味気なくも無い男 - 2/2

 過敏すぎる味覚を持っているとはどういう心持ちなのだろう。

 エドはこれまで比較的裕福な暮らしをしてきた。実の父親が存命だったときも、育ての親であるDDのもとで暮らしていたときも、テーブルマナーが必要になる場面に招待されたことは何度だってある。要するに良いものを食べてきたのだ。

 上流の食事というものは総じて丁寧だ。素材の選定から調理法、提供方法サーブに至るまでどこにも隙がない。その隙の無さがエドにとっては心地よかったし、食事の際にストレスを感じないことは当たり前だった。

 けれども扉一枚隔てた向こう側で吐いている男は、食事が高級だろうが庶民派だろうが関係なくそのものが苦痛なのだという。

 与える側がどれだけ細心を払ったって、それそのものが毒になりうるとでも言うのなら。

 自分が彼にできることはほとんどないに等しい。

「ヘルカイザー、落ち着いたか?」

 エドは扉向こうへ話しかける。しばらく続いていた嗚咽は止み、男子トイレは元来の静寂を取り戻していた。返事はない。まだ気持ち悪さが残っているのだろう、とエドは改めて壁へ背中を預けた。

「(それにしても。あのヘルカイザー亮が、こんなにもひどい下戸だとはね。……まあ、日本じゃ十九歳はまだ未成年だから。彼には悪いが、飲めないほうがまだ正解だ)」

 かつては品行方正な優等生だった彼のことだ、アルコールを口にしたのは今回が当然人生初だったに違いない。そこそこに不良少年であるエドとは別なのだ。酒はうまく飲みこなせれば楽しいが、体質の問題でもあるためあまり粗雑には扱えない。

「(とはいえ、彼はもっとお洒落に大人っぽく酒を嗜んでいそうなイメージが世間一般にはあるだろうな。女性ファンも多いし、こんな姿は到底見せられないな……)」

 長身細身の美丈夫、という形容が丸藤亮にはよく似合う。悪役転向してからは日本刀のような鋭さに野生みが加わり、いまや女性人気は留まることを知らない。

 そんな凛々しく格好いいはずの、連戦連勝を続けるあのヘルカイザー亮がトイレで吐いているところなど。

「(こんな一面を知っているのはボクだけで十分だ)」

 個室の中へまで入って背中をさすることはさすがに憚られた。というか、彼がそれを許さず自分勝手に鍵を掛けた。地獄を経験したとは聞いているが、嘔吐している場面を見せたくない、という自尊心はまだ健在らしい。

 エドは片手に持ったミネラルウォーターのペットボトルを所在なさげに弄ぶ。亮が個室に篭っている最中に一度スタッフルームへ戻り、こっそりとくすねてきたものだ。未開封のまま常温で置かれていたそれは冷たくもぬるくもない。

「おいヘルカイザー、さすがにそろそろ出てきたらどうだ。それとも中で倒れでもしてるのか? 人を呼んだほうがいいなら呼ぶが」

「……」

 やはり返事はない。返事くらいしてくれたっていいだろうに。せめて意識があるのかくらいは反応を示してほしい、とエドは不機嫌そうに唇をまっすぐ結んだ。くすねてきたミネラルウォーターも、彼の気分が落ち着き次第手渡そうとは思っていたがいい加減に待つのも飽きてしまった。

「せっかくこのボクが、きみのためにミネラルウォーターを盗ってきたっていうのに。きみがまだ籠るつもりなら、この水もボクが飲んでしまうぞ」

 再三の呼びかけにも関わらず、扉はただ沈黙を返すだけだ。

 エドはとうとうしびれを切らし、わざと音がはっきり鳴るように仰々しい手つきでキャップを開けた。開栓したそれに口をつけた直後。

 がちゃり、と目の前の扉が空いた。

「──!?」

 手にしていたペットボトルが強引に奪い取られた。と知覚したのも矢先、顔面を強引に捕まれて視界が黒に覆われる。

「!? ッ、う」

 なにか柔らかいもので口を塞がれている。口内になにかぬるりとしたものが入り込み、端から水が零れた。壁に体を押し付けられてしまい逃げられない。ぬるりとしたものは口内に残っていた水をほじくるように持っていき、ごくり、と自分のものではない嚥下音が聞こえた。柔らかいものが離れていく。

