味気なくも無い男 - 1/2

 クリームチーズとサーモンが乗ったクラッカー。二色のオリーブで生ハムを挟んだ小さな串。深緑色が鮮やかなパテに、三角に切られたキッシュ・ロレーヌ。会場の無数の照明を浴び、それらはいきいきと光を反射している。だがこの程度の立食パーティーなんて、エドにとってはうんざりするほど見慣れたものだった。

 ウエイターからノンアルコールのシードルを受け取る。薄黄色の液体の中でぱちぱちと炭酸が弾けている。グラスを傾けると華やかな林檎の香りが鼻腔をくすぐった。悪くない。

 ローストビーフでもつまもうか、と手を伸ばそうとした矢先、壁に寄りかかる蒼い髪の男が目に入った。華やかなパーティー会場には似つかわしくない、威圧感に満ちた佇まい。着ているスーツは一般的なデザインにであるにも関わらず、その長身と顔つきのせいで近寄りがたさが尋常ではなかった。エドは興味本位で、その蒼い髪の長身の男──丸藤亮ことヘルカイザーへ話しかけることにした。

「やあヘルカイザー」

 ぴくり、と彼の眉が動く。

「何の用だ」

「不粋だな。パーティーだぞ。参加者に話しかけるのは普通だ」

 ふん、と彼はエドの言い分を鼻で吹き飛ばす。

「俺と話すことなどないだろう。あるならフィールドの上で聞く」

「おやおや。そんなに血の気を多くしてどうするんだい。血が余って困ってるっていうなら受けて立つが、それよりも献血に行った方が福祉のためだ」

「……」

 亮は不愉快そうに腕を組み直す。この程度でだんまりを決め込まれるだなんて、取り付く島もないな、とエドは浅くため息を吐いた。

 このパーティーはプロリーグの関係者が呼ばれている懇親会のようなものだ。リーグ運営側の役員をはじめ、メイン会場の総合支配人や司会者、一部のテレビ関係者まで様々な顔触れが揃っている。連戦連勝を重ねているエドと亮にとっては必要ないことではあるが、この場で顔を売っておく者も大勢いることだろう。

「今日はずいぶんと機嫌が悪そうだなヘルカイザー」

 エドは亮の隣へ行き、彼と同じように壁に持たれかかった。ここからは会場全体がよく見える。白と金を基調とした煌びやかな会場装飾。各々が好き勝手な色の服を着ているせいで、フォーマルな場であるはずなのにどこか空気感は混沌としていた。

 亮は無言のまま、じっと会場全体を眺めている。

「もしかして人酔いでもしているのかい? きみは根本の部分が生真面目そうだから」

「余計な詮索をしてくれるなエド。俺は人酔いなどしていない」

「それはどうかな? 悪役ヒールを保ったまま社交場に出るのなんて、相当気疲れしそうなものだけれど。ああいうのは案外、舞台の外では普通だと聞くよ」

 亮は深く長く息を吐いた。エドはグラスを傾けながらその横顔をちらりと見遣り、やはり気のせいではなかったか、と内心で呟く。生き方を変えてイメチェンしたとはいえ、半年かそこらでこれまでのすべてを変えられるはずがない。アカデミア在学中の丸藤亮は、品行方正で絵に描いたような優等生だったと聞いた。長年振る舞って身についた優等生仕草と、魂のままに荒々しく猛るいまの生き方とは、さぞかし食い合わせが悪いだろう。

 亮は険しい顔つきを崩さないままに口を開いた。

「相変わらずの減らず口だな、貴様は」

「…………それはどうも。あなたも鉄仮面がご立派ですね」

 ははは、と乾燥した笑い声を出したのはエドだけだった。会話の糸は瞬く間に途切れ、代わりに沈黙が二人を繋ぎ合わせる。

 どうもやりづらくて仕方がない。皮肉が通じているのかいないのか、額面通りそのままに受け取って大真面目に煽り返しているのか、それすらも判別がつかなかった。

 どうしてこんな男に話しかけてしまったんだろう、とエドはそっぽを向く。とりあえずの知り合いだから、という理由で手を打つのはあまりに雑だ。この会場内に知人などいくらでもいる。現に、亮に声をかけるまでは何人ものお偉方を相手にしていたのだ。腹の探り合いは疲れるし退屈だったが、お世辞と笑顔でうまく立ち回ることはエドにとってはそこまでの苦痛ではない。

