臆病者の偽楽園

「レオハウス作ったから、来て」

 唐突にあいつから電話がかかってきた。いや、あいつからの電話が唐突でなかったことなどないし、それにこれまでの経緯や置かれている状況を鑑みればさほど不思議でもない。

 着くやいなや、レオは顔面に本を広げて突き出してきた。

「セナ、見て! おれ、レオハウスつくっ──」

「なに、なんなの? 近いってば!」

「あぁゴメンゴメン、ちょっと調子上がっちゃってて」

 レオは気恥ずかしそうに本を引っ込めた。泉は改めてそれを見遣る。一面のコスモス畑の大判写真だ。大型で重そうで、厚みのある本。ページをおもいきり広げているものだから、つるつるのブックカバーがぱかぱかしていて今にも外れそうだ。

「なにこれ? 図鑑か何か?」

「うん、そう! こっち、この部屋見てほしいんだ! セナに見てほしくてつくった!」

「ちょっとぉ、いきなりなんなのまったく!?」

 レオに手を引かれ躓きそうになる。泉は内心とは裏腹に、いつものように文句たらしいことを口走ってしまう。さきほどまでバイクに乗っていたせいか泉の手は少し冷えており、おそらくずっと室内にいたであろうレオの手を暖かく感じた。

 レオの自宅へは今までなんども行ったことがある。引っ越して一人暮らしを始める前、実家住まいだったころからそれこそ数えきれないくらい訪問していた。だが『レオハウス』など見たことも聞いたこともない。おそらく、学生時代に活動拠点にしていた部屋が『セナハウス』と呼ばれていたことからの発想なのだろう。

 リビングのドアノブにレオが手を掛ける。

「じゃ〜んっ、レオハウスだ〜♪」

 部屋は本で埋め尽くされていた。いまレオが手にしているのと同じような、大型で分厚い図鑑や写真集の類の本田。それらはすべて写真のページに見開かれ、壁に立てかけられている。どうやって本を引っ掛けているのか、壁に吊るす形式での展示もされている。

「……すご。これ、ぜんぶあんたがやったの? ぜんぶあんたの本?」

「もちろんだ! 資料用に集めてた本が、最後の最期でこんな役立つなんてな」

 泉はおずおずと部屋に踏み入り、壁を眺める。

 エメラルド色の海と珊瑚、アゲハ蝶の黄色い鱗粉、夕焼けを浴びるキリン、真っ赤に熟れたキノコ、アメジストの原石、うろこ雲。そして最後に、正面の壁の空いたスペースにレオは持っていた本を飾る。ピンクと白のコスモス畑。どれも大判の鮮やかな写真で、地球の美しい光景がずらりと並んでいた。

「……綺麗」

 ふいにレオと目が合う。物憂げに微笑みかけていて、もしかしたら同じ顔になっているのかもしれないと泉は思った。

「写真ってすごいよなぁ。いつでも見ることができるんだから」

「……そうだね」

「ねえセナ、地球って綺麗だよな」

「インスピレーションが湧いてきそう?」

「うーん、湧いてくるけど、たぶん、消えちゃうからさ」

 楽譜折って、折り紙にして飛ばしてみたけど、すぐ落ちちゃった。とレオは呟いた。緑の目が痛々しくて、泉は思わず目を逸らしてしまう。

「綺麗だよ。消えたって、俺はずっと──」

(俺はずっと、なに?)

 セリフが途切れて宙に浮かぶ。続きを正確に表現する言葉が見当たらない。あるいは、正確に言葉にすることをおそれているのか。こんなときになってまで、自分はまだ戸惑ってしまっている。もどかしさに拳をぎゅっと握りこんだ。

「無理して言わなくてもいいよ。それだけでおれは嬉しい」

 レオは泉の拳を手に取り、指を優しく解いていく。親指から順番に一本ずつ。

「……おれはおれが死ぬよりも、おれ以外のみんなが消えちゃうほうがこわいんだ。消えてほしくない、死んでほしくない。……セナに、死んでほしくない」

「……そんなこと考えてたの」

「セナ、ずっとここにいてよ。ここにいて。おれはセナのこと最後まで見ていたい。セナが一番綺麗だから。そんで、一番綺麗なセナに、最後までおれのこと見ててほしい」

 レオは喋りながら泉の手を祈るように包み込む。窓はカーテンで締め切られ、外の様子は伺えない。防音設備もばっちりのこの家はぞっとするほど静かだった。本の中のキリンに見下ろされる。

 ──この期に及んでまで迷うなんて、無意味だ。

「……ワガママかな。ワガママでもいいかな。……おれのワガママに、付き合ってよ、セナ」

 泉の手にすがりついていたレオが床へ座り込む。小刻みに震えていて、泉はそれに見かねて自分のコートをレオの肩へかけた。

「……いいよ。ここ……レオハウスだっけ? を最期の場所にしてあげる。「れおくんの頼みなら聞いてあげなきゃいけないもんね」

 泉も床に膝をつけ、コートごとレオを抱き寄せた。レオの両腕はなにかを求めるように蠢くがどう動けばいいのかわからないようで、もらったコートの端を触るに留まった。

(臆病者同士だよ。おれも、あんたも。あんたが本当は、宇宙の本も持ってたのを俺は知ってる。卑怯でずるくて、綺麗なんかじゃない)

 ──明日、月が地球に落ちてくる。

「……ありがと、セナ」

 あんなに綺麗な月に押しつぶされて死ぬ。以前この部屋で見た、月面探査の写真がよぎる。ざらざらに荒れた土地は美しいとは思えない代物だった。虚仮おどしだ、あんなの。その虚仮おどしに、地球は等しく押しつぶされて、俺たちは死ぬ。
 
 
 


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