「ッ、な、にを、ヘルカイザー!」

「──………………無味、だ」

 ぱち、ぱち、と睫毛のすぐ上で星が砕けたような音を立てて亮は目を見開く。心底意外だというふうに、はじめて海を見た子供のように、その目はある種の感動に満ち満ちていた。

「はぁ!? なんの話をして、っ……」

 有無を言わせない雰囲気でエドは亮に再び口を塞がれた。壁と彼の体躯に挟まれてしまい、抵抗することができない。先ほどとは毛色の違う、強引ではあるが楽しむかのようなキスをされている。何度も唇の表面を重ねられるうちにじわじわと力が抜けていき、また口内への舌の侵入を許してしまった。

「ン、ッ」

 背中側から妙な感覚が這い上がってきそうだ。だがエドはされるがままに口を喰まれるうち、わずかな違和感に気が付いた。溺れるにしてはこの味は不快だ。甘さとはほど遠い、それどころか真逆の、苦くて酸っぱくて粘膜が軋むような、この味──。

「──ッ離せ!!」

 エドは片膝を持ち上げて亮の脚を蹴り上げた。黒く薄っぺらい巨躯がエドから剥がれていく。その拍子に蓋が開いたままのペットボトルから、ばしゃん、と中身が幾分か床へ撒かれた。エドは手の甲で唇を拭う。

「ヘルカイザーお前……まさか、吐いた口で、ボクに……!」

 エドは激昂し亮からペットボトルを取り返す。胃液のような味がうっすらと口内に広がっていて不愉快極まりなかった。消化器官を洗うように水を飲む。一気に飲んだせいでペットボトルの中身は半分ほどに減った。

 きつい目線を亮へ向けると、彼はばつが悪そうに顔をやや俯かせて「悪かった」と宣った。

「悪いと思うならこんなことするな!」

「本当に悪かった。お前が喧しくて黙らせたかったのは確かなんだが……声が頭に響いてしまってな……どうかしているな俺は……」

「……っ、仮にそうだとしても、二回もやる必要はないだろう!」

 喧しい、と言われること自体エドにはよくあることで、慣れているつもりだった。だが、いまこの場でそういった発言されるのはどうも我慢ならない。きみのために付き添ってやったのに、という善意を無碍にされているのだ。そんなにこの善意は邪魔だったか? 迷惑なお節介だったとでもいうのか? やり場の見つからないフラストレーションが積み上がっていく。

 亮はまだ気分の悪さが回復しないのか片手をこめかみに添え、もう片方は顔の下半分を覆っていた。逸らされていた視線が、きまり悪そうにエドへ向けられる。

「……悪かった。二度もした理由は……いや、こんなこと言うべきではないな。よそう」

「おいっ、なにも説明しないつもりか!? そっちのほうが失礼だ、言わなきゃいけないことがあるならいまここで言うべきだろう!」

 エドは下から亮の胸ぐらを掴み上げた。体格差のせいでたいした威嚇にはなっていないが、パフォーマンスとしては少なからず有効だったようで亮は居心地悪そうに顔を曇らせる。ぐ、とたじろいだ様子で彼の眉根に皺が寄る。

「二度目は……お前の口の中が、無味だったからだ」

「無味?」

「味がなにもしなくて驚いたんだ」

「なんだそれは? ボクをバカにしてるのか。そんなの、直前まで水を含んでいたからだろう」

「かもしれないな」

 回答にどうも納得がいかず、エドは八つ当たりするようにわざと乱暴に亮を突き放す。口の中なんて無味に決まっている。それでもわざわざそう発言したのは、過去にキスをした時はなにか別の味でもしたというのか。過去にキス? 亮ほどの人気ともあれば引く手も数多だろうが、それがどうして何故自分に。正体の見えないもやもやに、エドの思考回路は混線を極めていく。