 それがどうしてこんな、無愛想で冗談も通じないようなやつなんかに。

 エドが顔を背けた先ではケータリングで鉄板焼きが行われていた。鮮度の良い肉塊が切り分けられ、食欲をそそる音と共に焼き目がつけられていく。

「……肉でも食べてこようかなァ」

「俺に訊かずとも好きにしたらいいだろう。勝手に行け」

「あぁそう。ヘルカイザー、きみも食べるか? と聞いたつもりだったんだが」

 エドの言葉を聞いた途端、亮の切長の目がすっと細められた。小刀のような鋭い目だ。いまの一瞬でなにか彼の地雷でも踏んでしまったか、とエドは少しだけ身構える。

「俺は余計なものは口にしない」

「体型維持かい? それにしては痩身だ。説得力がない」

 違う、と亮はエドの方を向き、藍色の瞳で冷たく見下ろした。まっすぐな鼻筋と小さめの口。こうして改めて正面から見てみると、驚くほどによく整えられた顔だ。人間を真似て精巧に作られた人形、と言っても二割程度は騙せてしまうだろう。無表情だったその口がにわかに開く。

「俺は舌が特別製なんだ」

 彼の片方の手が口元を覆い隠すように広がる。その長く骨張った指の隙間、薄くて立体感に欠ける唇の間から、亮はエドにだけ見えるように赤い舌先をちらりと覗かせた。

「どうも過敏すぎるらしい。あらゆる味は俺にとっては激物と一緒だ」

「激物? どういう意味だ」

「文字通り。舌が鋭すぎて、よほどの薄味か無味でなければろくに食べれもしない。一舐めしただけで、なんの素材が使われていてどういう火入れをしているのか、説明されずとも理解してしまう」

「……驚いたな。そんなの神の舌じゃないか。世界中のシェフがきみを欲しがる」

 ふ、と亮が笑う。

「昔、友にも同じことを言われたな。だが生憎、食事そのものにも興味はない。味見役としては不適格だろう」

「ふうん、そう。せっかく貴重なものを持っているのに、勿体無い」

 エドはグラスの中身を飲み干す。微弱な炭酸が、甘酸っぱさをもってして舌全体を淡く刺激した。林檎の後味も爽やかだ。空いたグラスが手持ち無沙汰になる。

「貴重な舌だろうがどうでもいい。食事など、俺にとっては騒音と変わらない。情報量が多すぎて、……おいしい、と感じたことなど数えるほどしかないからな」

 亮の目が伏せられる。くっきりと濃く一本一本が長い睫毛が目元に影を作る。いつもの気迫に満ち溢れた風格が僅かに曇った気がして、エドは少し考えて彼の顔を今一度覗き込んだ。

「……なんだ」

「いいや、なんでも」

 可哀想だな、とでも言いたかったが、きっと彼はいい気にはならないだろう。その舌が生来のものであるなら嫌というほど言われ慣れているに違いない。その代わりに、「難儀だな」という言葉をエドは呟いた。

「同情も別に不要だ」

「そんなものじゃないさ。ただ、……生きづらそうだなあ、と思ってね」

「……」

 食に興味がない人物にはしばしば会うが、食そのものが苦痛というタイプに出会うのはエドは初めてだった。

 天賦の才を持ち得ているにも関わらず、それがかえって彼自身を苦しめている。限られたものしか口にできないというのなら、この痩身にも頷けた。

 亮はじっとエドを見つめ返している。彼の瞳は底が抜けたように蒼く、なにを考えているのか分からない。寡黙で堅物で秘密主義。エドはこれまで無数の人物と対面してきたが、丸藤亮の思考の読めなさは群を抜いていた。

 ふいに藍色の視線がほんの少しだけ緩む。

「生きづらそう、か。……お前にも俺はそんなふうに見えているんだな」

「お前に『も』?」

「昔の話だ。誰が言ったかは関係ない。ただそう言われることがたまにあった、それだけだ」

「それを言ったの、まさか遊城十代じゃないだろうな?」

「想像に任せる」

 会話を断ち切られ、エドの投げた疑問が宙ぶらりんのままゆらゆらと揺れた。想像に任せる、だなんて、質問の答えになっていないじゃないか。そんなに隠すようなことでもないだろうに。エドの中に些細な苛々が降り積もっていく。

