たった一言でいいから。

 引き戸がガタガタ揺らされている。隙間からは下手くそな口笛のような音が勢いよく漏れていた。今夜は大雪になるらしい。雪の礫混じりの強風は、築ウン十年のこの家を丸ごと薙ぎ倒してしまうんじゃないかとすら脳裏によぎった。

(ま、お師さんン家やし、そんなことあらへんと思うけど)

 お茶っ葉の缶をぎゅうと閉める。夕食が終わり無人となった台所はシンと静まり返っていて、なんだか妙に足元が冷える気がした。靴下を履き忘れたのもあるだろうがそれ以上に、水道水特有の匂いが板張りの床に停滞している。

 食器棚からお盆を取り出し、二人分の湯呑みを乗せ、零さないよう慎重に運ぶ。足の裏はすっかり冷え切っているが、床はそれ以上に冷たかった。ひた、ひた、ぎし、ぎし。一歩ごとに湯気がふわふわと立ち昇る。

「お師さぁん、お茶。持ってきたで」

 襖の前で立ち止まり、念のため返事を待つ。いつも通り、中に生き物がいそうな気配はなく、衣擦れの音ひとつすら聞こえない。襖を開けると中は真っ暗だった。照明が壊れているのではない。少しの光さえ眩しく感じ、目が突き刺されるように痛むからと宗はこの部屋に籠りきりになっていた。当然、心配した家族が時折様子を見に来るのだが、断固としてひとつの要求にも応じようとしない。

「お師さん、お茶」

 カーテンも締め切った真っ暗な部屋の隅の、毛布の塊。これはカイコだ、とみかは確信していた。こうして繭の中で眠り、再起する準備をひっそりと整えているのだ。だが虫本来の生態を考えればいつか必ず羽化するはずで、なのに宗は秋頃からずっとこの毛布の中にいる。

 しばらく待ってみたがやはり毛布の塊は動かない。廊下から差し込んだ光が、入り口で立ち往生するみかのシルエットを浮かび上がらせている。自分でも細い体躯だなぁと思う。手足ばかりがひょろひょろと伸び、何を着ても袖や裾がぶかぶかだ。それが輪郭線からだけでも分かった。

 宗は中で眠ってしまっているのかも、とも考えたが、壁掛け時計は薄ぼんやりと夜九時過ぎを指している。眠りにつくにはまだ早い。動かないというよりは、動きたくないという意思を感じる。──いつもこうだ。

「まだ起きとるんやろ? な、今晩冷えるし、お茶飲も?」

 冬になってからこのやり取りも何度目だろう。毛布の塊は頑として一切の反応を示さない。いつもこう。いつもこうだから、みかはいつものように毛布の一部を剥ぎ、中の住人に呼びかけた。

「……お師さん」

「      」

 何重にもなった毛布の中で、宗は何か言いたげに口を開いた。が、喉から音を絞り出すことは叶わず、下顎だけが見えない何かを喰むように動く。

「ええよ、言わんでも。……言わんくても、ええから」

 畳に膝をつき、お盆を背後に置く。中へ潜り込み、毛布と宗との隙間にそっと両手を差し入れた。何時間、何十時間と毛布に包まっていたせいか宗の体は過剰なまでに温かかった。着倒されたパジャマ。薄く柔らかな綿の布が、体のやつれをかろうじて覆い隠していた。真ん中に芯がまだ残っているのが感じ取れるが、筋肉の張りは以前と比べて失われている。これまでずっと自分がチェックされる側だったのに、こうして毎日抱き締めているうちに僅かな変化にも気づくようになってしまった。

「お師さん、ちょっと細ぉなったなぁ」

 宗の頬はこけ、目の下には深く青い隈が彫られている。深い紫色の目。見えているはずなのに、目が合っている気がしない。

(おれのこと見えてへんのかな)

 そっと撫でた首筋からどくり、どくりと生きている証としての拍動が伝わってくる。それが目の前の人物から発される音だとは到底信じれなかった。この心音さえなければ、いつになるかわからない羽化を永遠に待ち続けることもできるだろうに。

 ──どくり、どくり。生きているという事実が、これが造り物でも死者でも神様でもないという事実が、ただそれだけが苦しい。

(これ以上にかなしいことがあるやろか。死ぬんよりも苦しいことが、あるやろか)

 大袈裟でしなやかで優雅で、例えるなら枝垂れ桜のように壮麗だった手。今や僅かばかりその面影を残すだけで、肌は荒れぐったりと血の気が引き、毛布の端を力なく掴んでいる。みかはそっとお盆を引き寄せ、その手にまだ湯気のたつ湯呑みを持たせた。

