を傾げて考える。

 ハロウィンパーティーのための練習着や、泊まり込みで使用した備品は生徒たちで管理することになっている。そのため洗濯は当番を決めて毎日回し、二組ずつ用意された練習着を一日交代で着るようにしていた。練習着はそれで事足りるものの、布団カバーやシーツなどを毎日洗うわけにはいかない。

「ぼくも手伝いましょうか? そもそも僕が言い出したことですし」

「えっ、それは悪いんだぜ。だって創ちん、今日掃除当番でしょ? 受け持ちがいっぱい重なっちゃったら大変なんだぜ」

 ううんどうしたものか、と二人は首をひねる。

 ──がらり。

 扉が勢いよく開け放たれ、まだ薄暗かった室内へ光が強引に割り込んでくる。

「おはよおおお!! 朝ですよおおお!! みんな起き──おやあ? おふたりさん窓辺で佇んで、なにか相談ごとでもしているのかあ?」

「あっ三毛ちゃん先輩! おはようなんだぜ。どこ行ってたの?」

 斑は雑魚寝の布団たちを踏まないよう気をつけながら、二人が立つ窓辺へ近づいた。

「ちょっと朝練の前に準備運動をなあ。軽くひとっ走り」

「むっ、ずるいんだぜ! オレも一緒に走るって言ったじゃん!」

「ごめんごめん、ちゃんとこのあと一緒に走るからなあ。ほんとに準備運動だけだぞお」

 ところで、と斑は光と創とを交互に眺め、ははあんとしたり顔で言った。

「わかった。布団でも干そうかって話をしてたんだなあ? 今日はいい天気だもんなあ、よく乾きそうだ。でも量が量なだけに分担がうまくいっていない。そうだろう?」

「さすがです……! どうしてわかるんですか!?」

「なあに、ちょっと観察すればわかることだなあ」

 推理に創は感心し、目をきらきらさせて斑を見上げた。

「そうだ、人手が足りないんならママが手伝おうかあ? 創さんも今日は別の当番があったはずだなあ。うん、布団や洗濯物は光さんと二人でやることにしよう!」

「いいんですか!? でもそんな、いきなり──」

「ちょっ、三毛ちゃん先輩、勝手に決めないでほしいんだぜ!」

 二人の制止も聞かぬまま、斑はなにを納得したのかうんうんとひとりで頷き、直後ぽんと手を叩いた。いいアイデアが思いついたのか、瞳が楽しそうに輝いている。

「そうと決まればまずはみんなを起こさないとなあ! おおおおいみんなあああ!! 朝ですよおおおお!! 起きて朝ごはんをしっかり食べて朝練に向かうぞおおお!!」

 道場のすみずみにまで届くほどの声で斑は叫ぶ。入室したときからの立て続けの騒音で、布団にくるまっていた千秋がもぞりと顔をのぞかせた。寝ぼけ眼ではあるが、表情は斑への鬱陶しい感情に満ち満ちている。

「三毛縞さん……うるさい……」

「おおっと千秋さんすまないなあ!! でも今日は洗濯日和なんだ、起きてもらうぞおお!!」

 うるさい、いやだ、とぐずる千秋へ近寄り、斑はむりやり布団を引き剥がそうとする。その攻防を見て、創はくすくすと柔らかく微笑んだ。

「ふふ、三毛縞先輩、なんだか楽しそうですね」

「……そう?」

「え? そう……見えませんか?」

  きょとん とした顔 で創は光と目を合わせる。

「うーん……。どうだろう」

 

***

 

 布団から引き剥がしたシーツと布団本体とを仕分け、まずはシーツをランドリールームへ運ぶ。設置された洗濯機をすべて使わせてもらい、洗剤を投入してスイッチを入れた。回っている間に、布団本体は渡り廊下へ持っていきそこへかけていく。道場とをなんども往復したせいで、二人の額には少し汗が浮かんでいた。洗濯物が終わるまでの時間に二人で走りに行く予定だったが、予想外に時間がかかったせいで走りに行くのは叶わなかった。

 ゆえに、こうして中途半端にランドリールームで待つ羽目になっている。

「ね〜三毛ちゃんせんぱ〜い。行こうよ走りに……待ってられないんだぜ」

「光さんはうずうずしてるんだなあ。今日は走りに行く時間はとれないかもしれないなあ……時間を見誤った俺のせいだ。また明日、一緒に走りに行こう」

 パイプ椅子に座った光はがっくりと肩を落としている。斑は光をなだめ、ほとんど無意識でそのうつむいた頭部へ手を伸ばしていた。幼い子供をあやすように、頭を撫でたかったのだ。

「そうじゃないんだぜ……オレは今日、三毛ちゃん先輩と走りに行きたかったの」

 短く少し癖のある茶髪に手のひらが触れる直前、斑の手は空中でぴたりと止まる。表情筋に灯していた笑顔もふっと姿を消した。光は口を尖らせたまま、斑のほうをちらりと見上げた。

「今日、すっごく天気いいから……。一緒に走ったら 気持ちよさそーだなって」

 ごうん、ごうん、と洗濯機はまだ回っている。光は空中で留まっている斑の手に気づき、少し体勢を変えて自らその手のひらに頭を押し当てた。ふわふわした短い茶髪。ぐりぐりと、光は斑と目を合わせながら猫がやるような動きで手のひらに潜り込む。丸い頭蓋に秘められた骨の硬さに、斑は思わずぎくりとした。

「オレね、三毛ちゃん先輩と走るの、好きだから」

「……嬉しいことを言ってくれるなあ光さんは」

「適当に言ってるわけじゃないんだぜ。三毛ちゃん先輩は、適当に思ってるかもしれないけど」

 洗濯機の稼動音がふいに止まった。きし、きし、とパイプ椅子が軋む音がする。

「……光さん、」

 斑の声色には困惑の色が混じっていた。こうしてなんの屈託もなく甘えられることも、甘えることも斑は経験したことがない。くしゃくしゃと手の中で光の髪の毛が擦れ合う。ランドリールームから一切の騒音が消えたせいで、さきほど『ぎくり』と感じたのは間違いだったと理解した。

 洗濯機が次々に脱水終了のアラームを鳴らす。

「……終わったなあ、脱水」

「ん、そしたら早速干しに行くんだぜ。……三毛ちゃん先輩?」

「え? あ、ああ。なんでもない」

 光はパイプ椅子から跳ねるように立ち上がり、カゴを手にとってすぐ正面の洗濯機の蓋を開けた。光に促され、斑もカゴを手にとり洗濯機の中身を移していく。

「(ああ、これ。俺は)」

 端的に言うと、嬉しくてどきどきしている。

 

***