走って帰ろう─01.猫を追う

 猫の影が見えた気がした。

 しゅるり、と尻尾の先が茂みに消えていった気がしたのだ。そういえばレオさんが猫をかわいがっていたのだっけ、と斑は旧友のことを思い出す。その猫かどうかはわからないが、学院には猫やら犬やら複数種類の動物が出入りしている。噂によると自分の飼い犬を連れて登校している生徒もいるらしい。ずいぶんと賑やかになったものだ。動物の出入りくらい些細なことで、いちいち気に留めるほどのものでもない。と学院側もおおらかな判断を下す程度には平和になったということだ。

「(猫、か)」

 斑は動物は嫌いではない。大きいものも小さいものも、体毛のあるものもないものもすべて等しく愛おしく思っている。それに、人間よりもずっと見易いからだ。ごちゃごちゃ複雑なことは置いておけるし、なにより嘘がない。イルカの調教について勉強しているときに心底そう思った。

 猫の気配がした方向へ歩いて行く。足音を極力立てないように、そうっと砂利を踏みしめる。かさ、かさ、と五月の風がゆるやかに葉を揺らす。いまごろクラスメイトたちは数学の授業を受けているころだろうか。登校したはいいものの、教室に顔を出す気分にはなれなかった。だから、こうしてふらふらと時間を潰しているのだ。自主練習の時間だという脆い建前を作って。

「おおい、猫ちゃあん? どこかなあ。おいでおいで」

 茂みに向かって声をかけてみるが、当然ながら返事はない。

「(ううん、どこにいるんだろうなあ)」

 見間違いだったのかもしれないな、と斑はぼんやり立ち尽くす。腕時計を見るとそろそろ授業も終わるころで、教師たちに見つかる可能性も高くなりそうだ。そうなれば厄介だな、と斑は裏庭を立ち去ろうとする。

 ──にゃおう。

 猫の声がした。

「……そっちにいるのかあ?」

 斑は踵を返してもう一度茂みを覗き込んだ。

「おおい、猫ちゃん~……?」

 大きな体を搔きあげ、じいっと気配を探った。ハリのある艶やかな葉の奥に、柔らかで明るいオレンジ色の体毛がちらついている。

「ああ、なんだやっぱりそこにいたのかあ」

 斑はそうっと指を一本伸ばし、猫の顔があるほうに差し出した。

 ──がさ。

「うひゃあ!?」

 猫は斑を不審に思ったのか即座に陰から飛び出した。そのまま一目散に走り去っていく。

「──えっと、部長のひと?」

「あ……。光さんかあ」

 頭上から降ってきた声に斑は顔を上げる。透けるような青空に、つい最近見知ったばかりの童顔──年相応といえばそうなのだが、それよりもずっと幼い印象を抱かせる大きく丸い垂れ目──天満光だ。斑と同じ陸上部で、『発展途上』を擬人化したような少年だ。赤いジャージに、うっすら汗ばんだ額。さしずめ体育の授業の途中なのだろう。

「なにしてんの?」

 光は膝に両手をつき少し背を屈め、純粋無垢な眼差しで斑を覗き混んだ。特段興味があるわけでもなく、たまたま通りすがりに目に止まったから声をかけた、といったところか。斑は目を細め、体を軸ごと光のほうへ向け直した。

「ちょっとな。猫がいたんだ」

 逃げられちゃったけどなあ、と苦笑いを付け足す。

「難しいなあ、加減が難しい……。動物を手なずけるのはけっこう得意なんだが」

「……ふーん」

 光は一瞬だけ怪訝そうに眉を寄せるが、すぐさま茂みの向こう側へと視線を逸らした。ジャージのジッパーを下げ、首もとの汗を拭う。斑はその横顔を見上げて、ああもう初夏が近いのか、と内心で呟いた。

「光さんは猫、好きかなあ?」

「うん。動物はみんな好きなんだぜ。友也ちんがうらやましくなっちゃうくらい」

「友也ちん? ああ、光さんと同じユニットのあの子かあ」

「知ってるの?」

「学院のことならなんでも知ってるぞ。生徒の名前と顔を覚えるくらいお茶の子さいさいだ」

「……ふうん。そう。三毛ちゃん先輩、猫、好きなの?」

「ああそうだなあ、猫、好きだなあ。生き物はなんでも好きだけど」

 斑は立ち上がり光を見下ろす。小さな体躯に、斑の大きな背丈が影を落とす。光はじっと斑の緑色の瞳を見つめ、「でも、」と切り出した。

「逃げられちゃってそんなにがっかりしてるなら、きっと相当好きってことなんだぜ」

 虚を衝かれた斑はぐっと唾液を飲み込んだ。ぴしり、と表情筋が硬直する。

「(いけない、真顔にならないようにしないと) 」

 怖がらせてはいけない。いままでなんどもこういうことはあった。筋肉を意に反して動かすコツもすっかり板についたのだ。斑は口角を上げ、返事を絞り出す。

「…………あはは。そうか。そうかあ。そうだなあ、実は猫が相当好きなのかもしれないなあ俺は」

「うん。きっとそうなんだぜ。だってすごく残念そうな顔してるもん」

 え、そうかな。と斑は自分の顔に手を当てる。表情筋の動かしかたが固かっただろうか、と指先で頬を揉んでみるパフォーマンスを、光はにこにこと眺めていた。

「オレ、もう行っていい? 着替えなきゃなんだぜ」

「ああ、引き止めてすまなかった」

 光は元気よく走りだす。行ってらっしゃあああい! と遠ざかっていく赤色の背中に声をかけ、校舎に入っていくところまで見送った。

「(──難しいなあ)」

 ふいに、また茂みのどこかで猫の鳴き声が聞こえた気がした。

 
 
 


2018.11.24発行/光斑コピー本「走って帰ろう」web再録
01.猫を追う02.ひかりのむこう かげのがわ