「それにしても、そうか、俺はそんなに生きづらそうに見えているのか……」

「おいヘルカイザー、ボクの質問に答えろ。僕と会話する気なら、もうちょっとコミュニケーションに応じてくれてもいいだろう。秘密主義も大概にしろ」

 エドは亮の正面へわざわざ回り込んで文句をぶつけた。長身の亮と目線を合わせるには顔をはっきり見上げなければならず、彼との身長差を実感してしまい余計に癇に障った。自分が一般的には小柄と呼ばれる部類であることは自覚しているが、これでもまだまだ成長期なのだ。背は当然これから伸びるものだとエドは信じ込んでいる。真正面から見上げた亮はその身長だけで威圧感があり、エドの首はほとんど真上を向いていた。

「おい、ヘルカイザー!」

 亮はぎゃんぎゃんと噛み付くエドを見下ろす。まるで子犬がじゃれついてきているようだ、と感じ、亮は本人も無自覚のうちに柔らかさを伴った笑みを浮かべていた。

「……亮でいい」

「は?」

「亮でいい、と言ったんだ。お前とは知り合ってそれなりになるが、いつまでも『ヘルカイザー』と呼ばれるのは些か他人行儀すぎる、と思ってな」

「そんな話を僕はしていない! ヘルカ……いや、亮!」

「律儀だな。いい子だ」

「子供扱いするんじゃあない!」

 頭を撫でようと伸ばされた手をエドは弾き飛ばす。なにがおかしいのか含み笑いをされていることも苛々を加速させた。マイペースすぎる亮にここまで振り回されていることが癪で堪らなかった。

「まったく、お前と話してると調子が狂う」

「話しかけてくれと頼んだ覚えもないが」

「たまたまだ! お前なんかに気紛れを起こしたボク自身に腹が立っているんだ」

 そうか、と亮は含み笑いを続けている。ここで立ち去ってもよかったが、やられっぱなしのようでそれも自分に納得ができない。なにか少しでもやり返したい気持ちが湧き上がっていく。

 エドはウエイターを呼びつけ、なにかつまめるものを適当に運ぶよう依頼した。間もなく、銀色のトレイの上に二人分のカナッペとグラスを乗せてウエイターが戻ってくる。グラスの中身は左右で違っているようだ。

「俺は食べない」

「そんなこと分かってるさ、ボクが食べるんだ。それにヘル……いや亮、ドリンクくらいは口にできるだろう」

「それもあまり好きではないが……付き合い程度なら飲めないこともない」

 こちらはさっぱりした口当たりですよ、とウエイターは薄い色味のほうのグラスを亮へ差し出す。彼はそれを興味なさそうに受け取り、迷いなく口へ運んだ。

「──っ!?」

 グラスが床に落ちて呆気なく割れた。周囲からの視線が一斉に注がれる。亮は前屈みになり、片手で覆われたその顔は苦々しさに歪んでいた。

「ヘルカイザー!?」

「貴様──何を飲ませた!?」

 なにって、とエドはウエイターへ視線を向ける。ウエイターは突然のことに怯えた様子で、こちらはフランス産の果実酒で、とマニュアルじみた丁寧な紹介文を読み上げた。

「酒じゃないか! おい何してる、ボクたちはまだ未成年だぞ!」

「た、たいへん申し訳ございません! ただリストではヘルカイザー亮様は──」

「生年月日を見落としたただけだろう、聞き苦しい言い訳だ! 大丈夫か亮? ガラスで切ったりしてないか?」

 あぁ、と亮は声を絞り出す。その顔は青白く、首でも締められた直後のように喉と口元を手で抑えている。アルコールなんて単純明快に毒なのだ。それと知ってて飲んだのならともかく、いまのは完全な誤飲で、覚悟もできていなかったのだろう。彼の視線は気持ち悪そうに床へ落とされている。エドは背中を丸める亮に付き添い、一度手洗い場まで向かった。

 

***