 亮は衣服を直しながら、そっと忍び込むようにエドの顔を覗き込んだ。

「エド」

 切っ先のような蒼い髪がエドの視界に差し込む。

「なんだヘルカイザー。謝られてもボクは許さないからな。この話は、いざというときの切り札として利用してやる。いいスキャンダルになるだろうな」

「……すまなかった。どう思ってもらっても構わない。全面的に俺が悪い」

「ハッ、そんなにしおらしく振る舞うのは演技か? それとも酔いでも回ってるのか、ヘルカイザー」

「……そうだろうな。酔っているのかもしれない。ただ」

 亮の顔の下半分を隠していた手がおもむろに剥がれる。その下の皮膚はうっすらと赤みを帯びていて、やはり多少なりともアルコールが回っているのだろうと分かった。肉付きの薄い骨張った彼の手が、エドの顎を掴んで軽く上へ持ち上げる。

「味が無いというのはいいことだ。それだけ清潔で、綺麗ということなのだろう。それに、無味なら俺でも味わえる」

「……」

 底抜けの蒼い瞳が柔らかくエドへ注がれている。

 ──彼の考えていることが全く読み取れない。その端正な顔立ちと唇から紡がれる言動ひとつひとつに、納得できる説明が欲しい。

 彼がなぜこんな振る舞いをするのか見当を立てることはできても確信が持てず、真意を知りたい気持ちばかりが溜まっていく。エドはなぜだか言葉を返すことができなかった。

 無言でいるエドを亮はじっと見つめ続け、ふと思い出したように再び口を開いた。

「そうだ。それと、もう一つ」

「……なんだヘルカイザー。まだなにかボクを挑発するのか」

「呼び方。亮でいい、と言っただろう」

 カッ、と導火線に火が着いた音が聞こえた気がした。

「名前でなんて、絶対に呼んでやるものか!」

 咄嗟に顎を持っていた亮の手を払い除ける。マイペースすぎる亮に振り回され、エドの調子は完全に狂ってしまっていた。当の亮はと言うと、なにが楽しいのかこちらを見てささやかに微笑んでいる。

「なにがおかしい!」

「呼んではくれないのか、残念だ。それに。エド、……お前は案外ピュアだな」

「──いいかげんにしろ、この酔っ払い!」

 会場に先に戻る、と言い放ち、エドは手洗い場を後にする。あんな男に話しかけて、情けまでかけてしまったのは本当に間違いだった。苛立ちが体外に放出されているのか足取りはずんずんと力強く早い。ふと、まだ中身の残ったペットボトルを持ったままであることに気がついた。

「……ああもう!」

 エドはくるりといま来た道を引き返す。こんなものを持ったままパーティー会場に入るわけにもいかないから、両手を空けておきたいから。理由はただそれだけだ。

「おいヘルカイザー! 戻るならせめて、これを飲み切ってから戻れよ!」

 洗面台で手を洗おうとしていた彼へ向けて、エドはペットボトルを放り投げた。亮はそれをすかさずキャッチし、どこかフワフワした顔つきで「ありがとう」と言った。

「案外面倒見がいいんだな、エドは」

「勘違いするなよ。酔っ払いが心配だとかそういうのではないからな。ペットボトルなんて持ってちゃスマートにパーティーへ戻れないだろう。きみにくれてやったほうが都合がいい、それだけだ」

「フ、そうか。一般的にはそれを面倒見がいいと呼ぶんだ」

「うるさいな、黙ってそれを飲んでろ!」

 亮はペットボトルを開け、わずかばかり口元に笑みを湛えてそれを飲んだ。水は無味でいいな、と満足げに彼が言う。そういえばこれは間接キスにあたるだろうな、という考えがよぎる。だが口に出すと余計にからかわれそうで、ぐっと喉の奥へ押し込むしかなかった。

 いつも険しく厳しい顔つきの亮に生柔らかく微笑まれるなんて、こころがどこかへ攫われてしまいそうで仕方ない。こんなにボクを掻き乱してくれるなんて、近いうちに必ず仕返しをしてやる、とエドは胸中でそう誓った。

 
 
 


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