「これ、持って」

 もう一つの湯呑みを自分も持つ。この温度なら宗でも無理なく飲めるだろう。体勢を整えようと座り直すと、上にかぶっていた毛布がズレてみかの背中側が露わになってしまった。やはり潜り込むには少し長さが足りないようだ。

「飲まんと冷めるよ。……なぁ」

 背中が急に寒い。みかは宗と同じ体操座りになり、お茶をこぼさないように少しずつ宗のほうへにじり寄った。もぞもぞと塊が蠢く。みかのつま先がまず宗の足の甲に触れ、そこから徐々に体の向きを変えながら、お互いの吐く息がぴたりと重なるほどの距離にたどり着いた。

「お師さん、おれな……」

 毛布が外の音を吸収しているのか、中はとても静かで余計な音が全く聞こえなかった。代わりに、宗の隣に来たことで先ほどよりも幾ばくか心音が聞こえやすくなっている。自分の脈とは異なるタイミングで、それは一人ぼっちで鳴っていた。

「おれな……。なんでも、ない」

 言葉に詰まった。沈黙を誤魔化すため湯呑みに口をつけるが、今これを口に含んでも嚥下できない気がした。

(なあお師さん、おれのこと見えとる? 声、聞こえとる? 今晩な、雪が降るんやって。関東で今シーズンいちの大雪やって。積もったらきっと綺麗やで。おれな、明日の朝、外に出て積もった雪を一緒に見たい。早起きもする、おれらが銀世界に一番乗りするんや。おれらが、世界で一番に、おれらが、)

 言いたいことは山ほどある。なのに、喉元の得体の知れないしこりに邪魔されて声が出ない。それらを伝えたい人はすぐ隣にいるのに、黙っていては伝わらない。聞こえているのか見えているのか危ういならなおさらだ。

「……」

 声は出なかった。この瞬間、声を出せばすべてが瓦解してしまいそうだった。これまで積み上げてきたものが、影片みかという人物が、そのたった一言によって引き千切られてバラバラにされて押し潰されて──。

 そのとき、庭のほうからなにか固いものが次々に地面に激突する音がした。毛布の内側からでもはっきり聞こえて、みかはハッと我に帰る。強風で薪の山が崩れたのかもしれない。そうだ、大雪だけでなく強風にも注意が必要だと気象予報士は語っていた。

「ごめんな、おれ、ちょっと見てくるわ」

 みかはこの家に厚意で居候させてもらっているが、タダで家を借りるのがどうにもむず痒く小間使いの真似事を日々やっていた。動いていないと落ち着かないのだ。薪山が崩れたのなら早めに回収しないと、とみかが毛布から出ようとすると、ふいに手首を掴まれ引き止められる。

「お師さん?」
「……    、     」

 何かを言おうとしているのはわかる。だがいくら耳をそばだてても、宗の言葉を聞き取ることはできなかった。表情もこんな薄暗い中ではなにも読み取れない。

「……ごめんな、おれ、行かんと」

 宗の指を優しく解き、みかは毛布から這いずり出た。冬らしいピンと張り詰めた空気が気持ち良い。髪が静電気でぱちぱちと爆ぜている。

「        」
「……ええよ言わんでも。じゃあ、ちょっと様子見て来るから」

襖を閉める間際、みかは宗のほうを見て微笑んだ。板と板が擦れ、廊下から伸びた光の筋が細くなっていき、部屋は再び真っ暗になる。

宗はそのまま動けずにいたが、強風に家が軋む音から耳を守るように毛布を被りなおした。塊の中にはみかが持ってきた二つの湯呑みとお盆。ぬるいを通り越し、冷たくなりかけている。

 

***

 

(……なぜ、僕なのだろう)

 雪の礫混じりの風は強さを増し、より激しく壁や戸を揺らす。この強風の中、影片は外に出て行って大丈夫だろうか。風に飛ばされてどこかに行ってしまうのではないか。僕が行くべきではなかったか。どくり、どくりと頭の中で心音が鳴り響く。エッシャーの無縁階段を歩かされているようだ。前にも後ろにも進めず、出口もない。

 毛布と一緒に膝を抱える。見えたもの聞こえたものを処理しようとしても、すぐさま霧散してしまい何一つかたちにならない。言いたいこと、言うべきことは山ほどあるはずなのに、絶え間なく鳴る拍動に考えることを邪魔される。

 ──どくり、どくり。生きているという事実が、自分が造り物でも死者でも神様でもないという事実が、ただそれだけが苦しい。

(これ以上、僕を苦しめないでくれ……)

 春は未だ遠く、痛々しいほどの雪と風が吹きすさぶ冬だった。
 
 
 


お題:「たった一言。」という文を使ってSS